「戦国の三大悪人」と呼ばれているのは、斎藤道三、松永久秀、宇喜多直家。そのうちの宇喜多直家についての人生をたどって、悪人っぽいエピソードと悪人っぽくないエピソードを見ていこうというものです。彼らは三大謀将とも呼ばれており、謀略が得意だったのは間違いない感じですね。
2009/11/22:
●戦国の三大悪人・宇喜多直家 斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人
●悪人どころかむしろ偉人のような初期のエピソード
●親族すら容赦しない宇喜多直家、妻のお父さんを討伐
●敵のところに美少年を送り込んで殺害に成功
●謀反をやって許されたのにまたやって、主君を追放
●義父殺しと謀反だけじゃない…まだある悪人っぽい逸話
2020/03/18:
●そもそも「悪人」とはどういう意味?良い意味の可能性は…
●戦国の三大悪人・宇喜多直家 斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人
2009/11/22:宇喜多直家は以前から興味があった人物。『太閤記』で、斎藤道三や松永久秀に並ぶ悪人と言われ、尼子経久・毛利元就と共に中国地方の三大謀将(計略に優れた将)とされているそうで、こりゃー、興味津々です。
なお、タイトルにした「戦国時代の三悪人」という呼称は、今私が勝手に作りました…と書いていましたが、その後調べてみると、「戦国の三悪人」「戦国の三大悪人」といった言い方がされているようです。こっちの法がスッキリですので、タイトルも変更しました。(2018/12/15追記)
宇喜多直家は、通称三郎右衛門尉。のち和泉守。戦国時代の備前(現・岡山)の武将で、後に大名になりました。ただ、通称の三郎右衛門は三郎左衛門との記載もあり、よくわかりません。
以下は、検索した中で1番詳しそうだった"戦国宇喜多のホームページ"(リンク切れ)を参考にして書いています。参考文献は、「備前軍記」を中心に「岡山県史 中世2」「戦国合戦大事典6」「岡山県人物事典」などだそうです。
http://homepage.mac.com/miyao380/u-naoie.html
●悪人どころかむしろ偉人のような初期のエピソード
宇喜多直家は1543年、大名の浦上宗景に仕え始めます。この頃の逸話からは、まだ「悪人」の面影はそれほど見えません。
浦上宗景は三方を敵に囲まれた最前線の乙子村に城を築き敵を防ごうと考えていました。ただ、浦上家の本城天神山城から遠く守備は困難で、だれ一人城を預かると名乗り出るもはいなかったといいます。
そこで直家が、颯爽(?)と登場。「私は、まだ若輩者ですが、乙子村のあたりで知行地を給っていますから何かと便宜があります。なにとぞ、この城を私に守らせてください」と進み出て、乙子城を守ることになります。
しかし、このときの宇喜多家は所領以上の兵卒を集めていたり、夜襲にあい、自害した祖父能家時代の旧臣を抱えていたため、常に兵糧不足に悩まされていたようです。そこで、家臣の者達はみな自ら耕作し、それを兵糧とし城内に蓄え、ときには敵地に夜盗、辻斬りのたぐいまでして兵糧を蓄えることに。
それでもなお兵糧が不足するときは、直家をはじめ家臣すべてが、一ヶ月に3度か、5度は失食と称して絶食し、その分を城内に蓄え出陣のときの兵糧としたとのこと。夜盗、辻斬りは良くないのですけど、まだ悪人どころかむしろ偉人の苦労話っぽさを感じなくもありません。
引用サイトの著者はこの頃の苦難について、「乙子城時代に艱難辛苦をともにしたことが、直家と家臣団の結束を高め、この結束力こそが直家を戦国大名に押し上げた原動力だと思われます」と書かれていました。
●親族すら容赦しない宇喜多直家、妻のお父さんを討伐
永禄2年(1559)の春からお待ちかねの直家の黒いところが、出始めます。
直家は浦上宗景に島村豊後守の謀反の証拠を提出し、その討伐と同じく敵に内通していた中山備中の懲罰を命じられ、それを果たします。このうち島村豊後守は、祖父宇喜多能家を自害させ、直家一家を居城から追い出した張本人。当時の直家は僅かに6歳でしたが、密かに仇討ちの機会を狙い続けていたようでした。
その執念も恐ろしいですが、島村豊後守といっしょに懲罰を命じられた中山備中の方が問題なんですよ。この人は妻のお父さん、つまり舅(しゅうと)でした。これが、後に直家が非難された理由の1つではないかと考えられます。
ともかくこの功績により直家は多くの所領を加増されることに。そして、次第に主君宗景の支配から逃れ、自分の判断で兵を各地に動かすようになっていったそうです。
