日本においては、1949年に第二次世界大戦以前の刑事訴訟法に代わって現行の刑事訴訟法が施行されて以後も、冤罪または冤罪の可能性が高い死刑確定判決と死刑囚が存在した。死刑判決が確定し死刑囚になったが、冤罪の可能性が高いと判断されて執行されずに再審で無罪になった(松山事件、島田事件、財田川事件) |
第二次世界大戦以後は、裁判所が死刑判決をした事件でも、法務省は無実・冤罪の疑惑があると認識している事件では、法務省は死刑囚を執行せず、裁判所が再審請求を受理して無罪判決をする(免田事件、島田事件、財田川事件、松山事件) |
藤本事件では死刑執行から40年以上経過した2005年になって国の検証会議が「到底、憲法の要求を満たした裁判であったとはいえまい」として不正裁判による誤判であったと指摘している |
第一の事件 熊本県菊池郡水源村(現在の菊池市の一部)の村役場衛生課職員(当時50歳)の自宅にダイナマイトが投げ込まれたのは1951年8月1日のことであった。ダイナマイト自体は完全には爆発しなかったが、職員とその子供が軽傷を負った。 (中略) 第二の事件 男性はダイナマイト事件1審判決直後の1952年6月16日に恵楓園内の菊池拘置所から脱獄した。逃走後の7月6日に村の山道でダイナマイト事件の被害者職員が全身20箇所を刺され惨殺されているのが発見された。警察は男性が恨みによって再度の犯行に及んだとして、山狩りを行い、7月12日に男性に拳銃4発を発砲し、右腕に負傷を与え逮捕した。 (中略) 懲役刑および死刑の確定後も男性は通常の刑務所や拘置所に移送されることなく、恵楓園内の菊池医療刑務支所に収容されたまま3度の再審請求を行ったが、いずれも棄却された。1962年9月14日午前中、男性は福岡拘置所へ移送となり、同日午後1時ごろ死刑が執行された。3度目の再審請求が棄却となった翌日のことであった。 捜査および裁判に対する疑問 (中略) 捜査段階 * 銃弾を受け負傷していたにもかかわらず、充分な手当てがないまま取調べが行われた。 * 被疑者の逮捕時に着ていた上着に血痕がなく、所持していた短刀からも血痕が確認できなかった(裁判官は水で洗ったためと納得した?)。 * 凶器が自白調書では鎌、起訴状では短刀と二転三転した。 * 唯一の有罪の物的証拠は、被害者と同じA型の血液がついたタオルであったが、処刑された被疑者も同じA型だった。 * 捜査官の被疑者の扱いが、ハンセン病に感染することに異常なまでに恐れ、人権面に配慮が全くされていなかった。 裁判 * 被告人が全面否認しているにもかかわらず、国選弁護人が全く被告人のための質問を行わず、検察官の提出書類に全面同意した(このような行為は憲法が保障する弁護権を全く保障されなかったに等しく、法廷における防御権の侵害でさえある)。 * 第一の事件と同様、第二の事件も審理が裁判所ではなく療養所内に設置された特別法廷で行われた(最高裁がこれを認めた為)。そのうえ被告人のハンセン病は軽度で他人に感染する危険性がないにもかかわらず、裁判官、検察官、弁護人らは感染を恐れ白い予防服を着用し、証拠調べの時にはゴム手袋をはめた手で長い箸でつまんで被告人に示していた。なお、裁判自体は公開され、支援者等が傍聴している。 * 被害者一人で死刑判決は数多くあるが、当事件のように殺人の前科がなく金銭目的や強盗目的の殺人事件でもないのに死刑は厳しいといえる。(後略) 藤本事件より |
十分配慮し、その完全な手続的保障の下で捜査・裁判が行われることを要求したものと言える。このような手続的保障が十分に尽くされてはじめて、裁判官は、自らの心証で、事実の認定を行うことが許されるのである。こうした視野に立った場合、藤本事件は、到底、憲法的な要求を満たした裁判であったとはいえないだろう。 |
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