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聖徳太子の作った法隆寺は焼失している


 つくづく教科書類は捨てずにとっておけば良かったなぁと後悔しているのですけど、特に歴史の教科書というのは新たな知見が加わる様が見て取れるので、もったいなかったなと思います。

 で、そういう学生時代に覚えのなかった話で、前々から書きたいと思っていたのが、法隆寺焼失です。

 実は二つの法隆寺の七不思議 ~法隆寺には蜘蛛の巣が張らないなど~はこれの導入のつもりで書き始めたものでした。(その後、さらに法隆寺の七不思議の真実 ~蜘蛛の巣、雀の糞、雨だれの跡は?~を書いて、なかなか一番書きたいものに入れませんでした。こういうパターンはたまにあります)


 教科書の話に戻りますが、学生時代どういう風に習ったのかよく覚えていないのです。

 私は歴史が好きでしたが、勉強は全然していませんでした。それでちゃんと書いてあったのに覚えていなかっただけなのかもしれませんけど、法隆寺が一度燃えていたという話が記憶になかったので最近それを聞いて驚きました。


 「えっ、じゃあ、世界最古の木造建造物って嘘だったの?」と思いますが、Wikipediaによるとこんな感じでした。

 まず、創建について。

法隆寺は、日本仏教興隆の祖である聖徳太子が創建したと伝えられる寺院である。(中略)

通説によれば、推古天皇9年(601年)、聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建て、この近くに建てられたのが法隆寺であるとされる。金堂の「東の間」に安置される銅像薬師如来坐像(国宝)の光背銘には「用明天皇が自らの病気平癒のため伽藍建立を発願したが、用明天皇がほどなく亡くなったため、遺志を継いだ推古天皇と聖徳太子があらためて推古天皇15年(607年)、像と寺を完成した」という趣旨の記述がある。(中略)

若干の不明点は残るものの、法隆寺の創建が7世紀前半の聖徳太子在世時に遡ることは、発掘調査の結果等からも明らかである。

 ところが、この頃の法隆寺は燃えちゃったみたいなのです。


日本書紀巻27に「夏四月癸卯朔壬申 夜半之後 災法隆寺 一屋無餘」(天智天皇9年・670年に法隆寺は一屋余すところなく焼失した)という記事がある。

 さっきあった「発掘調査の結果等からも明らか」とも絡みますが、今ある法隆寺の「西院伽藍」については以下です。

現存する法隆寺西院伽藍は聖徳太子在世時のものではなく、7世紀後半 - 8世紀初の建立であることは定説となっており、この伽藍が建つ以前に焼失した前身寺院(いわゆる若草伽藍)が存在したことも発掘調査で確認されている。また、聖徳太子の斑鳩宮跡とされる法隆寺東院の地下からも前身建物の跡が検出されている。以上のことから、聖徳太子の実在・非実在によらず、7世紀の早い時期、斑鳩の地に仏教寺院が営まれたことは史実と認められている。

(中略)

再建時期についても明確な記録はないが、現存の西院伽藍の建築を見ると、細部の様式などから、金堂がもっとも年代が上がり、五重塔がそれに続き、中門、回廊はやや遅れての建築と見られる。『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、中門の仁王像や五重塔初層安置の塑造彫刻群は和銅4年(711年)の製作とあり、この頃には西院伽藍全体が完成していたと考えられる。なお、平安時代に書かれた『七大寺年表』には和銅年間に法隆寺が建てられた、とある。

 そして、この「西院伽藍」は「世界最古の木造建造物群であることは間違いない」んだそうです。安心、安心。


 ただ、この結論に至るまではたいへんだったみたいです。

再建・非再建論争

法隆寺ではこの寺は聖徳太子創建のままであるという伝承を持っていた。しかし、明治時代の歴史学者は『日本書紀』の天智天皇9年(670年)法隆寺焼失の記述からこれに疑問を持ち、再建説を取った。これに対して建築史の立場から反論が行われ、歴史界を二分する論争が起こった。再建派の主要な論者は黒川真頼、小杉榲邨(こすぎすぎむら)、喜田貞吉ら、非再建派は建築史の関野貞、美術史の平子鐸嶺(ひらこたくれい)らであった。

