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個人的にはおもしろいが、まとめられない雑学や歴史や地方の話


 私が興味あっても皆さんが興味なさそうな話って書きづらくて困っていました。目玉となる何かが一つくらいないとなかなか書き始められないんですよね…。で、考えたのが、とりあえず、そういう半端な話をまとめるページを一つ作っておけばそれでいいのではないか?ということ。深く考えず適当に書き進めていき、これだ!というものが見つかったら、別投稿にまとめる形にします。

4番目に追記
2023/08/25追記:
●姓の松前は、徳川家康の旧姓・松平のと前田利家にちなむ? 【NEW】


●昔は松前藩だけでなく北海道全体を「松前島」…マルかバツか?

2022/09/26追記:北海道にあった松前藩は、松前藩 - Wikipediaによると、現在の北海道松前郡松前町である松前島(夷島)松前にあった藩だといいます。ところが、この説明の時点で戸惑うのが、「松前島(夷島)」という聞き慣れない地名でしょう。文脈からすると、「北海道」のことを言っているようです。

 検索してみると、世界大百科事典の松前の説明の項目で「〈松前島〉のように現在の北海道そのものの意にも用いられた」と書いている部分がありました。やはり北海道そのものを「松前島」と呼ぶことがあったようです。ここでの読み方は「まつまえとう」となっていました。私は「まつまえじま」と読んでいましたわ。

 なお、「松前」という名前の由来は、アイヌ語の〈マトマイ=ヲ・マツ・ナイ(婦人のいる沢)〉または〈マトマイ=マツ・オマ・イ(婦人のいる所)〉によるとの説があるとのこと。北海道で多いアイヌ語由来の地名ですね。ただ、あまりにも和風っぽく馴染んだ地名であったため、アイヌ語由来というのは意外でした。

 ウィキペディアではカッコで「夷島」とも書かれていたのが気になるところ。こちらも検索してみると、夷島 - Wikipediaという項目が出てきました。「夷島(えびすじま、えびすしま)は、島の名前。同じ読みの恵比寿島や恵比須島、戎島の旧名または別名である場合もあり、混同し易いので注意が必要」との説明があるものの、北海道の場合は読み方自体が異なる「えぞがしま」でした。

1.夷島(えびすじま)は、秋田県男鹿市戸賀塩浜の沖の日本海に浮かぶ島。石鯛なども揚る磯釣り場として有名。夷島(秋田県)
2.夷島(えびすじま、えびすしま)は、中海に浮かぶ島根県松江市八束町(大根島の北)にある島。
3.夷島(えびすじま)は、山口県長門市油谷伊上の沖の油谷湾に浮かぶ島。長門市には戎島(えびすじま)という別の島もあるので要注意。
4.夷島(えぞがしま)は、鎌倉時代の北海道の呼称。


●松前藩の松前氏の始祖・武田信広はあの甲斐源氏武田氏の子孫?

2022/10/22追記:引き続き松前藩 - Wikipediaから。松前藩の史書『新羅之記録』によると、始祖は室町時代の武田信広。武田信広は安東政季から上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となり蠣崎氏を名乗り、現在の渡島半島の南部に地位を築いたといいます。

 上記では「上国守護」とありました。「上国」には「律令国の等級区分の一つ」という意味もあるそうですが、たぶん今回は北海道の地名のひとつである「上ノ国」(かみのくに)の意味ではないかと思いました。上国守護に任ぜられたという蠣崎季繁のウィキペディアを見てもそういう理解で良さそうです。

<蠣崎 季繁(かきざき すえしげ)は、室町時代中期の武士。上之国花沢館(現在の北海道檜山郡上ノ国町)主。上国守護職。
 若狭国の守護武田信繁(引用者注:若狭は福井県の一部。武田信玄の弟・武田信繁ではなく、安芸武田氏)の近親で、蝦夷地に渡って下之国安東政季の娘婿となり、蠣崎氏を名乗って花沢館に住んだとされるが、様々な伝承があり定かではない。
 『新羅之記録』によれば、政季は康正2年(1456年)、分家で秋田郡の領主・秋田城介安東尭季(惟季)の招きに応じ秋田小鹿島(現秋田県男鹿市)に移る際に、茂別館主の安東家政(下国守護)、大館館主の下国定季(松前守護)、花沢館館主の季繁(上国守護)の3名を「守護」に任じたとされているが、実態は安東家政或いは安東定季が一人守護として統括していたとする見解[1]も出されている>

