既に皆さんご存知でしょうが、山中伸弥京都大学教授がノーベル賞を受賞しました。
最近は一度に同時受賞することができる上限の3人を目一杯使うことも多いですが、今回は2人のようです。
そして、特筆すべきは僅か6年のスピード受賞であるということでしょう。
医学研究では治療実績が重んじられがちだが、山中教授はiPS細胞の作製からわずか6年で、ノーベル賞の栄誉に輝いた。事故や病気で傷んだ組織や臓器の機能を取り戻す再生医療への応用が期待されている。受賞決定後に京都大学で記者会見し「さらにこれから研究を続け、一日でも早く医学に応用しなければならないという気持ちでいっぱいだ」と語った。
医学に限らずノーベル賞は、十分に普及して結果が出てから……という傾向が強いです。
そのため、受賞者は高齢者が多くなり、2000年以降にノーベル賞を受賞した日本人の年齢を見ても、ほぼすべてが60歳以上でなおかつ70歳代、80歳代も多いです。
山中伸弥教授は50歳、2000年以降の日本人では島津製作所の田中耕一さんの43歳(当時)につぐ若さであり、その次が野依良治さんの63歳(当時)と聞けば、特異なケースであるとわかるでしょう。
この早さの理由はおそらくiPS細胞への期待の現れだと思います。
(10/22追記:別の観点で説明する記事がありました。おそらくガードン教授の研究を中心に見れば、既に実社会に貢献しているという意味だと思われます。
発表から6年、山中教授のスピード受賞はなぜ実現したのか
共同受賞者、ガードン教授の半世紀前の偉業
橋本 宗明 2012年10月22日 日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20121019/238303/?mlt(略)
「『ノーベル賞の受賞は思ったより早かった。臨床応用の実績が出てからだと思っていた』という感想を持っておられる方が多いのではないか」。ノーベル賞受賞決定後の10月11日、日経バイオテクによる単独インタビューの際に山中教授はこのように切り出した。
昨今のノーベル賞の受賞者を見ると、その成果が産業化されるなど、実社会に貢献するようになってから受賞しているケースが多い。その点からいうと確かに少し早いようだが、共同受賞者である英ケンブリッジ大学のジョン・ガードン教授の研究業績を検証すると、見え方が違ってくる。
(中略)
ガードン教授は1962年に、アフリカツメガエルのオタマジャクシの小腸の細胞の核を、核を取り除いた未受精卵に移植して、オタマジャクシにまで成長させられることを示した。
生物が卵から成体になる過程で、未分化な細胞は皮膚や筋肉、髪の毛、各種の臓器といったそれぞれの組織を構成する特殊な細胞へと分化していく。しかし、特殊な細胞から取り出した核に含まれるDNAは、再び全ての細胞に分化できる能力を有することが、ガードン教授の研究によって示されたわけだ。
(中略)
では、ガードン教授の発見はどのようなインパクトのあるものだったのか。ここで浮かび上がるのが、1996年に生まれたクローン羊のドリーだ。ドリーは、成熟した細胞を未受精卵に核移植して作製された世界初の哺乳類として大きな話題となった。
(中略)山中教授は10月12日に横浜市で開催されたイベントでの講演で、「ドリーの研究チームが今回の受賞者に選ばれていない点には気が引ける思いだ」と語っている。
クローン羊ドリーの成果は、既に畜産分野などで幅広く貢献している。(中略)クローン羊ドリーの成果はもちろん、ガードン教授によるカエルでの研究があったからこそ得られたものだ。(略))
その他、同記事(追記の前にある日経新聞)からの引用です。
授賞理由について、カロリンスカ研究所は声明で「細胞や器官の進化に関する我々の理解に革命を起こした」と説明した。
山中教授は、06年に世界で初めてマウスの皮膚細胞からiPS細胞を作った。iPS細胞は受精卵のように体のどんな部分にも再び育つ。皮膚などにいったん変化した細胞が、生まれた頃に逆戻りするという発見は生物学の常識を覆した。細胞の時計の針を巻き戻せることを示した「初期化(リプログラミング)」と呼ぶ研究成果は「まるでタイムマシン」と世界を驚かせた。生命の萌芽とされる受精卵を壊して作る胚性幹細胞(ES細胞)と違い、倫理面の問題からも特に欧米社会で高く評価された。