・非再建論の主張

 ・法隆寺の建築様式は他に見られない独特なもので、古風な様式を伝えている。薬師寺・唐招提寺などの建築が唐の建築の影響を受けているのに対し、法隆寺は朝鮮半島三国時代や、隋の建築の影響を受けている。
 ・薬師寺などに使われている基準寸法は(645年の大化の改新で定められた)唐尺であるが、法隆寺に使われているのはそれより古い高麗尺である。
 ・日本書紀の焼失の記事は年代が誤っており、推古時代の火災の記事を誤って伝えたものであろう。など


・再建論の主張

 ・日本書紀の記事は正確である。
 ・飛鳥時代の様式や高麗尺が使われているといっても建設年代の決定的な証拠にはならない。
 ・書物に載っている法隆寺の場所と現在の場所が違う。など

(中略)

非再建論の主な論拠は建築史上の様式論であり、関野貞の「一つの時代には一つの様式が対応する」という信念が基底にあった。一方、再建論の論拠は文献であり、喜田貞吉は「文献を否定しては歴史学が成立しない」と主張した。論争は長期に及びなかなか決着を見なかったが、1939年(昭和14年)、聖徳太子当時のものであると考えられる前身伽藍、四天王寺式伽藍配置のいわゆる「若草伽藍」の遺構が発掘されたことや、若草伽藍の礎石が現在の法隆寺に転用されていることから、次第に再建説が有力となった。

 「一つの時代には一つの様式が対応する」というのは、何だか非現実的で空想的な話ですね。

 で、最新の研究の話になるのですけど、一気に時代が飛んで2004年になります。

2004年(平成16年)、奈良文化財研究所は、仏像が安置されている現在の金堂の屋根裏に使われている木材の年輪を高精度デジタルカメラ(千百万画素)で撮影した。その画像から割り出した結果、建立した年年輪年代測定を発表した。それによると、法隆寺金堂、五重塔、中門に使用されたヒノキやスギの部材は650年代末から690年代末に伐採されたものであるとされ、法隆寺西院伽藍は7世紀後半の再建であることがあらためて裏付けられた。問題は、金堂の部材が年輪年代からみて650年代末から669年までの間の伐採で、日本書紀の伝える法隆寺炎上の年である670年よりも前の伐採と見られることである。伐採年が日本書紀における法隆寺の焼失の年(670年)を遡ることは、若草伽藍が焼失する以前に現在の伽藍の建築計画が存在した可能性をも示唆するものであるが、これについては、若草伽藍と現在の伽藍の敷地があまり重なり合っていないことから、現在の伽藍は若草伽藍が存在している時期に建設が開始されたのではないかと考える研究者も存在する。

なお、五重塔の心柱の用材は年輪年代測定によって確認できる最も外側の年輪が594年のものであり、この年が伐採年にきわめて近いと発表されている。他の部材に比べてなぜ心柱材のみが特に古いのかという疑問が残った。心柱材については、聖徳太子創建時の旧材を転用したとも考えられている。

 科学をロマンのないものだと考える人もいますけど、科学技術が発展することでいろいろとおもしろいことがわかるものです。

 建て直された五重塔が聖徳太子の時代の部材を受け継いでいるとわかったなんてのも、感慨深い話だと受け取ることができるんじゃないでしょうか?


 関連
  ■二つの法隆寺の七不思議 ~法隆寺には蜘蛛の巣が張らないなど~
  ■法隆寺の七不思議の真実 ~蜘蛛の巣、雀の糞、雨だれの跡は?~
  ■鎌倉幕府成立は1192年じゃなくて1185年 ~室町幕府も変化?征夷大将軍は無関係~
  ■士農工商とは ~身分制度じゃない?~
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