徳川綱吉と生類憐れみの令の話をまとめ。<変わる教科書の徳川綱吉と生類憐れみの令の評価 名君と動物愛護>、<徳川綱吉が悪政を行ったという評価、実は根拠がいい加減だった>、<天皇はなぜ批判されない?日本では飛鳥時代に肉食禁止令が出てる>などをまとめています。
2023/01/24追記:
●天皇はなぜ批判されない?日本では飛鳥時代に肉食禁止令が出てる
2023/05/11追記:
●肉食禁止の日本食で健康長生き・欧米食は悪い…本当なのか? 【NEW】
●変わる教科書の徳川綱吉と生類憐れみの令の評価 名君と動物愛護
2013/5/15:歴史の教科書で教えていることが今と昔で全然違う!という話。なぜかこうした教科書の変化についてブチ切れている人もいらっしゃるのですが、私はむしろおもしろい!と感じ、大好きなので何度も書いています。今回読んだ記事では、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉は「劇的に評価が上がった」とされていました。
1988年版の教科書
〈生類憐みの令をだして犬や鳥獣の保護を命じ、それをきびしく励行させたため、庶民の不満をつのらせた〉
〈綱吉はぜいたくな生活をするようになり、仏教への信仰から多くの寺社の造営・修理を行い、幕府の財政を急速に悪化させた〉
現在の教科書
〈犬を大切に扱ったことから、野犬が横行する殺伐とした状態は消えた〉
<悪法とされてきた生類憐みの令が、〈綱吉政権による慈愛の政治〉とまで褒められている。『教科書から消えた日本史』の著者で、文教大学付属高校講師の河合敦氏は「綱吉ほど近年の研究で教科書上の評価が変わった人物はいない」という>
(>徳川綱吉 教科書記述一変、生類憐みの令は慈愛の政治と評価 2013.04.14 07:00 ※週刊ポスト2013年4月19日号より)
http://www.news-postseven.com/archives/20130414_181590.html 教科書の記述が変わることを受け入れられない人が多いのですが、私は楽しくて堪らない方です。ただ、この生類憐れみの令の話はちょっと気になるところ。「野犬が横行する殺伐とした状態は消えた」は冷静ですけど、「綱吉政権による慈愛の政治」あたりに行くとちょっと現代的な価値観の押し付けになってしまうおそれがあります。
生類憐れみの令は動物愛護だったから素晴らしい」みたいに現代感覚で捉えている人を見かけたことがあり、危うさを感じるところ。なお、現代日本で犬食文化がないのは、この生類憐みの令の影響ではないかと書いているのを以前読んだことがあります。これが正しければ、影響力が大きかったことは間違いなさそうです。
●徳川綱吉は暴君か名君か?評価が分かれてしまいがちな理由は…
以上は前述の通り、週刊ポストの記事からでした。出典が異なるものを複数見ておいた方が望ましいので、この後は、
Wikipediaを見てみます。すると、結構ひどい話が書かれている部分がありました。ここの部分だけ読んでしまうと、全然名君という感じではありませんね。
<家綱時代の大老酒井忠清を廃し、自己の将軍職就任に功労があった堀田正俊を大老とした。その後忠清は病死するが、酒井家を改易にしたい綱吉は大目付に「墓から掘り起こせ」などと命じて病死かどうかを異常なまでに詮議させたという。しかし証拠は出せず、結局酒井忠清の弟酒井忠能が言いがかりをつけられて改易されるにとどまった>
ただし、上記に続く以下のあたりは、徳川綱吉を評価できる内容となっています。すべてがすべて素晴らしいということはないですが、優れた将軍の一人であったことは間違いないでしょう。少なくとも過去の徳川綱吉に対するさんざんな評価は極端に悪すぎた…とは言えるかもしれません。
<綱吉は大老堀田正俊を片腕に処分が確定していた越後国高田藩の継承問題(越後騒動)を裁定し直したり、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、「左様せい様」と陰口された家綱時代に没落した将軍権威の向上に努めた。また幕府の会計監査のために勘定吟味役を設置して、有能な小身旗本の登用をねらった。荻原重秀もここから登用されている。また外様大名からも一部幕閣への登用がみられる。
また、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響している(弟としての分をわきまえさせ、家綱に無礼を働かないようにするためだったという)。綱吉は林信篤をしばしば召しては経書の討論を行い、また四書や易経を幕臣に講義したほか、学問の中心地として湯島大聖堂を建立するなど大変学問好きな将軍であった>
これは好き好きの問題であり、「だから徳川綱吉は名君」という話ではないのですが、徳川綱吉って天皇・皇族をめちゃくちゃ敬っていたんですよね。武士のトップの将軍なのに天皇を敬いまくりって変だと思うでしょう。でも、これが事実であり、有名な忠臣蔵の赤穂藩主切腹も天皇崇拝の影響があったという見方が有力です。
<儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家達の所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。
また、のちに赤穂藩主浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようである>
先程も書いたように、良いところと悪いところ両方あり。なので、暴君か名君かという単純化・二極化した評価にすること自体が本当は間違いかもしれません。Wikipediaでは、<綱吉の治世の前半は、基本的には善政として天和の治と称えられている>としており、その後は悪政というスタンスでした。
<貞享元年(1684年)、堀田正俊が若年寄稲葉正休に刺殺されると、綱吉は以後大老を置かず側用人の牧野成貞、柳沢吉保らを重用して老中などを遠ざけるようになった。また綱吉は儒学の孝に影響されて、母桂昌院に従一位という前例のない高官を朝廷より賜るなど、特別な処遇をした。桂昌院とゆかりの深い本庄家・牧野家(小諸藩主)などに特別な計らいがあったともいう。
この頃から有名な生類憐れみの令をはじめとする、後世に“悪政”といわれる政治を次々と行うようになった(中略)。これらが幕府の財政を悪化させた。勘定吟味役(後の勘定奉行)荻原重秀の献策による貨幣の改鋳を実施したが、本来改鋳すべき時期をやや逸していたこともあり、また元禄金と元禄銀の品位低下のアンバランス、富裕層による良質の旧貨の退蔵から、かえって経済を混乱させている。
ただし、このWikipediaでも生類憐れみの令について、<母の寵愛していた隆光僧正の言を採用して発布したものであるとする説があったが、現在では隆光や桂昌院と生類憐れみの令の関係は否定されている。また、一般的に信じられている「過酷な悪法」とする説は、江戸時代史見直しの中で再考されつつある>としています。
あと、私が徳川綱吉のことで納得行かないのは、綱吉が強力な権力を持っていたことを評価しないこと。名君であるかどうかはいろいろな見方があるのでしょうが、歴代の将軍と比べても力を持っていたということ自体は事実でしょう。上記で出てきた多くの寺社の造営・修理や改易なんかも、良くも悪くも綱吉の力の強さの現れではないかと思います。
●徳川綱吉が悪政を行ったという評価、実は根拠がいい加減だった
Wikipediaでは、そのものズバリ「評価」という項目もありました。「綱吉の行状については価値の低い資料による報告が誇張されて伝えられている部分もあり、近年では綱吉の政治に対する評価の再検討が行われている」として以下のような話がありました。どうも過去の綱吉評価は根拠がいい加減だったようです。
<綱吉は「側近の寵臣以外の意見を軽視し、悪法で民衆を苦しめた」という否定的評価がなされる一方で、元禄4年(1691年)と同5年(1692年)に江戸で綱吉に謁見したドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルの「非常に英邁な君主であるという印象を受けた」といった評価も受けている(ケンペル著『日本誌』)(中略)
綱吉の治世下は、近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉といった文化人を生んだ元禄期であり、好景気の時代だったことから優れた経済政策を執っていたという評価もある。また、治世の前期と後期の評価を分けて考えるべきだという説もある。前期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保の改革を行った8代将軍徳川吉宗も綱吉の定めた天和令をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、その施政には綱吉前期の治世を範とした政策が多いと指摘されている。
綱吉の治世の評価が低いことについては、不幸な偶然もいくつかあると指摘されている。具体的には、元禄8年(1695年)頃から始まる奥州の飢饉、元禄11年(1698年)の勅額大火(数寄屋橋門外より出火し上野を経て千住まで300町余を焼失、死者3,000人以上)、元禄16年(1703年)の元禄地震・火事、宝永元年(1704年)に始まる浅間山噴火・諸国の洪水、宝永4年(1707年)の宝永地震・富士山噴火、および宝永5年(1708年)の京都大火などである。それらは、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいが、当時はこういった天変地異を「天罰(=主君の徳が無いために起こった)」と捉える風潮が残っていた>