初期化の実現の可能性を最初に示したのが同時受賞するジョン・ガードン博士の成果だ。1962年、オタマジャクシの腸の細胞から取り出した核を、あらかじめ核を除いたカエルの卵に移植したところ、受精卵と同じようにオタマジャクシが生まれた。腸に育った細胞でも、時間が遡りすべての細胞に変化できることを示した。09年には、米ラスカー賞を山中教授とともに受賞している。
山中教授の報告以降、世界中の研究者がこぞってiPS細胞研究に参入し、再生医療の研究競争が激しくなっている。サルの実験だが、iPS細胞が脊髄損傷や脳疾患のパーキンソン病の治療に役立ったとする成果も相次いで報告されている。文部科学省などが多額の研究予算を投入し、研究推進に力を入れている。
iPS細胞については毎日新聞の説明も。
ことば:人工多能性幹細胞(induced pluripotent stem cell=iPS細胞)
毎日新聞 2012年10月09日 東京朝刊
◇人工多能性幹細胞(じんこうたのうせいかんさいぼう)
(induced pluripotent stem cell=iPS細胞)
体のさまざまな細胞になれる能力を獲得した細胞。山中伸弥教授らが06年にマウスの細胞で成功し、07年11月にはヒト細胞での成功を発表した。最初の「i」が小文字なのは世界中で普及している携帯音楽プレーヤー「iPod」にちなみ、山中教授自身が命名した。患者本人の細胞から作るため、拒絶反応の少ない組織を作ることができ、脊髄(せきずい)損傷や難病の治療に使える可能性がある。「再生医療の切り札」として期待が大きく、世界各国で激しい特許競争が繰り広げられている。ES細胞(胚性幹細胞)もさまざまな組織に分化する能力を持つが、受精卵を壊して作ることから生命倫理的な問題がある。この点、iPS細胞は受精卵を壊す必要はない。
http://mainichi.jp/opinion/news/20121009ddm001040044000c.html あら、「i」の意味ってそんなんなんですね。
山中教授の略歴は読売新聞にあったんですが、最初の日経新聞の方が良さそうでしたのでそちらを。
やまなか・しんや 1987年神戸大学医学部卒業、国立大阪病院で整形外科の研修医に。93年大阪市立大学大学院医学研究科修了。米グラッドストーン研究所博士研究員、奈良先端科学技術大学院大学遺伝子教育研究センター教授などを経て、2004年から京都大学再生医科学研究所教授。10年4月から京大iPS細胞研究所長。
独のマイエンブルク賞、ロベルト・コッホ賞、カナダのガードナー国際医学賞、米ラスカー賞、ウルフ賞医学部門など国内外の科学賞を多数受賞している。大阪府東大阪市出身。50歳。
もう一つ、NHKのもの。足跡がよくわかる丁寧な記事です。
ノーベル賞受賞 山中さんとは
10月8日 18時59分 NHK
(略)
大阪市の出身で、昭和62年に神戸大学医学部を卒業したあと整形外科医として大阪の病院に勤務しました。
その後、平成元年に、大阪市立大学大学院の薬理学教室に進学、研究生活をスタートさせました。
平成5年に、アメリカ・サンフランシスコにある「グラッドストーン研究所」に留学し、当時、急速に発展しつつあった遺伝子の組み換えや解析の技術を利用して遺伝子の役割を調べる研究を始めます。
そして、平成11年、37歳の時に、奈良先端科学技術大学院大学の助教授となり、「細胞の初期化」をテーマに研究を進めました。
京都大学再生医科学研究所に教授として迎えられて2年後、平成18年にマウスの皮膚の細胞から体のあらゆる部分になる万能細胞を作り出し、「iPS細胞」と名付けました。
いったん組織や臓器になった細胞は受精卵のような状態には戻らないとされた生命科学の常識を覆す成果で、ヒトでもiPS細胞を実現できるか世界的に激しい競争となりました。
そして翌年、ヒトのiPS細胞を作ることに初めて成功しました。
こうした業績で、3年前にアメリカで最も権威のある医学賞とされる「ラスカー賞」を受賞しました。
