―― アップルを引き合いに出して、イノベーション、とりわけオリジナルなビジネスや製品を開発することの重要性がしばしば語られます。こうした論調について、どうお考えですか。 井上:確かによくそういう言い方がされます。しかし、アップルが本当にオリジナリティーだけを追求してきた企業なのかどうか、よく考えてみる必要があります。 例えば、(パソコンの)マッキントッシュは、グラフィカル・ユーザー・インタフェース(GUI)とマウス操作を実現しましたが、GUIやマウス自体は、米ゼロックスのパロアルト研究所で開発されたもので、アップルが創ったわけではありません。それ以外の製品についても言えることですが、アップルは実は模倣がとても上手な企業なのです。 米オハイオ州立大学のオーデッド・シェンカー教授は、著書『Copycats』において、アップルを「アセンブリー・イミテーションの達人」と評しています。既存の技術を新しいコンビネーションで結びつけるのが上手な企業だという意味です。 よそで開発された技術を結びつけて、優美なソフトウェアとスタイリッシュなデザインで包み込む。他社の技術やアイデアを持ち込むことを恐れず、ちょっとひねりを加えて自社の魅力的な製品を作り出す。そういった強さを持っているのがアップルです。 実際、創業者の故スティーブ・ジョブズ氏も、模倣について肯定的でした。「素晴らしいアイデアを盗むことに我々は恥を感じてこなかった」という言葉を残しています。 |
―― 模倣という言葉には、ネガティブなイメージもつきまといます。 井上:模倣と聞くと、創造性や独自性とはほど遠い行為だと思ってしまう人は多いでしょう。けれども、「学ぶ」の語源は「まねぶ」であり、模倣は「創造の母」とも言われます。 (中略) ジョブズ氏は「優れた芸術家はまねる。偉大な芸術家は盗む」とも語っていました。彼は意外なところからインスピレーションを得ていましたが、この言葉は、模倣から独創性が生み出せるということを暗示しています。 フランスの作家、シャトーブリアンも「独自な作家とは、誰をも模倣しない者ではなく、誰にも模倣できない者である」と言っています。ピカソもゴッホも模倣がうまい芸術家でした。彼らは模倣から始めて、やがて自分だけの独創性を生み出し、誰にも模倣できない画風を確立したのです。 (中略) ―― 模倣という行為がイノベーションにつながるということでしょうか。 井上:研究者は学術論文で独自性を打ち出そうとしますが、それは既存の論文との対比によって出すしかありません。そのパターンは実は3つしかない。 1つ目は先行研究へのアンチテーゼ。2つ目は、先行研究をベースとしつつ、違いを出すこと。3つ目は、いくつかの先行研究を組み合わせて新たな知見を提示することです。いずれのパターンにおいても模倣は欠かせません。アンチテーゼも反転模倣という一種の模倣です。 それは学者が論文を書く時の話だろうと実務家の人たちは思うかもしれません。しかし、企業が新たに事業を起こしたり、製品やサービスを開発したりする場合も同じです。「ゼロからものを生み出す」と言いますが、ゼロにゼロを足してもゼロですし、ゼロに何を掛けてもゼロ。何も生まれません。 もっとも、私は、何でも模倣すればいいと主張しているわけではありません。模倣は、高度なインテリジェンスを要する能動的で創造的な行為であり、そのインテリジェンスこそが独自性の源泉でもあります。模倣能力こそが競争力の源泉と言い換えてもいいでしょう。 |
―― 日本企業からイノベーションが起きないのは、そうした模倣能力が低下したからなのでしょうか。 井上:もともと日本企業は模倣を得意としてきましたし、今でも模倣のうまい企業はあります。 けれども、全体的に見ると、高度経済成長を経て「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた頃ぐらいから、日本企業の間では、「イノベーションは模倣なきところから生まれる」という誤解とおごりが蔓延していきました。多くの企業が、自分たちの世界に閉じこもり、目も耳も塞いだ状態で頭の中だけで独自性を出そうとし、出せるはずだと思い込んできました。 