2023/06/04:
一部見直し
●童話作家アンデルセンは、自身の生い立ちもまた童話のよう
2011/11/12:日本では「アンデルセン」という呼び名ですっかり馴染んでいるのですが、実はこれ、間違った呼び名の模様。しかも、元の呼び名と全く似ておらず、どこをどうしてそうなったのか?というレベルです。ちょっとやそっとの間違いではなく、もうほとんど捏造といった感じの間違いでした。
マッチ売りの少女―アンデルセン童話集 3 (新潮文庫)
のあとがきによると、アンデルセンという呼び方は、日本だけの呼び名であり、「デンマーク流の発音はアナスン、アネールセンに近いのです」としています。
Wikipediaでは日本語だと「ハンス・クリスチャン・アンデルセン」で、デンマーク語読みでは "ハンス・クレシテャン・アナスン"もしくは、フルネームを略したH. C. Andersen(デンマーク語読みで "ホー・セー・アナスン" )と呼ばれるとしていました。
しかし、前述の通り、日本語ではなぜかアンデルセンですっかり定着。グーグルで検索すると、製パン会社の名前としてのアンデルセンがたくさん出てきますし、これからもずっと何らかの形で残っていくものと思われます。
でも、今日は童話の方のアンデルセンのお話です。アンデルセンの童話と言って、思いつくものは何でしょう? 超のつく有名どころだけでも、『みにくいアヒルの子』『マッチ売りの少女』『人魚姫』『親指姫』『雪の女王』(カイとゲルダの話)などがああります。これもアンデルセンだったのか!と私が驚いたのは『裸の王様』ですが、『パンをふんだ娘』なんかも知っている人が多い作品だと思われます。
先にも書いた
マッチ売りの少女―アンデルセン童話集 3 (新潮文庫)
のあとがきにおいて、訳者の矢崎源九郎さんは、アンデルセンの人生は先程真っ先にアンデルセンの作品として挙げた代表作『みにくいアヒルの子』そのものだと言っています。
このあとがきによれば、アンデルセンはよく物語を聞かせる父と、信仰心の厚い母の間に生まれました。このうち、父からは後の作家への影響を受けたのは容易に想像できるでしょう。ただ、個人的には彼の作品にどぎついキリスト教色を感じることが多いので、母の影響も絶大だったように思われます。
しかし、11歳で父を失い、彼の幸せな日々は終わりを告げました。14歳のときには俳優を目指してオーデンセから首都コペンハーゲンへと向かいましたが、結局舞台に立つことは叶わず。その後、今度は声楽家を志しますが、これも叶いません。挫折の連続です。しかも、その間彼はろくに学校教育も受けていなかったため、ものを書いても間違いだらけという有様でした。
それでも、アンデルセンはコンリという人に見出されて、その助力を受けることができました。お陰で先に書いたような学力だったのが、大学まで卒業。卒業後は旅から旅とさすらう人生となります。
その旅行の間に書いた最初の小説『即興詩人』が認められて、アンデルセンにも「ようやく幸福の花が開き始めてきたのです」。こういったドラマチックな生い立ちが、訳者曰く「彼の一生は、まったくおとぎばなしのようでした」という由縁なのでしょう。
ただし、『即興詩人』のあとの童話の第一集は不評だった模様。これらは4作中3作が伝承ベースであり、その後は創作童話に重点を移し、3作目の童話集の中の『人魚の姫』で地位を確立したようです。アンデルセンの本当の成功は、もう少し後といえる感じでした。
とりあえず、これらを踏まえて、「アンデルセンの一生そのままである」と言われているという『みにくいアヒルの子』を見てみます。そうすると、童話の中の出来事は、それぞれアンデルセンの人生においてそれぞれ表しているのだとされていました。
鳥飼い場 = オーデンセ時代
沼の生活 = 学生時代
おばあさんの家 = コリンの家庭
正直言うと、それぞれの内容が似ているのかというと疑問なのですけど、とにかく、おそらく「みにくいアヒルの子」が最後に美しい白鳥になっていたというのは、アンデルセンが世に広く認められた、といった捉え方なんでしょう。アンデルセン自身がアンデルセン作品的な人生であったという見方には、私も賛同します。
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