 上記の蠣崎季繁の来歴はよくわかっていないようですが、その後を継いだという武田信広もはっきりしないようで、最初のウィキペディアでは「甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる」という微妙な書き方でした。武田信広 - Wikipediaを見てみると、「後世の仮託(かたく、他の事柄を口実にしたり利用したりすること)」とあるので、事実ではない可能性が高いのかもしれません。

<武田 信広(たけだ のぶひろ)は、室町時代後期の武将。若狭武田氏の一族とされることもあるが、実際には詐称とする説もある。また、陸奥国の南部氏の一族ともいわれる>
<永享3年(1431年)2月1日、若狭国の守護大名・武田信賢の子として若狭小浜青井山城にて誕生。父・信賢は家督を弟・国信に譲る際に、自身の子である信広を養子にさせたが、間もなく国信に実子・信親が誕生したことで疎遠になった。また、信広は実父・信賢とも対立して孤立無援となったといわれているが、永享3年当時の信賢は12歳であり、国信は誕生前であったため、この伝承の信憑性は低い。また、国信の子とする説もあるが、若狭武田氏との関係は当時の若狭と北出羽地域の交流の深さに基づく後世の仮託と考えられている>


●武田で蠣崎で松前で…苗字がコロコロ変わってややこしい松前藩

2022/11/13追記:前回「武田信広は安東政季から上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となり蠣崎氏を名乗り、現在の渡島半島の南部に地位を築いた」という話が出てきました。私はこのあたりを読んで勘違いしてしまったのですけど、この時点ではまだきちんと独立した勢力というわけではなかったようです。

 前回の記述の後になって、「戦国末期には、津軽地方での大浦為信の挙兵により、蝦夷管領(檜山安東氏)が津軽から駆逐され、蝦夷地での蠣崎氏の独立が加速する」という話が登場します。これにより、苗字を武田から変えたとされた蠣崎氏の分離独立が進む…ということみたいですね。以下のような説明もありました。

<下国氏(檜山安東氏)の勢力が津軽から駆逐された事により、蠣崎氏(松前氏)の分離独立、上国氏(湊安東氏)を相続・拠点移動(檜山から湊城へ)などによる安東両家の統合と秋田制圧(蝦夷の支配を放棄、秋田氏に改姓)が進む>

 この戦国末期というのは、蠣崎氏5代当主にあたる蠣崎 季広(かきざき すえひろ)の時代だったんじゃないかと思われます。その蠣崎季広の子である松前慶広の時代に豊臣秀吉に直接臣従することで安東氏(のち秋田氏)の支配から公式に離れる事が承認されます。ここで独立が完了でしょうか。

 続けて、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められています。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いでだったそうですが、5代将軍・徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇に。さらに、享保4年(1719年)から1万石格の柳間詰めの大名となりました。

 …といった感じなのですが、「蠣崎氏(松前氏)」とあったり、蠣崎季広の子が松前慶広で苗字が違ったりしてややこしいですね。松前慶広 - Wikipediaの方を読んでみると、徳川家康に服したあたりのタイミングで苗字を変更したそうです。

<慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康と誼を通じた。慶長4年(1599年)、家康への臣従を示すものとして「蝦夷地図」を献上した。また、アイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めた>


●姓の松前は、徳川家康の旧姓・松平のと前田利家にちなむ?

