以前、
鎌倉幕府成立は1192年じゃなくて1185年 ~室町幕府も変化?征夷大将軍は無関係~という話を書いたのですけど、これが引用されている記事があったので見に行ったら「鎌倉幕府の年号が1192年じゃなくなったのは左翼のせい」といったことが書かれていてたまげました。
「えっ、何それ?どうしてそうなった?」と思って検索すると、私の読んだ感じではどうも小林よしのりさんが原因っぽいです。
個人のブログですし、私は右翼も左翼もどっちも正直あんまり好きじゃない(どちらの方も怒らないでね!)ので引用をためらいますが、こういった記述がありました。
小林氏は教科書で鎌倉幕府が開かれたのが1192年から1185年に変更されていることを天皇の影響力を小さいと考えたい左翼の陰謀、という趣旨で批判していた。1185年に守護・地頭が設置されて西国にまで頼朝の力が及んだことを以て幕府開設、と見なすのは反日サヨクの陰謀だと言う。
要するに1185年に鎌倉幕府の開設を認めるのは反日サヨク的な学説である、ということである。
鎌倉幕府はいつ開かれたのか(2009-05-30 我が九条-麗しの国日本) |
でも、こちらのページできれいに否定されていますし、良いブログだと思います。
と言うか、私はブログタイトルを見てドン引きしたところがあったのですけど、九条家の九条がタイトルの理由みたいです。
では、反論部。
1185年に鎌倉幕府成立の画期を認める古典的な学説は牧健二『日本封建制度成立史』である。この著で牧は所領を媒介とした主従関係を歴史上の制度に高めたものとして守護地頭設置の勅許を評価し、それを以て鎌倉幕府が成立した、と主張した。小林氏の理屈に従えば、牧健二は反日サヨクとなる。牧がこの著作を著したのは1935年、すでに左翼運動は弾圧され、言論統制はしっかり敷かれていた。この時代の大家の著作をサヨク呼ばわりするのは難しいと思う。牧の著作は当時通説として扱われていた。時々何も知らない人が「封建制というのはサヨク用語で、戦前にもサヨクはいた」と知ったかぶりを披瀝することがあるが、牧健二の業績も知らずに戦前の封建制研究に言及するのは、いわば四則計算もできないのに二次方程式を解こうとするようなものである。
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もう一つ、
『天皇論』 小林よしのり 著(切られお富! 2009-06-23 23:59:59)というところから。
①「今の歴史教科書が鎌倉幕府の成立を1192年じゃなく、1185年としているのは天皇の権威を貶める左翼学者の策謀」だという主張
1192年は源頼朝が征夷大将軍になった年で、1185年は守護・地頭設置の年なんですが、そもそも「源氏の系統が征夷大将軍になって幕府を開き政権を樹立する」という筋書き自体は、後世になって徳川家康が自分の政権の正当性を神話化するために作ったもの。(だから、徳川家康は自分の出自を偽って源氏の「血筋」を買うわけ。)
つまり、12世紀の段階では「征夷大将軍」という役職の任命はあまり重いものではないんですよ。むしろ、鎌倉政権の実権が機能するのは守護・地頭の設置権を得たことによるところが大きい、というようなことは少なくともわたしが高校生のときからいわれていた話 |
あとは、
鎌倉幕府成立は1192年じゃなくて1185年 ~室町幕府も変化?征夷大将軍は無関係~の内容も再び振り返ってみます。
とりあえず、前回冒頭の部分。
「1192年に幕府を開いた根拠として任命された征夷大将軍という地位は、頼朝が朝廷から軍事権力を奪うためにあえて任命させた官位で、地位としては1190年に任命された右近衛大将よりもずっと低いものでした。 |
これは今回二つ目の引用部と重なる話です。
それより笑っちゃうのは、この直後の部分。
ちなみにこの右近衛大将という官位は武官の最高位でしたが、“天皇の近衛兵”という立場だったため頼朝は任命されてからたったの10日で辞任してい」る |
(右近衛大将より左近衛大将の方が高いようですので、正確にはこちらが最高位?)
征夷大将軍にこわだるのは良いですけどね、「天皇の影響力を小さいと考えたい左翼の陰謀」ってのはないでしょう。だって、源頼朝の「征夷大将軍」というのは、自らの権力を高めるために天皇を利用した結果です。
そういう趣旨じゃありませんが、もし天皇の影響力を大きく見せたいんでしたら、「征夷大将軍なんて飾りで意味はない」として、「右近衛大将」の地位を強調して幕府の成立時期だと主張した方がマシです。
実際にこの「右近衛大将」任命を幕府開設とみなす説はあるようですが、これは天皇が源頼朝を権力者として公式に認めたという理由だと思われます。すぐ辞めているという事実からすれば、やはり天皇としてはあまりおもしろくない話には違いありませんけどね。
もう一つ前回より。
「幕府の終期に尽いては、1573年に15代将軍足利義昭が織田信長によって京都から追放され、足利将軍家が歴代相伝する山城国及び丹波国の御料所を織田政権に奪われた事によって事実上崩壊した」とありました。
こちらは昔からそう習っていて変わっていないと思うのですが、やはり征夷大将軍とは無関係でした。「足利義昭は信長により京都から追放された後も、征夷大将軍を解官された訳ではない。『公卿補任』では、天正16年(1588年)に義昭が関白豊臣秀吉に従って参内して、秀吉への忠誠を誓うまで征夷大将軍であったと記録する」そうです。 |
左翼陰謀説を唱えるのであれば、室町幕府の寿命も定説より長くなるように主張すべきです。
これも実際にそういう説があるようですから頑張れそうなところですけど、こちらも戦前の主流は1588年説で、それが左翼の陰謀で戦後1573年となったのでしょうか?それなら一応陰謀説に辻褄が合います。私はそこらへんよくわかりません。
逆に言うと、そうじゃないと辻褄が合わず、戦前から天皇の権威を否定していたわけですが、まあ、ここが解決しても他にたくさん無理なところがあるので左翼陰謀説を証明するのはかなりたいへんだと思います。(でも、たいてい結論が先にある人というのは自分の言ったことも忘れて、次から次と新しい理由を考え出すので気にならないかもしれません)
私は「九条」の言葉に反応したように、バリバリ左翼なものは敬遠しますが、こういう右翼全開な主張にもうんざりします。何でこう極端になっちゃうんでしょうね?
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