しかも、そのまずい状態に日本人はなかなか気づきませんでした。昨今でも、アジアの新興国で「良い模倣」「美しい模倣」がどんどん起きているのに、「あれは単にまねをしているだけで、新しいものではない」と否定的な見方をする人がいます。「新興国にまねばかりされる」という模倣脅威論も根強く、自分たちも新興国の企業から学び、模倣しようという積極的な動きが見られません。 また、企業は模倣によってイノベーションを起こそうとしていても、模倣する相手を間違えている場合があります。製造業の開発部門では、自社製品のスペック向上を図るために、他社の製品を参照したり、ベンチマークしたりしていますが、これでは大きなイノベーションにはつながっていきません。 厳しい競争にさらされているのは分かりますが、同業のライバル他社を模倣しようとしても、もともと情報は限られていますし、たとえ模倣できたとしても同質競争に追い込まれていくだけです。そういう「近い世界のお手本からの模倣」ではなく、他業種や外国から学ぶ「遠い世界のお手本からの模倣」、あるいは時間を遡り、過去の初心に返って学ぶ「原点回帰」が有効でしょう。 |
「混沌が活力を生み、新しい価値を創る。そんな場を作り続けたい」 日経ビジネスには、「旗手たちのアリア」というコラムがある。(中略)そのコラムで、昨年、私は佐賀県武雄市長の樋渡啓祐氏を取り上げた。1カ月ほどの取材期間を通して、特に印象に残っているのが、冒頭の言葉だった。 (中略) 樋渡氏は、従来の武雄市にはない考え方を持つ人や企画など、地域にとって異質のモノをあえて取り込み、価値観が凝り固まった市役所の組織を外部から変えようとしている。 そうした考えや想いが、冒頭の言葉には凝縮されている。画一的な価値観の人間が集まっても、新しい発想やアイデアはあまり出てこない。むしろ、自分とは全く異なった考えや思想の人間が集まり、色々な摩擦がある方が、活力が生まれる。 (中略) 混沌こそが活力の源泉――。樋渡市長と同じ言葉を、武雄からはるか遠く離れた米西海岸で耳にする機会があった。 (中略) スタンフォード大学は、2006年から、柔軟な発想・思考を研究する専門機関を開講したのである。「the Hasso Plattner Institute of Design」、通称「dスクール」と呼ばれている。 (中略) dスクールでは、従来の「教師が生徒に教える」いった講座はほとんどない。大半がプロジェクト形式で、新しい思考方法を実践していく。先に述べたような、デザイン思考の基本的な方法論を学び、実践する「場」の提供に徹している。 もっとも、柔軟な発想を生むための方法論はきわめてオーソドックスだ。端的にいえば、ブレーンストーミングの繰り返し。付箋とホワイトボードなどを駆使し、参加者が、様々な意見を積み重ねていく。 ここで、ようやく冒頭の樋渡市長の話につながる。記者が関心したのは、参加者の顔ぶれだった。 dスクールの学生は、必ず、スタンフォードのいずれかの学部に所属するか、大学院で専門課程を学んでいなければならない。各人が専門を持ち、寄り集まった組織なのだ。 プロジェクトは、必ず異なる専門を持つ学生がチームを組み、問題にあたる。医学、法律、ビジネスなど、様々な専門的見地から問題を評価し議論し、発見しながら、解決の道を探っていく。 「議論を深める上で、必要なのが多様性。だから、あえて、この機関ではプロパーの生徒はとらない」と、先の講師はいう。既存の学問を横断した議論こそが重要。ここは、スタンフォード大学の多様性を担保する「場」なのである。 (中略) 実際、dスクールから新たな事業も生まれており、デザイン思考の成果は着実に生まれつつある。受講希望者も飛躍的に増えており、スタンフォードの看板機関になりつつある。ハーバード大学など米国の他大学でも似たカリキュラムが広がっており、ここ数年でデザイン思考は米大学院教育の、大きなトレンドとなっている。 |
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