<多才すぎる榎本武揚、殺されないどころか新政府で重宝されまくり>、<和魂洋才の江戸っ子 気さくに話をして洒落た冗談も飛ばす>、<二君に仕えた裏切り者!福沢諭吉などからは嫌われる>、<明治最良の官僚…民衆からは人気で明治天皇もお気に入り>などの榎本武揚の話をやっています。
2022/03/11追記:
●「武士は二君に仕えるな」の批判、本来の武士の考え方ではない
●武士道は江戸時代の捏造で、明治以降になって再評価されたもの
●榎本武揚の父親は広島の郷士で、株を買うことで幕臣に
2009/12/7:榎本武揚は幕末明治維新の人の中でも評価が高いわけではないでしょうし、私も正直強い印象を持っていませんでした。が、改めて逸話などを見てみると、むしろかなり魅力的な人物だと思いました。
榎本武揚(えのもとたけあき)は、有職読み(敬意を表した呼び方)で「ぶよう」。通称は釜次郎、号は梁川。Wikipediaでは、江戸幕末~明治期の武士・幕臣、政治家と説明しています。(以下、特に断りない限り
榎本武揚-Wikipediaより、※1は
和魂洋才の人・榎本武揚、鈴木輝次より)
榎本は次男で釜次郎と言う名ですが、長男は鍋太郎です。父円兵衛は鍋と釜さえあれば食べていけるとして、このような名を付けたそうで、お父さんもユニークそうな方ですね。
その父はもとの名を箱田良助と言い、備後福山藩箱田村(現広島県福山市神辺町箱田)出身の郷士でした。その後、江戸へ出て幕臣榎本家の株を買い、榎本家の娘と結婚することで養子縁組みして幕臣となり、榎本円兵衛武規を称したそうです。また、伊能忠敬にも師事していたとも書かれています。(郷士との情報のみ※1より)
こんな感じで武家の株を買った家などから、優秀な人がよく出ているんですよ。榎本武揚もそうだったんですね。今回、初めて知りました。
●半端ない知識欲で何でも学び、実質的幕府海軍トップに
榎本は儒学・漢学、英語などを学び、19歳で蝦夷地箱館に赴き、樺太探検にも参加。さらに国際情勢や蘭学(西洋の学問や航海術・舎密学=化学)などを学びます。そして、オランダに留学し、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学び、幕府が発注した軍艦「開陽」で帰国。実質的に幕府海軍のトップというところまで出世しました。
このうちオランダ留学についてですが、本来の目的は船舶運用術とか砲術・蒸気機関を勉強するだけだったとのこと。ところが、それに飽き足らず、化学を研究し、更に手を広げて鉱物学を、その上、国際法をも…といった経緯だったようです(※1より)。ここらへんの知識欲は半端ありませんね。特に舎密学(化学)については、日本国中で自分に及ぶものはいないと自信を持っていたようです。
大政奉還後の戊辰戦争では、抗戦派の旧幕臣とともに旧幕府艦隊を率いて脱出し、蝦夷地に逃走、箱館の五稜郭に拠り、蝦夷共和国を樹立して入札(選挙)の実施により総裁となります。しかし、新政府軍との戦力差は歴然で、相次ぐ敗戦や軍艦の沈没で榎本は降伏することになりました。
●多才すぎる榎本武揚、殺されないどころか新政府で重宝されまくり
榎本は降伏したものの、その非凡な才に感服した蝦夷征討軍海陸軍総参謀黒田了介(黒田清隆)の熱心な助命嘆願活動により、一命をとりとめました。黒田は「どうしても榎本を斬るなら、その前に俺の首を斬れ」(※1より)とまで言っていたようです。また、このときには、後に榎本を批判的した福澤諭吉(後述)も、助命に尽力したといいます。
その後は特赦で出獄、新政府に登用されました。多才な榎本は、化学技術者として北海道開拓、国際法の知識・語学を買われロシア全権公使、内閣制度成立後は6度の内閣で連続して大臣になる(逓信大臣、農商務大臣、文部大臣、外務大臣)など、重要な職を歴任しました。薩長藩閥の中、バランサーという意味合いもあったようですが、万事に詳しい上に、名誉欲がない榎本だからこそかもしれません。
足尾鉱毒事件では、農商務大臣の地位にあったときに、予防工事命令を出し、企業と地元民の間の私的な事件であるとしてきたそれまでの政府の見解を覆し、国が対応すべき公害であるとの立場を明確にし、後の抜本的な対策に向けて先鞭をつけ、自身は引責辞任しました。
ここらへんは知識一辺倒でなく、情もある榎本の性格が表れている気がします。
●和魂洋才の江戸っ子 気さくに話をして洒落た冗談も飛ばす
2009/12/8:この「知識一辺倒でなく、情もある榎本の性格」の関係の逸話を以降いくつか。
