問題1 桶狭間の戦いの話。簗田正綱の情報で今川勢の行動を知った織田軍は、今川義元を討ち取ることに成功します。義元の一番槍は服部小平太(一忠)、首級を挙げたのは毛利新助(良勝)でした。信長が第一の功としたのは誰でしょう?
(1)簗田正綱
(2)服部小平太
(3)毛利良勝
答え1
(1)簗田正綱
選択肢を与えなければ、ものすっごいずるい引っ掛け問題だったのですけど、そうはしませんでした。
簗田正綱(やなだまさつな)は沓掛の国人です。
【第1回】織田信長の“情報重視”と“危機管理”という記事によると、"清洲城に凱旋した信長は、義元勢の行動を通告した簗田を第一の功、一番槍の服部を第二の殊勲、首級を挙げた毛利を第三の手柄とした。"ということです。
"情報重視の信長らしい判断基準が垣間見よう"と記事にはありますが、はっきりと情報の大切さを認識していたということです。
"情報というものは、常日頃から伝達回路をもっていなければ、いざというときに、何の役にも立たない。戦国の織田家では、どのような些細な事柄でも、トップの信長の許へ届くように、家臣たちに習慣づけられていた。
では、信長は“情報”の価値を、家臣たちに、どのようにして知らしめたのであろうか。「大うつけの鷹狩り」と諸国の大名から冷笑された、信長独特の鷹狩りが、その機微を如実に物語っていた。"
信長は鷹狩において、予め農民に偽装させた斥候を放っていたそうです。
↓次の問題
問題2 織田信長の父、信秀には10人以上の男児がいました。では、信長は信秀の何番目の息子だったでしょう?
(1)長男
(2)次男
(3)末男(まつなん)
答え2 最初に戻る →
戦国武将クイズ1 織田信長編
Appendix
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