何でもかんでも「ゆとり」で片付けてしまうのも、あんまり賢い人には見えないのですが、ヤフー知恵袋にはこんな質問が。
実際には教科書によるようで、以下のような意見があります。
6年の子供に今大化の改新に関して質問したら私より沢山細かく習ってますけど・・・。
資料も6ページありますし説明も十分されてると思うのですが・・。
教科書本が違うのでしょうか??
ただ、大化の改新の受け止め方そのものが変化している影響が大きそうです。
大化の改新といわれる一連の改革は、日本書紀編者による創作ないしは後世の過大評価であるとし、その存在を疑う説が近年有力である。
とウィキペディアに書いてありました。
最近古墳や蘇我入鹿邸跡などの発掘が進んでいるので、歴史における説が変わってきている過渡期なのかもしれませんね。
Wikipediaによれば、大化の改新は645年ではありません。
私の学校では年号問題は一切出題されなかったものの、進研ゼミに載っていた年号語呂合わせがおもしろくていくつも覚えていました。
大化の改新も「むしごめ作って大化を祝おう」と私は記憶していましたが、今は間違いなんですね。
では、645年のクーデターは?というと、上の説明で既にちらっと出ていますが、乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)と言うようです。初めて聞きました。
ここらへん何で変わったかと言うと、要するに捏造だからです。
20世紀中後期頃までは、『日本書紀』の信憑性が評価され乙巳の変に始まる大化の改新が日本の律令制導入の画期だったと理解されていた。以下は『日本書紀』に拠る事件の概要であるが、1967年12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出され郡評論争に決着が付けられたとともに、『日本書紀』のこの部分は編纂に際し書き替えられており、後世の潤色があることが判明している。
なお、Wikipediaの「大化の改新の疑問点」もおもしろいですけど、ちょっと難しいのでさらっと飛ばしても結構です。
大化の改新の疑問点
この大化の改新が歴史家によって評価の対象にされたのは意外と遅く、幕末の紀州藩重臣であった伊達千広(陸奥宗光の実父)が『大勢三転考』を著して、初めて歴史的価値を見出し、それが明治期に広まったとされている。しかしながら、大化の改新とは、645年から650年までの大化年代だけの改革に限定せず、孝徳天皇および中大兄皇子(天智天皇)、天武天皇、さらには持統天皇の専制統治化を通して行われた一連の改革のこととする説が最近では根強い。
・蘇我入鹿暗殺のタイミングが三韓朝貢の儀の最中である点。当時の常識として外交儀式の最中にクーデターは起こさない(外交儀式中にクーデターを起こすことは外交使節に対して国が内紛中で攻め込むに絶好の機会だと宣伝することと同義である)。また、仮に三韓朝貢が暗殺者の虚構だったとすれば外交政策の中心人物である入鹿が気付かないはずがない。いずれにしても疑問があるとの指摘がある。ただし数年後には白村江の戦いに繋がる動きがあったことから、当時の情報伝達網を考えるとかなり早い段階で関係各国がクーデターを知っていた可能性は否めない。また入鹿自身が不穏な情報を掴んでいたとしても、蘇我氏への不満で日常的にそういう噂があったのなら気にせず放置していた可能性もあり、既存の史実の辻褄は一応はあっている。
・詔の発布日が春正月甲子朔すなわち正月一日である点。年の変わりに詔を出す事は余り無く、正月一日に発布された可能性が少ないのではないかと言う指摘がある。
・「郡」(こおり)と言う用語が用いられるのは、大宝律令制定以降、それ以前は「評」を使っていた文書(木簡類)が見つかっている。
・詔の第一条で公地公民、(私地私民の廃止)をうたっていながら伴造、国造が所有する部曲や田荘の領有権は認められていた。
・戸籍、計帳、班田収授は大宝律令で初めて見られる用語であり、それ以前の文書には出てこない。
・改新の詔に「初めて京師を修む」とあるが、ヤマト王権で初めて都城制が導入された都は、694年の藤原京が最初である。
元号が飛び飛びであり、元号が無い時代が存在する。実際に元号制度が定着したのは大宝元年からであり、それまでは元号制度が存在したか疑わしい部分もある。
・大化2年(646年)に出された薄葬令により天皇で初めて「火葬」され、夫であった天武陵に「合葬」されたのは持統天皇が最初である。詔を発したとされる孝徳天皇が「薄葬」でない(孝徳天皇は654年に、持統天皇は703年に崩御)。
・蘇我蝦夷、蘇我入鹿親子は死んだが、大化の改新で、いとこの蘇我倉山田石川麻呂は右大臣になっており、蘇我氏は大化政権にとっても未だ無視できない勢力を保っていた。孝徳天皇4年、石川麻呂は冤罪で自殺に追い込まれているが、これも大化の政権の政権基盤が脆弱だった可能性を示している。そして、一度蘇我氏の勢力圏の飛鳥から難波宮に移動しながら、蘇我氏の勢力圏である飛鳥に再び戻っている。天智天皇の時代になってようやく、飛鳥から近江へ朝廷を移すことが可能になった。しかし、壬申の乱で、大海人皇子が勝つと再び朝廷は飛鳥に戻っている。皇室が飛鳥の地を離れられたのは694年の藤原京への遷都からであり、大宝律令が発布されたのは701年である。
以上の点から、7世紀中~後半に、大化の改新と同様な改革が行われたことは、比較的見解の一致するところではあるが、その時期を645年よりもっと後に設定するべきであるとの考え方もある。中大兄皇子は氏族内の内部対立を利用して、勢力をそぎ、皇室の力を伸ばしていった可能性が高い。また、天皇権力が強くなる理由のひとつとして、壬申の乱の存在を考慮すべきとの考え方も存在する。律令制度が完成したのは、大宝律令からであり、その大宝律令と重ね合わせて解りやすく『日本書紀』には記述した可能性が高い。これは藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させたためとも考えられる。
私がこの大化の改新について感じていた印象は、最後で出てきました。"藤原不比等が、父親である藤原鎌足の功績を高く評価させたためとも考えられる"の部分です。
蘇我氏の専横を止めた……と言うととても良いことのように聞こえますが、朝廷内の権力争いで実力者が変わっただけとも言えます。
"中大兄皇子は氏族内の内部対立を利用して、勢力をそぎ、皇室の力を伸ばしていった可能性が高い"とありますけど、中臣(藤原)鎌足の子藤原不比等、藤原氏の影響力増大は到底無視できるものではありません。
創作の動機としては十分に頷けるんじゃないかと思います。
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