ある日、警察や自衛隊が昼過ぎに一斉にいなくなった。普段は夕方まではいる。村田さんは「何かが起きた」と咄嗟に感じた。数日後、新聞が原発にさらなる爆発の可能性があったことを報じた。 村田さんは、岩手や宮城での自衛隊や警察の捜索活動は評価しながらも、福島での活動については冷めた目で見つめる。 「こんなことが、もう4回も起きている。自衛隊や警察は、危険を察知するといち早く避難する。その情報を、地元の消防団員やここに残る住民に伝えない。住民は自衛隊や警察だけでなく、政治も信用していない」 そして、消防団員らに気を配る。団員は何も知らされることなく、腐敗が進んだ遺体の捜索を今も続ける。 「ここでは立場が強い者が身を守り、弱い者が死の恐怖を味わわされる。亡くなった人、それを助けに行くこともできない家族、若い警官、消防団員、そして動物」 |
一行の使命は、自衛隊ががれきの中に道を作るために“先兵”としての役割を果たすことだった。 まず、地元の消防団員ががれきの中を案内する。「ここに道があった」「ここには小さな川があったんだけど」そう言いながら進む彼らの後を、村田さんとレイラ、さらに自衛隊員らが続く。 団員らが「ここに人がいるかもしれない」と言うと、村田さんの「サーチ」の指示に従い、レイラががれきの中に入っていく。遺体が見つかると、隊員はそこに旗を立てる。後から来る他の部隊が、それを収容する流れになっていた。 |
警察・消防・自衛隊・海上保安庁に対して事実誤認が多い。たとえば、4月末くらいまでは自衛隊を盛んに称える人たちがいた。 この人たちは、消防団をさほど評価しない。消防団は、津波により250人以上の死者を出している。現地で見ていると、消防団は年間2~3万円の報酬で精力的に動く。自衛隊のような組織力はないのだが、初期出動が早い。 自衛隊ががれきを取り除き、道を作るときも、その先兵として「ここには川があった」とか「ここには電柱があった」と案内をしていた。多くの遺体を扱ったことで心を病み、精神科に通院する団員が今もいる。 自衛隊を称える人たちは、「国を愛する」と言いながら、消防団員に関心すらない。今回の震災の最大の功労者であり、犠牲者であるにもかかわらず……。 さらに矛盾がある。「自衛隊は国民から認められた」と言うが、私が被災地で感じ取ったのは「災害派遣専門の自衛隊」「何でもしてくれる自衛隊」を認める声や空気であった。「軍隊の自衛隊」を認めようというものではない。 「自衛隊は国民から認められた」という表層的な捉え方こそ、「事実に基づかない」という意味で自衛隊を軽く扱い、国防を軽視しているのではないか。 案の定、「何でもしてくれる自衛隊」を裏付ける出来事が起きた。9月に台風12号が和歌山県などを襲った。私が現地に行き、住民の声を聞くと、自衛隊への不満が強い。 東北の被災地での自衛隊の活動を知り、「家の中の泥まで取ってくれると期待していたのに……」と漏らす人がいた。自衛隊がここまで対処する必要があるのかどうか、私には疑問に思える。実は、この誤解が一段と防災力を弱くする。 今回の震災で教訓とすべきは、警察・消防・自衛隊・海上保安庁といった公的な機関の救助には限界がある、ということではないか。ここを起点に、今後の防災は自治体、企業、学校、市民を抱き込んだ組織的な体制に変えないといけない。 警察については、連載第5回で紹介した通りである。この記事で、警官らは「大災害の際は、住民を守ることはできない」と明言をしている。警官がここまで言い切ることは、私の知る限り少ない。 この意味を考え、私たちは身を守る策を考えるべきなのだ。ところが、日本の社会は「警官が〇人殉職」という報道だけで思考を停止し、今後の防災について建設的な議論に発展しない。 自衛隊、消防団、警察に対しての前提の認識にも誤りがある。自身の身、地域や社会、国を守るのは私たちであり、警察・消防・自衛隊・海上保安庁はその前線にいる人たちでしかない。警察・消防・自衛隊・海上保安庁は外国の傭兵ではないのだから、彼らを称えて終わりではない。 |
「私たちが最も考えるべきは、遺族のこと。だが、今や震災について語る人すら少ない」 明治大学商学部教授の福田逸氏は、そう疑問を投げかける。(中略) 「今回の震災では、阪神淡路大震災などと比べると、行方不明者がはるかに多い。今になっても “戻らない死者”を待つ遺族もいる。その人たちの心がわからない人が、原発の危険性について語っても説得力がない」 福島で爆発した原発を憂いながらも、遺族について語り続ける。原発は必ず人類の英知が克服する。そのような原発に囚われるよりも、遺族に重きを置くことにこそ強い関心を払うべきというのが、この震災に関する福田氏の強い信念である。 「被災地では、2万人近くの人が死者・行方不明者となっている。3月11日、この人たちはたまたま、あの地にいたから巻き込まれた。もしかすると、我々が震災に襲われていたのかもしれない。2万人の死を自分のこととして受け止めることができないこの国は、何かが間違っている」 |
三陸地域は、全国の津波常襲地帯の中でもナンバー1と言えるほどの、堤防や防潮堤をいくつも造ってきた。その一方で、各地域での避難訓練の参加率(地域全体の人口からみた参加者)は5%以内が多い。 堤防、防潮堤などのハードを作り、徹底して避難するという意識、つまり、ソフトを置き去りにしてきたのである。このことを防災学者らは、私の記憶で言えば1990年代から警告してきた。 ソフトを変えることができないまま、あの日を迎えた。ここまでの流れをメディアや識者、多くの人が押さえていたならば、「かわいそう」で終わることはなかっただろう。「なぜ、避難が遅れたのか」「どこに原因があったのか」「それを今後、どうすべきか」といった地に足をつけた議論ができたのではないだろうか。残念ながら、これもできなかった。 「避難が遅れた」ことを身に染みるほどにわかっているのは、(4)で述べた遺族である。取材のとき、大半の遺族は家族の避難が遅れたことを認める。そのときの表情を、私は直視することができない。訥々(引用者注:とつとつ。口ごもりつつの意)と口にするのだが、そこまで意識が辿り着くのには、苦しいことの極みだったに違いない。 |
私は、この国を信じている。私が知る防災学者や地震学者、防災の研究者らは、その後も被災地に入り、様々な研究を続けている。もしかすると、空しい努力かもしれないが、これだけの死者・行方不明者が出た理由を見つけようとしている。私が取材をしてきた警察や消防、海上保安庁などは、今も遺体捜索を続ける。 先日、震災直後に被災地で検死をした医師を都内で取材した。「警察などから検死の日当をもらっていたのか」と聞くと、「そのようなものはいらない」と答えた。理由を尋ねると、「国の一大事だから……あの人たちを放っておけなかった」と述べた。この国にはこういう医師がいる。 |
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