(略)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121008/k10015593341000.html この経歴と先述の実績のなさに関連する記事を。
山中教授「まだ1人の患者さんも救っていない」
(2012年10月9日08時19分 読売新聞)
(略)
転機は37歳で奈良先端科学技術大学院大学の助教授に職を得た1999年。米国では医学応用で脚光を浴びる前の胚性幹細胞(ES細胞)を研究したが、帰国後、理解者は少なかった。
無名の山中さんの部屋は手狭で、研究費も最初はわずか数百万円。授賞理由に挙げられた論文の共著者となる高橋和利さん(34)(現・京都大講師)ら学生3人のちっぽけな研究室から、世界的な研究は始まった。
朝9時の実験開始に少しでも遅刻すれば、最低30分は説教する。夜の研究室ではしばしば鍋を囲み、ビールを片手に、「成功すれば大勢の患者さんを救える」と熱く語った。妥協を許さず、「相手は世界」と言い続けた。
業績がたたえられるたび、「まだたった1人の患者さんも救っていない」と臨床応用への熱意を語ってきた。会見では「医学や創薬で可能性がある。この賞は過去の業績というより、これからの発展に対する期待の意味が大きい」と繰り返し責任感を口にした。iPS細胞をさらに発展させるための挑戦は続く。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20121009-OYT1T00156.htm?from=main1 この日本帰国の前、アメリカのグラッドストーン研究所の存在は大きかったようです。
山中さん 米研究所の会見で感謝と喜び
10月9日 5時24分 NHK
(略)
山中さんは1993年から3年間、グラッドストーン研究所で、研究員として遺伝子の役割を調べる研究を行いました。
山中さんは上席研究員として、現在も毎月、1週間程度、この研究所で8人の若手研究員を指導しているということで、研究所には「山中研究室」と英語で書かれた紙が掲げられた専用のブースが設けられているほか、山中さん専用の個室もあります。
会見で、ウィリアムス所長は山中さんを祝福するとともに「シンヤが開発したiPS細胞は世界中の研究者によって研究が進められ、心臓や脳などの病気の分野でそれぞれの患者にあわせた治療ができる可能性を広げた」と述べ、功績を称えました。
このあと、日本にいる山中さんもテレビ電話で記者会見に参加し、山中さんの姿が会場のスクリーンに映し出されると、研究所の関係者から大きな拍手が沸き起こりました。
山中さんはこのなかで「何の実績もなかった私を研究所は雇ってくれ、自分は本当に幸運だったと思う。研究所の仲間がいなければノーベル賞受賞はなかったでしょう」と感謝と喜びを語りました。
(略)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121009/t10015600331000.html 山中教授はグラッドストーン研究所だけでなく、日本に対しても"日本という国が受賞した賞と思う"と話しています。
山中教授「まさに日本という国が受賞した賞」
(2012年10月8日22時59分 読売新聞)
◆ノーベル生理学・医学賞の受賞が決まった京都大の山中伸弥教授の会見要旨◆
何時間か前にスウェーデンから電話で受賞の知らせをもらった。私とガードン先生の2人の受賞だが、私が受賞できたのは、国の支援のお陰だ。これは日本という国が受賞した賞と思う。iPS細胞の基礎となった研究を始めた30歳代半ば、私は無名の研究者だったが、国からの支援で研究が発展した。奈良先端科学技術大学院大から京都大に移り、さらに国の研究費をもらった。それで出来たのがiPS細胞だ。マウス、人間で成功した後も、国からの支援を5、6年間もらった。その支援がなければ、今日のストックホルムからの電話はかかってこなかった。
感想を一言で表現すると、感謝という言葉しかない。国、京都大のほか、iPS細胞を一緒に作ってくれた高橋和利氏、若い研究者らが助けてくれた。
