1948年12月30日午前3時頃、熊本県人吉市で祈祷師夫婦(76歳男性・52歳女性)が殺害され、娘2人(14歳と12歳)が重傷を負わされ、現金が盗まれた。現場検証から犯行時刻は12月29日深夜から翌12月30日午前3時の間とされた。翌1949年1月13日、警察は熊本県球磨郡免田町(現あさぎり町)在住の免田栄(当時23歳)を、玄米を盗んだ罪で別件逮捕し、同月16日には殺人容疑で再逮捕した。この3日間余りの間、警察は免田に拷問と脅迫を加え、自白を強要する。同月28日に強盗殺人罪で起訴。免田は第1審の第3回公判で自白は拷問で強要されたものであり、事件当日には特殊飲食店の女性と遊興しておりアリバイがあるとして無罪を主張。 警察はアリバイの捜査を行うが、アリバイ証人に対し「一緒にいたのが翌日」というように証言を誘導させた。また、検察は証拠品である凶器の鉈(なた)、免田が犯行時に着ていて血痕が付着していたとされる法被(はっぴ)・マフラー・ズボンなどを廃棄する。 (中略) 再審ではアリバイを証明する明確な証拠が提示されたこと、検察側の主張する逃走経路に不自然な点が見受けられたことなどが指摘され、1983年7月15日、発生から34年6ヶ月後、死刑囚に対しては初となる再審無罪判決が言い渡される。刑事補償法に基づき、死刑確定判決から31年7ヶ月の拘禁日数12,559日に対して免田に9,071万2,800円の補償金が支払われた。 無罪が確定されたにもかかわらず、その後の免田に対する批判が続いた。当時としてはけた違いの多額の補償金を何に使ったとか、出所後の行動(女性関係など)を週刊誌が報道したりした。 週刊朝日など数社の週刊誌が、「あの人は今」のようなコーナーで写真つきインタビューを掲載する。刑事補償金の半額以上を弁護団や支援団体に謝礼として渡したこと、拘置所にいた間は年金に加入できず現在も年金は受け取っていない状態であること、無罪確定後に結婚した妻と2人で細々と暮らしていること、ほぼ毎日釣りに出かけていること、無罪確定から数十年を経た現在も社会には偏見があり、なかなか一般の人との付き合いは難しいことなどを語っている。これは地元では特に根強く、公共の場で冤罪であると発言することすらはばかられる事もある。なお、免田は拘置所から出所後、いったん地元に帰ってきて歓迎されたが、真犯人が不明なことや巨額の補償金を受け取ったことなどで、地元で平穏に暮らせず、他の市に引っ越した。 |
1955年10月18日、宮城県志田郡松山町の農家が全焼し、焼け跡からこの家に住む一家4人である家主(当時54歳)、家主の妻(当時42歳)、夫婦の四女(当時10歳)と長男(当時6歳)の焼死体が発見された。遺体解剖の結果、長男以外の頭部に刀傷らしきものが認められ、殺人および放火事件として捜査本部が設置。 事件発生後、1ヶ月で捜査は暗礁に乗り上げ、犯行当日以降に地元を去った人間を調査したところ、東京の板橋区に勤務していた斎藤幸夫(当時24歳)が浮上。12月2日、警察は斎藤の身柄を拘束するため、示談成立している喧嘩を傷害事件として別件容疑に、東京に勤務している事実を家出と偽り逮捕状を請求して逮捕。(中略) * 1960年11月1日に最高裁で上告が棄却、死刑が確定。 (中略)1979年12月6日に再審が認められる。警察は留置所に前科5犯のスパイを送り込み、「警察の取調べで罪を認めても、裁判で否定すればいい」と斎藤に言って自白に追い込んでいたことが判明。また証拠とされた男性の掛け布団の血痕は、警察の捏造であるとされた。 1984年7月11日、無罪判決。28年7ヶ月にも及ぶ獄中生活に終止符が打たれて無罪となった斎藤は7516万8000円の刑事補償金を受け取るも、裁判費用の借金返済に消えた(再審請求以降の裁判費用は借金ができず、支援団体のカンパでまかなっていた)。 |
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