歴史の見方はその時代時代の価値観でどうしても左右される面があるのですが、さらに難しくするのがその時代を見るための資料が既に中立ではないこと。以下の新井白石の著作なんかは好例で、政敵をさんざんに書きましたので、かなり歪められた面があります。そのせいで私は新井白石が嫌いなんですよね…。
<新井白石は、元禄8年(1695年)以来始まった貨幣改鋳は、近年の奢侈流行による幕府の出費拡大の穴埋めのために金銀の如き天地から生まれた大宝に混ぜ物をした結果、天災地変を招いたのであって、これよりひどい悪政は前後にその類を見ないと批判した。これは白石の儒教的思想に基づくもので、家康の時代より続いた慶長の幣制は変えてはならず、金銀は「天地の骨」とする陰陽五行説から来る信仰であった>
ここらへんは現代人の歴史観もひどくて、昔の人のことを悪く言えません。Wikipediaでは、「現代においての評価の低さはドラマによるところが最も大きい」と指摘。徳川綱吉がドラマに登場するのは基本的に『忠臣蔵』関連か『水戸黄門』関連のドラマなのですが、どちらも悪役なのです。
<『忠臣蔵』(元禄赤穂事件)では大抵の場合、高家吉良義央が浅野長矩をいじめる姿が描かれる。その結果、浅野にのみ切腹を命じて吉良の罪をとわなかった綱吉には「いじめっ子」に加担したかのような否定的イメージが付きまとってしまう。このことも、綱吉の評価を実際以上に低めていると言える。
そして綱吉のもう一つの不運は『水戸黄門』(徳川光圀)の存在である。光圀には生類憐れみの令に抗議して犬の毛皮を送ったという逸話を中心に綱吉に直言したという記録がいくつかあるため、水戸黄門の物語中では悪役を割り当てられてしまっている。また、光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が自ら易経を講じるなど、類似した方向性を持っていたことから、水戸黄門ファンの中には、黄門を持ち上げるためにことさらに綱吉をけなすという風潮もある>
<光圀が『大日本史』を編纂し、綱吉が自ら易経を講じるなど、類似した方向性を持っていた>は、ちょっと意味がわからなかったところ。ただ、とりあえず、徳川綱吉と徳川光圀はともに尊皇思想(天皇重視)で思想が似ています。似ているのなら仲良くすりゃいいのに、同族嫌悪なんでしょうか…。(残っている資料を見る限り、一方的に徳川光圀が嫌っている感じ?)
●天皇はなぜ批判されない?日本では飛鳥時代に肉食禁止令が出てる
2023/01/24追記:以前、生類憐れみの令に関して、当時の人はガンガン肉を食べていたと誤解している人がいるが、そもそも日本人はあまり肉を食べていなかった…という話を書きました。同様にお寺さんだけが肉食しなかったのではない…という話も書いています。ここらへんも、現代人の感覚で見てしまうと、大間違いをおかすのです。
【和食の歴史】縄文時代から現代に至るまでの和食の歩みを解説〜年表付き〜によると、飛鳥時代である675年には天武天皇が「肉食禁止令」を出しています。これも生類憐れみの令同様に叩かれそうなものですが、「現代まで繋がる健康長寿効果がある和食文化の原点」と好意的に書かれていました。
<肉食を禁じられたことにより、魚で動物性たんぱく質をとり、大豆と米で植物性たんぱく質を補給するという、世界で類を見ない健康長寿効果の高い食文化を形成するきっかけになりました。
また、肉食が出来ない物足りなさを補おうと、だし取りの工夫や、彩も鮮やかなおもてなし料理、後の時代の精進料理や本膳料理や懐石料理に繋がっていくのです>
生類憐れみの令同様に、この「肉食禁止令」でも、動物の肉が全て食べられなくなったのではないとのこと。一部の残酷な方法の狩りは禁止されたものの、牛馬犬猿鶏以外の動物を食べることは禁止されなかったといいます。しかし、この禁止令により、日本人の食卓から動物の肉が激減したことは確かだろうとしていました。
先程「現代まで繋がる」と書いていましたし、以下では、「およそ1200年もの間、肉食を避ける文化が続いた」と書いています。素直にこれを信じると、徳川綱吉以上に影響力が強いのかもしれません。にもかかわらず、徳川綱吉のように天武天皇が叩かれてこなかった…ってのは、ダブルスタンダードで腑に落ちないところがあります。
<日本書紀の中には「牛馬犬猿鶏の宍(しし:肉のこと)を食うことなかれ。この他は禁令にあらず。もし犯す者あらば罰せむ。」とあります。
この禁止令が法律として廃止されたのは1871年(明治4年)です。開国し西洋文化が流入し、牛鍋が流行った時代ですね。それまでおよそ1200年もの間、肉食を避ける文化が続いたのです>
なお、<魚で動物性たんぱく質をとり、大豆と米で植物性たんぱく質を補給するという、世界で類を見ない健康長寿効果の高い食文化を形成>は、ちょっと過剰評価だと思います。というのも、これはこれで偏りがあり、デメリットがないわけではなく、実際、問題が生じていました。バランスよく食べることが大事なのです。
●肉食禁止の日本食で健康長生き・欧米食は悪い…本当なのか?
