自国にとって都合のよい歴史を書くのは世界の常識だが、中でも中国の歴史捏造は大胆かつ執拗だ。背景に大中華思想の中に日本を取り込もうという意思が透けて見える。 拡張主義に走る中国共産党は、明朝や清朝時代の版図を過剰適用して領土を分捕ってきた。チベットや東トルキスタン(ウイグル)がいい例だ。これは、いわゆる中華思想に基づく華夷秩序──“先進地域”である中華(漢民族)とその周縁に存在する夷狄(いてき=蛮族)が冊封関係にある──の再構築であり、“中華帝国”再興の野望と言っていい。 そこに立ちはだかるのが日本だ。南京大虐殺など歴史問題を持ち出す背後には、歴史を改竄・誇張することで日本を黙らせ、この野望達成を円滑に進めようという魂胆がある。 華夷秩序の再構築。中華帝国再興の号砲は、「中国」という呼称であった。戦前の日本人は公文書も含めて「支那」という呼称を用いていたが、大東亜戦争に敗れて無力だった日本に対し、戦勝国側となった蒋介石は「今後はわが国を中華民国と呼び、略称は中国とするよう」主張した。 今でも他国ではChina(支那)と呼ばれているのに、日本に対しては「国(天下)の中心」を意味する「中国」という略称を定着させたのだ。そればかりか今日の日本では支那という呼称が差別語であるかのような誤解まで生じている。中国側の思惑通り、いや、それ以上の成果であろう。 |
支那という言葉の語源は諸説あるが、明朝時代末期にこの地域にいたイタリア人イエズス会宣教師衛匡国(Martino Martini)による著作”Nuvus Atlas Sinensis”では、中原初の統一王朝秦(拼音: Qín, 梵語: Thin・Chin, ギリシャ語・ラテン語:Sinae)に由来するとされる。衛匡国によれば、この秦の呼称が周辺諸国に伝わったが、現在のインドで転訛してシナになったとしている。これが一般的な通説とされるが、戦前の日本の地理学者の藤田元春など反対説を主張している。その諸説によると交易品であった絹糸に由来するもの、民族名である「チャン族」あるいは、「インドから見て辺鄙で遠いところ」とに意からきたともいう。なお、このシナの発音が西洋に伝わり英語の"China"フランス語の"Chine"などの語源ともなったといわれている。紀元2世紀前後にはインドで中国を指して「チーナ・スターナ"China staana"」と呼んでいた。一方ギリシアでは紀元前後から中国をシナ(Θηνα)とよぶが、これは秦に由来する。ポルトガルでは大航海時代から現代まで一貫してChinaとよぶが、発音は日本とは少し異なり、シーナである。ギリシャ、ラテン圏では国名、地域名は女性形になることが多く、秦の国名はシーナとなる。 インドから仏教が隋に伝来した当時、経典の中にある梵語「チーナ・スターナ"China staana"」を当時の訳経僧が「支那」と漢字で音写したことによって彼の地に伝来した。この時の当て字として、「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。そのため、「支那」はこの地域の当時の公用語からすれば外来語であり、当初は外国人からの呼称であったと言える。 |
日本において、「支那」の言葉が入ったのは、隋と同様に漢訳仏典を通じてであった。平安時代の高僧空海の詩文集「性霊集」に「支那」が用いられた例が確認できる。京都東福寺蔵の重要文化財にも「支那禅刹図式」(南宋作)がある。 |
明治政府が清と国交を結んでからは、国号を「清国」、その国民を「清国人」と呼称した。学術分野では、伝統的には「漢」の文字を用いて「漢学」「漢文」等の呼称が用いられてきたが、明治中葉より、漢人の国家やその文化に対して「支那」が用いられるようになった。ただし「漢人」「漢民族」の定義は不確定であり学術的に確定しているわけではなかった。 |
「支那」と同じく梵語から取った「China」などの訳語としても定着した。末の英語辞書『増訂華英通語』の万延元年の福澤諭吉凡例では英語と中国語との対比で「支那」が使われている。特に明治期以降、歴代の王朝名(例:漢、唐、清)とは別に、地域的呼称、通時代・王朝的汎称としての、この地域の名称を定めることが必要であるという考え方が一般的となり、従来「漢」「唐」などで称していたものを「支那」と言い換えることが行われた(例:「漢文学」→「支那文学」)。 |
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