家族にも心から感謝したい。80歳を超えた私の母に報告できたのが、本当に良かった。義理の父は医師で、私を留学中から支えてくれたが、今年亡くなり、報告できなかったのが残念だ。きっと天国で、25年以上前に亡くなった父と一緒に喜んでくれていると思う。
喜びも大きいが、同時に非常に大きな責任感を感じている。iPS細胞技術はまだ新しい技術で、医学や創薬で大きな可能性があるが、まだ医学や新しい薬の開発に役立っていない。
今後、何日間かで、受賞の意味を国民の皆さんにできるだけ私の言葉で話したい。来週からは、研究の現場に戻り、論文も早く出さないといけない。それが、このノーベル賞の意味でもある。過去の業績というよりは、これからの発展に対する期待の意味も大きい。それに報いるよう、これからも現役の研究者として研究開発に取り組んでいきたい。
ガードン先生との同時受賞が、一番うれしいと言っても過言ではない。ガードン先生はカエルの研究で、大人の細胞が受精卵の状態に戻るということを核移植技術で証明した。まさに、私のしている研究を開拓してもらった。ガードン先生が実験したのは1962年。私はその年の9月に生まれた。同時に受賞できたのは、研究者の人生として大きい。ガードン先生もまだ現役で活躍している。iPS細胞が本当の意味で、医学、創薬の応用に実現できる日まで頑張っていきたい。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20121008-OYT1T00647.htm?from=y24h その他、こぼれ話的な記事を二つ続けます。
山中教授、手術苦手で「ジャマナカ」のあだ名
外科医志望から転向、基礎研究の道
2012/10/8 21:06 日経新聞
山中教授は親しみやすい人柄で、ファンも多い。学生時代はスポーツやバンド活動に没頭。もともとは整形外科医を志しながら挫折して転向するなど、基礎研究者としては多彩な経歴をたどってきた。
大阪教育大付属高校時代、勉強や柔道とともに音楽にも熱中。かぐや姫をカバーしたバンド「枯山水」でギターを担当し毎年学園祭で演奏した。「勉強だけできてもだめ。スーパーマンになれ」という当時の指導が研究者になって生きたという。山中教授は「人の3倍研究するにはどうしたらいいか、常に考えるようになった」と振り返る。
町工場の経営者だった父親は「おまえは経営に向いていない」と一人息子に医者の道を勧めた。
神戸大医学部に進学し、当初は整形外科医を志望。ラグビーでフォワードを務め、骨折などの治療を受けた経験からあこがれた。卒業して研修医になったが、同僚が数十分で終える手術でも何時間もかかり、「ジャマナカ」のあだ名を付けられた。「手術はうまくない」と悟り、基礎研究の道に転じる決心をした。
大学院を終えると米国に渡り生物の発生などを学んだ。帰国して1996年に大阪市立大の助手になったが、本人が「ポスト・アメリカ・ディプレッション」と呼ぶ鬱状態に。研究費がなく、セミナーやディスカッションもない、米国とは正反対の窮屈な研究環境がこたえた。一人で行う実験用のネズミの世話がまた大変で、今度は「ヤマチュウ」と呼ばれるようになった。
転機は99年、奈良先端科学技術大学院大の助教授に採用されたこと。政府の助成機関から研究費も獲得できた。審査の責任者は免疫学の権威、岸本忠三・元大阪大学長(現阪大特任教授)。山中教授は緊張しながらも「やろうとしている研究内容を一生懸命説明した」。岸本元学長は「ほんまにできるんやろうか」と疑ったが、熱意に押され「千に三つでも当たれば成功」と助成を決めた。これがiPS細胞開発の端緒となった。
2006年に初めてマウスでiPS細胞を開発し、07年に人の皮膚細胞からiPS細胞を作ることに成功した。受精卵を使わずに再生医療に道を開く画期的な成果とされ、環境は一変した。
スポーツ好きの山中教授は、研究をマラソンに例える。論文発表で先を越されても決してあきらめず、最後まで走り抜くことが重要だという。iPS細胞を患者の治療に応用することが最大の目標と強調する。
座右の銘は2つ。1つは米留学時に研究所長から教わった「ビジョン・アンド・ハードワーク」。目的をはっきり持ち、一生懸命働くこと。もう1つは「人間万事塞翁が馬」。整形外科医を志したが基礎研究者に転向、またうまくいかずに臨床医に戻ろうとしたことなど自身の体験に基づく。