●敵のところに美少年を送り込んで殺害に成功
次に直家は竜の口城主最所元常と対立しますが、ここは堅城でなかなか落とせません。そこで家臣の長船貞親の計略を取り入れます。
小姓の岡清三郎(元服して剛介)に、秘命を与え、家中から追放、最所元常に仕官させました。清三郎は元服前の名前であり、少年。しかも、美少年だったそうな。この時代の男色はそう珍しくないものの、最所元常は男色家として知られていたともあり、元常の寵愛をうけた清三郎は、その殺害に成功。竜の口城の動揺に乗じて落城させ、その領地を増やします。
(2018/12/15:一部追記。
龍ノ口城(龍口城・龍の口城) 岡清三郎(岡剛介)による穢所元常の暗殺 | 城旅人380より)
その後も直家は、敵将を鉄砲で狙い撃させたり、倍以上の敵を相手に勝利したりと、戦に勝利し続け。
天正元年(1573)の頃には、岡山城の拡張修築を命じ、各地から多くの商人を招き、現在まで続く表町、奉還町の商店街の礎としたとそうです。また、城下町の一部を福岡の豪商阿部善定に与えましたが、これは直家が城を追われていた時期にお世話になった恩返しです。こういうところでは、恩を忘れていませんね。悪人っぽくないエピソードにあたります。
●謀反をやって許されたのにまたやって、主君を追放
しかし、力をつけた直家は天正5年(1577)、主君の浦上宗景に反旗を翻し、宗景の篭もる天神山城をも攻めました。どうもこの前にも直家は1度独立しようとして失敗し、せっかく許されて帰参していたようでしたので、またやりやがった!という話。
この城は難攻不落の山城でしたので、またしても得意の策略が炸裂。宗景の家臣明石景親を内応させ、城に火を放たせ、城内に宇喜多勢を引き入させて、ここを落としてしまいます。浦上宗景は落ち延びているものの、没落することになりました。
こうして、主君をも裏切り、次々と所領を増やした直家ですが、羽柴秀吉に破れるなど、織田信長には敵わなず、帰順を選択。そして、かつては協力していた毛利氏との合戦を繰り返しますが、天正9年(1581年)に病死。享年は53歳でした。
●義父殺しと謀反だけじゃない…まだある悪人っぽい逸話
これだけですと、義父殺し(しかも理由あり)と謀反くらいで、悪人具合が甘いような気もしました。しかし、
Wikipediaなど、別のところを見ると、なかなか悪人らしい話が見つかります。
Wikipediaでは、<歴史書の『和気絹』でも記されているとおり、金光宗高をはじめ松田元賢、後藤勝基など手に余る者には、自分の娘や姉妹、或いは親類の娘を養女として、縁組を成立させて親類の体を表し、時節を見はからった上で毒殺したり、闇討ちして寝首をかく(暗殺・謀殺)行いが多い>と書かれており、良い感じの悪人っぷり。
また、
風雲戦国史 戦国武将の家紋 宇喜多直家には、弟の忠家でさえ、晩年の述懐に「兄は恐ろしい男だった。腹黒く、なにをたくらんでいるかわからないところがあった。それゆえ兄の前に出るときは、かならず衣服の下に鎖帷子(くさりかたびら)をつけたものだ」と言ったと書かれています。
ということで、性格が悪いがために、この方はあんまり人気ないそうです。ただ、戦国時代のような時代には、こういう悪人もときには出てくるのも仕方ないことでしょう。現代でこれやられたら、普通に困りますけど…。
●そもそも「悪人」とはどういう意味?良い意味の可能性は…
2020/03/18:「悪人」ってひょっとしたら悪い意味でもないのかも…と、今さら辞書を確認することに。「悪党」なんかは以前別の意味でしたよね。先にこの「悪党」を見てみましょうか。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典よると、悪党も基本は「悪者」って意味で良かったようです。
<悪者の意であるが,特に鎌倉時代末期以降,幕府や荘園領主に反抗する地頭,御家人,非御家人,名主 (みょうしゅ) などの集団をいった。次第に大勢力となり,荘園支配を脅かし,室町時代には国人 (こくにん) に発展した。(中略)江戸時代には博徒らをこの名で呼んだ>
で、肝心の「悪人」の意味ですが、こちらは普通に悪者という意味しか載っていませんでした。また、先程の悪党とイコールともしています。ということで、やっぱり宇喜多直家らは、「悪いやつ」って認識で三大悪人と呼ばれているみたいですね。
<よくない心をもった人。よくない事をする人。わるもの。悪党。 ⇔ 善人>(
大辞林 第三版の解説より)
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