たまに書いている憤死シリーズ。
憤死の大御所
三国志編は以前やったので、今日は日本人に限ってみます。
三国志のときは全員見つけようと頑張ったのですが、時間はかかるし、内容はイマイチだしということで、今回はおもしろそうな人だけ選んで重点的に行ってみます。
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早良親王(さわらしんのう) 奈良時代末期の、光仁天皇の皇子です。
「母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた」とあるのですが、同じ母のお兄さんは桓武天皇であり、立派に天皇になっています。サラっと書かれているだけなので、経緯がよくわかりません。
781年、その兄の桓武天皇の即位と同時に、光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子されたとありますので、兄の出世のお陰で状況が変わったということでしょうか?
しかし、「延暦4年(785年)、造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座して廃され、無実を訴えるため絶食して淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で
憤死」します。
この藤原種継暗殺事件で早良親王の関与が疑われたのは、先のお坊さん時代のことが関係あるようです。
種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つに、「東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除」がありましたので、当然東大寺などは遷都を快く思っていなかったと思われます。
そして、早良親王はかつて東大寺にいて、開山である良弁が死の間際にに後事を託したとされる他、還俗後も寺の大事に関しては必ず相談されていたという近さであり、南都寺院側の勢力とみなされても仕方ないところがありました。
死後は日本でお馴染みの祟り神パターンで、「桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水など」を経て、崇道天皇と追称されました。
ところで、憤死についてですが、先の書き方だと「憤慨のあまり死んだ」のか、単に「無念に思いながら死んだ」のかわかりませんね。
絶食していたそうですから、後者かもと思いましたが、
早良親王 - 歴史くらぶもやはり「配流の途中、衰弱して河内国高瀬橋付近で
憤死したとされている」という書き方。
これは
現代の憤死で想定したものともちょっと違いますが、「(3) (比喩的に)自殺。特に抗議を込めたもの」に近いパターンかと思います。これも昔から使われた用法なのでしょうか?
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水野忠徳 一人目だけでずいぶん長くなっちゃったので、あとはなるべくさっくり行きたいです。
水野忠徳は幕末、主に対外政策で活躍した幕臣で、おもしろい人物なのでいつか書きたいと思っていた人。でも、憤死だったとは覚えていませんでした。
この人は強硬な主張がおもしろいのですが、まず、1862年7月に公武合体に反対して、箱館奉行に左遷され、9月に辞任。
しかし、1863年6月、老中小笠原長行が京都で人質同然となっていた14代将軍徳川家茂奪還のため、幕府陸軍1500を率いて大坂に向かった際には同行。忠徳は承久の乱を再現させ、攘夷派を軍事力をもって粉砕することを主張しましたが、長行に受け入れられません。結局、忠徳はこの事件により同月謹慎に。
1868年(慶応4年)1月には、鳥羽・伏見の戦い後の江戸城に於ける評定で、新政府軍に対する抗戦継続を強く主張するも、これまた慶喜によって主張が容れられず、隠居。
憤死はこの後で、「武蔵布田宿に移住したのち、間もなく病に倒れ慶応4年7月9日、59歳で死去。
憤死とされる」とあります。これも失意の内に死ぬという使われ方の憤死ですね。
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矢部 定謙(やべ さだのり) 矢部定謙も江戸時代後期の人ですが、時代はもうちょっと前。先の水野忠徳の親戚じゃないかと思う水野忠邦の天保の改革のころです。(記憶違いかも、確認取れませんでした。ややこしいことに同姓同名で別人がいて、田沼意次の四男田沼意正が水野家に養子に入ってた頃の名前です)
この天保の改革に矢部定謙は反対しており、「遠山の金さん」でお馴染みの遠山景元と協同して対抗していたようです。
「当時の価格騰貴に対して株仲間の責任を追及し、水野や藤田東湖らがその廃止を求めた際にも、一部の商人の華美な生活態度にも問題があるものの、物流上の様々な制約が最大の一因であり、急激な株仲間の廃止は、却って混乱を招いて人々を苦しめると主張した」他、「大塩平八郎の乱の時も、旧知の大塩を擁護する意見を吐いたり、水野とも政治上の意見で対立」しました。
このうち、株仲間については、「没後、株仲間の急激な廃止政策が経済界に混乱をもたらし、却って人々を苦しめる事になったために、定謙の見識の正しさが証明され」ています。
Wikipediaでおもしろかったのは、
「剛直な性格で、若い頃、先輩が定謙をいじめようと弁当の残りでお粥を作ることを命じた。腹を立てた定謙は、お粥に灯明の油を入れて先輩に食わせ、大騒ぎとなった。このことが上司に知れて定謙は辞表を出したが、かえってその態度が立派であるとして許され、先輩が処罰された」
というところに、「現在のパワーハラスメント」と注釈をつけていたところです。
憤死については、
鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)の記載と合わせて紹介します。鳥居 耀蔵は誰でも知っているというほどじゃありませんが、時代劇では悪役として結構名が売れていると言われています。
矢部は天保12年(1841年)、鳥居の策謀により南町奉行を罷免されます。後任の南町奉行はちゃっかりその鳥居ってのが、またむかつくでしょうね。
矢部家は改易、定謙は伊勢桑名藩に幽閉となりますが、ほどなく絶食して
憤死するということになります。これも絶食パターン。
今回はここまで。3人だけなのにすごい時間がかかりました。
それにしても、怒ってカーっとなってという憤死が一つも無かったのにはびっくり。辞書の憤死の項目は書き換えないといけないのでは?と思います。
次回は世界の憤死を調べる予定ですけど、また忘れた頃に……ですね。
続き
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憤死した歴史上の人物2 ~日本人2 憤死神社編~ 関連
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憤死した人物(三国志編) ■
現代の憤死 ■
鎖国の良かった点、悪かった点 ■
おすすめ三国志占い1 ~月旦評~ ■
憤死とは~本当に憤死なんてするの?~ ■
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