今の教科書では大化の改新は645年じゃない 645年は乙巳の変や
鎌倉幕府成立の年号 1192年、1185年など6説併記の教科書が登場と似たような話ですけど、このような教科書の変化というのはすごくおもしろいと感じます。
今回は聖徳太子不在説。実は以前の
聖徳太子の作った法隆寺は焼失しているなどのときにやろうと思っていたのに、すっかり忘れていた話です。
2013年03月27日13時31分 朝日新聞
聖徳太子は実在せず? 高校日本史教科書に「疑う」記述
【岡雄一郎】聖徳太子は架空の人物――!? 2014年度から主に高校2年生が使う日本史の教科書では、これまで「常識」とされてきた歴史を疑う記述が目立つ。「史実は容易に定まらない」という歴史学の宿命を教えるのが狙いのようだ。
清水書院は「聖徳太子は実在したか」と題したコラムを載せた。憲法十七条や冠位十二階といった施策は太子の実績と断定できない、旧1万円札で有名な肖像画も「太子像」とする根拠がない――との内容だ。
近年、太子の実像に関する史料研究が進んだことに触れ、「多くの疑問が提起されている」と結んでいる。「研究者の間では以前からある話題。史料には様々な見方があるという面白さを知ってほしかった」と編集担当者は話す。
http://www.asahi.com/national/update/0327/TKY201303270082.html ここでは聖徳太子の記述は少ないです。ただ、関連記事として同じ朝日新聞の別記事が紹介されていました。
2012年4月4日10時35分 宮代栄一
本当にいたの? 聖徳太子
これまでの一般的な考え方では、聖徳太子は574年、大兄皇子(おおえのみこ=のちの用明天皇)の子として生まれた。厩戸皇子(うまやどのみこ)と呼ばれて、のち、叔母にあたる推古天皇の皇太子となり、摂政として国政をつかさどった。
四天王寺や法隆寺を建て、冠位十二階や十七条の憲法を定め、中国へ使者を送り、仏典の注釈書「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」を著した。622年になくなったとされる。
10人が我先に言った言葉を理解して的確な答えを返したという超人。お札の肖像になったりマンガ「日出処(ひいづるところ)の天子」の主人公になったりしたから、イメージが浮かぶ人もいるだろう。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201204030214.html 10人の話を聞いたみたいなうそ臭いエピソードが登場していますけど、これは昔にはよくあることであり、不在説の根拠ではありません。
では、実在を疑われた理由は何でしょう?
朝日新聞によれば、不在説の端緒となったのは、中部大教授の大山誠一さんが著書『
〈聖徳太子〉の誕生』(1999年)だそうです。
大山さんは、聖徳太子のモデルと言える厩戸王という王族は実在したと述べる一方、史実は
(1)用明天皇と穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の間に生まれた、
(2)601年に斑鳩宮を造り、その近くに若草伽藍(がらん)として遺構が残る寺を建立した、
という程度だと指摘。「日本書紀」に記された他の事績は後世の捏造(ねつぞう)と断じた。
「聖徳太子の記事は、書紀の中でも記述があいまいな場合や、事実でない場合に登場する。推古紀の聖徳太子像はすべて虚構と考えざるを得ない」
そして、これらの捏造は、「日本書紀」を編纂(へんさん)した藤原不比等が、かつての日本にも、中国の皇帝と対比し得るような儒仏道を備えた聖天子(皇太子)がいたと示すことで、当時の皇太子で不比等の孫の首皇子(おびとのみこ=のちの聖武天皇)を権威づけるために行ったことだ、とした。
大化の改新の謎と過大評価 日本書紀は班田収受の法施行など嘘だらけでも日本書紀の記述におかしいところが多いという話が出ました。
また、同様に「日本書紀」が藤原不比等のために利用された書物なのでは?という話も当時出ています。
ただし、大化の改新の捏造性と異なり、聖徳太子不在説に関しては"多くの研究者は否定的"ということで支持が得られていないようです。
"厩戸皇子と死後に神話化が進んだ聖徳太子を分けるのは、むしろ学界のオーソドックスな考え方"ではあるものの、"記述が完全な捏造"とまでは考えにくいということのようです。
でも、記事で紹介されていた聖徳太子存在肯定派の人も結構ひどいことを言っています。
九州大名誉教授の川勝守さんは「十七条の憲法について、聖徳太子の頃に使われていなかった国司などの語があることから捏造とする意見があるが、当時の制度を後の言葉で説明したと考えれば矛盾はない」と指摘。「十七条の憲法に体現されたような仏教的徳治主義を遂行した人だったからこそ、聖徳太子と呼ばれたのだろう。聖徳太子という呼び名は、生前から使われていた可能性もある」
「当時の制度を後の言葉で説明した」可能性は確かにあるんですけど、それ言い出すと何でもアリになっちゃうような?
あと、"仏教的徳治主義を遂行した人だったからこそ、聖徳太子と呼ばれた"も全然根拠になっていません。そりゃ、仏教的徳治をしたって設定ですもの、そう名付けられるのも自然なのでは?
念の為に……と見ましたが、「聖徳太子」という名前の初出は"没後100年以上を経て天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』"であり、720年完成の『日本書紀』よりかなり遅いです。
『日本書紀』の設定のおかげでついた名前って考える方が自然であり、この説明だけだと「生前から使われていた可能性もある」には到底賛同できません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90 次も入りは否定かとおもいきや、結局肯定論というもの。学者ではないですが。
一方、「連載の途中、ふっと、この人は実在したのかと疑問に思うことはありました」と振り返るのは、「日出処の天子」の作者である漫画家の山岸凉子(りょうこ)さんだ。「でも、それは梅原猛さんが『隠された十字架』で書かれたように、後に藤原氏によって徹底的に存在が抹殺されたためなのかもしれません」
存在が抹殺……ってのはどういうことでしょうね?
前述の通り、藤原不比等が編纂した「日本書紀」ではむしろ聖徳太子が活躍していますので、存在は抹殺されていないんですけど……。
何だかこの記事だけ読むと、実在説派も不在説派もどっちもどっちだなと思ってしまいました。
(2016/08/01追記:さらに聖徳太子がピンチに! →
ついに教科書の本文からも消える聖徳太子 「聖徳太子はいなかった」が意味するもの)
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