2023/08/25追記:前回、出てきた松前慶広。豊臣秀吉に直接臣従することで安東氏(のち秋田氏)の支配から公式に離れる事が承認されたというのが、彼の時代…という話でした。この松前慶広のウィキペディアを見てみます。

<松前 慶広(まつまえ よしひろ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦国大名。蝦夷地松前藩の初代藩主。>
<天文17年9月3日(1548年)、蠣崎季広の三男として大館(徳山館、引用者注:北海道松前町にあった館)にて誕生。南条広継の正室となっていた姉に永禄4年(1561年)、長兄・蠣崎舜広が、翌年(1562年)、次兄・明石元広が相次いで毒殺されたため、天正10年(1582年)、父・季広の隠居により家督を継いで当主となる。 >

 当初は、出羽国比内郡(現在の秋田県北部)の浅利氏解体など宗家・安東家(愛季)の勢力拡大に協力。しかし、前述の通り、その後、独立を果たしています。また、豊臣秀吉の朝鮮出兵に協力し、全蝦夷地(樺太、北海道)の支配を確立。徳川家康時代にもアイヌ交易の独占権の公認に成功。おもしろいのは、この時代に公家文化も取り入れているところです。

<慶長14年(1609年)に猪熊事件が起きて左近衛少将・花山院忠長が蝦夷・上ノ国に配流された。慶広は忠長を城下の福山(松前)で賓客として厚遇した。忠長は5年で津軽へ移されるが、京都の公家に誼を得たことで、松前家には以後累代に渡って公家との婚姻が続き、松前家の格を高めると共に、松前に京都の公家文化をもたらした[8]。 >

 前回書いたように、彼の時代にアイヌ語「マトマエ」由来の地名である「松前」に因んで慶広とその子供たちのみ苗字を松前に改めています。ただ、姓の松前は、五大老の徳川家康の旧姓・松平の「松」と前田利家の「前」から取っているという俗説があるそうです。


●実は間違っていた「参勤交代」、本来は「覲える(まみえる)」の字

2023/01/02追記:教科書でも習う重要歴史用語である「参勤交代」。実はこのうちの「勤」が間違いで本来なら「参覲」(読みは同じ「さんきん」)と書いていたものなんだそうです。よくある旧字体といった意味ではなく、「覲」は「まみえる・お目にかかる」という意味の「勤」とは全く別の漢字でした。ただ、現代人が間違ったというわけではなく、当時の役人が間違ったことで定着してしまったようです。

<参勤交代(さんきんこうたい)とは、江戸時代において各藩の主である大名や交代寄合を交替で江戸に出仕させる制度。参勤交替、参覲交代、参覲交替などとも書く。 >
<「参勤」とは自分の領地から江戸へ赴く旅、「交代」または「就封(しゅうほう)」とは自分の領地に帰還する旅のことである。参勤は一定期間主君のもとに出仕し、任期が満了すると暇を与えられて自分の領地に帰り政務を執ることを意味する。「参っ」て「覲(まみ)える(=目上の人に会う)」ことであるから正しくは「参覲交代」と表記するが、役人が「参勤交代」と誤って記録に記述してしまって以来、このように書くのが一般的になった。
 参勤交代を規定した『武家諸法度』の条文には  大名小名在江戸交替所相定也毎歳夏四月中可致参勤従者之員数…… とあり、交代は「交替」とも書かれる>
(参勤交代 - Wikipediaより)

「覲」の部首・画数・読み方・意味 - goo漢字辞典
覲 音読み キン 訓読み まみえる・ あう
意味 まみえる。諸侯が天子にお目にかかる。


●戦前を代表するコメディアン古川ロッパ、父は加藤なのになぜ古川?

2021/11/24追記:戦争末期や戦後まもなくを舞台をした小説で出てきたコメディアン古川ロッパが気になって、以前、Wikipediaを読んだことがありました。戦前を代表する喜劇役者です。本名は古川 郁郎(ふるかわ いくろう)ですが、古川 ロッパの芸名の方が圧倒的に有名。文芸活動などでは、古川 緑波という筆名も使っています。

 幼少期より文才に優れ、のちに芸名として用いた「緑波」の号は尋常小学校3年生の頃、童話作家の巖谷小波にちなんで自らつけた筆名だとのこと。始めは読み方を「リョクハ」としたのですが、芸能界入り後は舞台活動では「ロッパ」、文筆活動では「緑波」と使い分けました。その他、戦中の検閲で「ロッパ」が使えなかったときも「緑波」を仕方なく使っています。