2023/05/11追記:前回書いた<魚で動物性たんぱく質をとり、大豆と米で植物性たんぱく質を補給するという、世界で類を見ない健康長寿効果の高い食文化を形成>は、ちょっと過剰評価で実際には日本食にもデメリットもあったという話。以前これについて別の投稿で書いていたと思ったら見つかりません。勘違いだったようです。
ということで改めて検索。
日本人の平均寿命を延ばした結核・脳卒中の激減は食生活の変化と病気の関係について書かれたもの。改善したのは他の理由も大きいのですが、「日本食が良くて欧米食が悪い」という単純なものではないとわかる部分もあります。
<戦後の復興が始まった昭和20年代の特に前半は食糧事情が大変に悪く、多くの人々が栄養失調の状態でした。そして、感染症が蔓延し、当時の死亡原因の第1位は結核(引用者注:江戸時代から多かった)、次が肺炎・気管支炎、続いて胃腸炎と死因の上位をすべて感染症が占めていました。(中略)
(引用者注:結核が減ったのは、)健康診断の実施、予防接種(BCG)の法的義務づけ、ストレプトマイシンなどの治療薬の普及が功を奏しました。それと併せて、食生活の改善による栄養状態の向上と衛生環境の改善も大きくかかわっているものと考えられます。
低栄養の状態では、結核の病状を著しく悪化させることが動物実験でも確認されています。また、栄養状態が平均的に良好であるとは言えない開発途上の国では、結核による死亡率が高いことからも、栄養と結核は深い関係があることを推定させます>
<結核と共に高い死亡率を示し、日本人の平均寿命の延びにブレーキをかけてきたのが、脳卒中などの脳血管疾患です。この病気による死亡者数は、結核による死亡率が急激に減少し始めた昭和26年以降も増加傾向を続けましたが、昭和45年をピークにその後は急速に減少しました。これも、穀物中心の食塩摂取量の多い食生活から、動物性たんぱく質をきちんと一定量を摂る食生活に変わってきたことと無関係ではありません>
一方、
食生活によって病気は変化する|総合南東北病院 広報誌健康倶楽部では、食事の変化で減った病気・増えた病気両方あることがわかります。日本食が良い・欧米食が良いといった単純な話ではなく、実際にはもっと複雑だと考えた方が良いでしょう。
<日本人の生活は第二次世界大戦終了(1945年)後、一変しましたが、それにともない食生活にも大きな変化が表れました。昭和25年頃とくらべ、平成に入ってから肉、卵、牛乳の摂取量は増加し、逆に米の摂取量は約半分、イモ類の摂取量にいたっては約10分の1に減少したのです。
その結果、日本型の脳卒中である脳出血は激減し、日本型の胃ガン、子宮頸ガンが減少、欧米型のガンである肺ガン、大腸ガン、乳ガン、食道ガン、白血病などが激増してきたのです。
戦前はほとんど日本にはなかった心筋梗塞、糖尿病、痛風、脂肪肝などの生活習慣病をはじめ、アレルギー、膠原病(こうげんびょう)などの免疫の異常によるものとされる疾病も著増しています>
総合南東北病院では上記の後「つまり、食生活の欧米化により、病気も欧米化してきたといえるわけです」と書いています。たぶん多くの人はここだけ見て、「欧米食が悪い、日本食がいい」と思ってしまうのでしょう。しかし、前述の通り、欧米化によって減った病気もあるというのが事実です。
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