(略)
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG08014_Y2A001C1CR8000/?n_cid=BPRDS001技術者マインド・関西人のユーモアも…山中語録
(2012年10月9日08時11分 読売新聞)
(略)
◆技術者のマインド◆
ミシンの部品を作る小さな町工場を経営していた父を尊敬していた。58歳の若さで亡くなったが、「経営者でもあったが、最後まで技術者だった。それを見て育ったので研究者より技術者というマインドの方が強い」(2011年3月、報道各社のインタビューに)
◆人の役に立ちたい◆
学生時代、スポーツで骨折を繰り返し、神戸大卒業後、整形外科医を志した。しかし、名医でも治せないけがや病気があるという現実を目の当たりにし、基礎医学へ転身した。「元々臨床医の私が基礎医学をやっているのは、多くの人の役に立ちたいから。ようやく、その可能性があるiPS細胞に巡りあえた」(07年12月、日本分子生物学会の講演で)
◆ハードワーク◆
1993年、米国に渡り、本格的な研究者人生をスタートさせた。一生肝に銘ずる言葉と出会う。「Vision(ビジョン)& Hard Work(ハードワーク)。目的をはっきり持ち、それに向かって懸命に働くということ。研究者が成功する条件で、日本人はハードワークは得意だが、ビジョンを見失っている学生が本当に多い」(08年4月、母校の神戸大入学式の特別講演で)
◆夢あるテーマで◆
99年に奈良先端科学技術大学院大に助教授として採用され、初めて研究室を率いた。iPS細胞を研究テーマとしたことについて「学生が来てくれないと大変なので、これはもう、だますしかないなと。夢のあるテーマをあげたらだまされて来るんじゃないか」(08年9月の日本移植学会特別講演で。冗談で聴衆の笑いを誘う)
◆1日持つ意味違う◆
「この技術を待っている患者さんと我々では1日の持つ意味が違うということを毎日私自身にも、研究員にも言い聞かせている」(09年5月、難病患者向けの講演会で。筋ジストロフィーの患者から「治療の段階まで早く研究を進めてほしい」と懇願されて)
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20121009-OYT1T00158.htm?from=top 最後の筋ジストロフィーについては、以前
筋肉量を調節するミオスタチンって何?を書いていますが、解決策が見えない難病です。
それだけにiPS細胞研究の進展への期待は、大きいものと思います。
その一つ前の日経新聞の記事ですが、「スーパーマンになれ」という指導があったと書かれいます。
ところが、手術下手で「ジャマナカ」と呼ばれて整形外科医の道を諦めるなど、やはりスーパーマンにはなれたとは言えないようです。
しかし、基礎研究の方は粘り強さが実を結び、ノーベル賞受賞という快挙に繋がりました。
「夢あるテーマでだます」という冗談めかした話もありましたが、山中伸弥教授自身が夢のある人生を過ごされている感じがしましたし、夢があるからこそ頑張れるのだと感じました。
追加
■
世界初iPS細胞による臨床応用は、読売新聞などの誤報で肩書きも虚偽 朝日新聞が張り切って追求 ■
EUにノーベル平和賞の波紋 ヤーグラン委員長は加盟を推進した元首相で「政治的な賞」という批判 関連
■
筋肉量を調節するミオスタチンって何? ■
繰り返しだから気付くこと ~田中耕一さんの発見~ ■
新元素113番元素ウンウントリウム、日本の発見確実で理研が命名権獲得か(ジャポニウム、ニシナニウム) ■
ヒッグス粒子発見、質量の謎解明へ ■
ニュートリノの光速超え?相対性理論と矛盾問題2 ~否定、反論にも強気のCERN~ ■
その他の科学・疑似科学について書いた記事
Appendix
広告
【過去の人気投稿】厳選300投稿からランダム表示
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
|