 古川ロッパは、加藤照麿(てるまろ(男爵の六男として東京市麹町区に生まれました。当時はたぶん華族ですね。父も江戸生まれですが、東京帝国大学総長を務めた祖父の加藤弘之男爵は、但馬国出石藩の藩士として生まれています。現在の兵庫県豊岡市であり、関西の出身でした。幕臣となったので、江戸にそのまま住んだんでしょう。

 父は加藤なのに、古川ロッパはなぜ古川?と言うと、嫡男以外は養子に出すという家訓により、生後間もなく義理の叔父(父の妹婿)で満鉄役員の古川武太郎の養子となったためでした。この養父・古川武太郎のWikipediaはありませんが、さらにその父古川宣誉のWikipediaならあります。

 古川 宣誉(ふるかわ のぶよし)は、幕末の幕臣、明治期の陸軍軍人で、最終階級は陸軍中将でした。江戸生まれですが、本籍は静岡県です。孫の古川ロッパと同じく彼も養子で、星谷精四郎の息子として生まれ、古川鐘太郎の養子となりました。1866年(慶応2年)7月、江戸幕府に御持小筒組として出仕しています。

 明治維新以降は、1869年(明治2年)9月より沼津兵学校(徳川家創設で後に明治政府の兵部省の管轄に)で資業生(第3期)として学びました。敵対していた新政府軍に移った形で、前述の通り、陸軍中将まで出世しています。また、沼津兵学校は駿河国沼津にあった学校なので、本籍がある静岡県にも一時行っていた形ですね。


●「声帯模写」の名付け親はロッパ、以前はなぜか「形態模写」だった

2021/12/08追記:古川ロッパは旧制中学時代の一時福岡にいたことがあるようですが、1917年東京に戻り旧制早稲田中学校に転校。在学中の1918年には映画雑誌『映画世界』を発行し、映画評論を執筆。同時に『キネマ旬報』などの映画雑誌に緑波の名で投稿を始めていたそうです。『キネマ旬報』はたぶん今も続いているところですね。

 1921年早稲田第一高等学院に進学後はさらに、キネマ旬報編集同人に。一方で、1922年には小笠原プロ・小笠原明峰監督『愛の導き』で映画初出演も果たします。その実績を買われて旧制早稲田大学文学部英文科在学中に菊池寛に招かれ、文藝春秋社に雑誌『映画時代』の編集者として入社したそうです。

 1925年に早稲田大学を中退し文筆活動に専念。一方で、翌年には雑誌編集の傍ら、宴会での余興芸の延長線上として当時親交のあった徳川夢声らとナヤマシ会を結成し演芸活動を開始。それまで寄席芸で「形態模写」と呼ばれていた物真似に「声帯模写」と名付けモダンな芸風も仲間内の受けが良かったとのことです。

 ということで、「声帯模写」と名付け親だった模様。これは結構すごい功績です。ただ、それ以前は「形態模写」と呼ばれていたという方が不思議かもしれません。「形態」というのは辞書を引いてみても、「生物や機構などの組織体を外から見たかたちやありさま」などといった説明。音声を真似る声帯模写とは大きく違います。

 気になって声帯模写のコトバンクを見ると、声色(こわいろ)あるいは、声色よりもまねの対象が広げられたものという説明。「声色」の方が「形態模写」より理解できる字面です。この声色は、「他人、特に役者や有名人のせりふ回しや声をまねること」。歌舞伎役者などの声や口調をまねる芸が元禄(1688〜1704)ころからあり、幕末には寄席芸にもなっていたそうです。

 ひょっとしたらこの声だけ真似する寄席芸「声色」が先にあったために、声以外の「形態」、動きによるモノマネがあることを強調した「形態模写」という言葉が生まれていたのかもしれないな…と後から思いました。となると、ここから今度は声を強調する「声帯模写」となったのは、先祖返り的な感じですね。私の想像ですので、どういう経緯なのか不明なんですけど…。(ここだけ21時に追記)


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