榎本は江戸っ子で、スカッとした性格、意地を張るべきときは意地を張り、事が落ち着けばカラッとして何のこだわりも持たない、誰とでも「べらんめー調」で気さくに話をする、洒落た冗談を飛ばすなどという性格だったそうで、和魂洋才の人と言われています。(
和魂洋才の人・榎本武揚、鈴木輝次、以下※1より)
後に新政府に登用されたため、榎本は裏切り者呼ばわりもされますが、幕臣としての意識は高かったようで、江戸城開城の前にも徹底抗戦を唱え、だからこそ蝦夷地にまで逃れて抵抗したのでしょう。
この江戸城開城以前に大阪にいた将軍徳川慶喜が、それぞれの隊長を大坂城の大広間に集めて、出馬宣言をしておきながら、こっそりと城を脱出、軍艦開陽(開陽丸)に乗って江戸に逃げ帰るという大失態を犯しています。(※1より、輸送船のみ丸を付し、軍艦は付さないので、「開陽丸」は誤りとか。これはWikipedia情報)
慶喜の乗った「開陽」の艦長は榎本でしたが、陸軍首脳部と連絡をとるため、榎本は大坂に上陸して不在でした。副長は「たとえ将軍が乗り組んでも、艦長が不在では艦を動かすことは出来ない」と拒否し、帰艦を待つように言上しましたが、慶喜は聞く耳を持たず、止むを得ず榎本を置いてけぼりにして出航したそうです。(※1より)このときも本来であれば、榎本は戦いたかったのではないかと思われます。
その他の榎本の逸話としておもしろかったのが、約二ヶ年の牢獄生活の話。
榎本はこの牢獄生活を、久しぶりにユックリ本を読み、勉学をする機会を与えられたと、感謝したというので、とてつもない前向きさ。ここらへんは父譲りかもしれません。また、自分より他人のことが気に掛かる性格のようで、生活の足しになる知識を家族に手紙で知らせ、旧幕臣たちにも教えるように伝え、同じ房に入っている囚人たちの面倒を見ていたそうです。(※1より)
●二君に仕えた裏切り者!福沢諭吉などからは嫌われる
良い話ばかり紹介しましたが、前半でも書いたように裏切り者と非難する人もいて、福沢諭吉などは特に彼を嫌っていたとのこと。福沢は「瘠我慢の説」という書で「無為無策の伴食大臣。二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト(=日和見主義者)。挙句は、かつての敵から爵位を授けられて嬉々としている『痩我慢』(=忠君愛国の情を持つこと)を知らぬ男」とぼろくそに書いています。(
榎本武揚-Wikipediaより、以下※2)
ただ、福沢は先程書いた通り、榎本の助命をしているんですよね。また、黒田から「海律全書」の翻訳を依頼されたときも、一瞥して、「その任に当たるについては榎本の他にその資格なし」として辞退したと伝えられており、その能力は認めていたようです。(どうもこれは獄中にあったときのことらしく、助命の一種でもあったようです、
福沢諭吉の榎本武揚助命 私の研究所より、以下※3)
同様に新政府に登用された勝海舟も批判している福沢ですので、「二君に仕えたこと」が相当気に入らなかったのかも知れません。しかし、福沢は「獄中の榎本達が何時か優れた高官に成るだろう、と予測していた」(※3より)そうですので、助命しておいてそりゃないだろうとも思います。
●明治最良の官僚…民衆からは人気で明治天皇もお気に入り
先程の翻訳の件は、※3によると、オランダ語は福沢諭吉にとって得意な語学だったので、翻訳するのは容易だったが、福福沢諭吉は敢えて全部を翻訳せず、助命する様に伏線を張って、本を返却したとあります。しかし、翻訳を依頼したのは元から助命に1番熱心な黒田ですし、助命ありきだったかもしれません。
福沢諭吉が実際に翻訳できなかった可能性もあるかもと思いました。というのも、語学ができても専門書を訳せるとは限らないため。英語のネイティブがみんな専門書を理解できるわけではない、日本語ができる日本人がみんな専門書を理解できるわけではない…のと同じです。
なので、案外、この件は本当に訳するのが難しかったからということもあるかもしれないと思ってしまいました。そして、後になって、博学な榎本にちょっと嫉妬しちゃったというのもあるのかもしれません。一方、民衆からは「明治最良の官僚」と謳われたり、明治天皇のお気に入りだったりと、人気があったのも事実のようで、嫌われてばかりだったということではないようでした。(※2より)
その他だと、留学にも行った海外通でありながら極端な洋化政策には批判的で、園遊会ではあえて和装で参内した(※2より)といった逸話もあり、おもしろい人だと思います。この話は当初「ひとり人名しりとり」でやっていた話であり、榎本武揚に決めたのは何となくだったのですが、とても魅力的な人であり、調べて良かった…と思いました。
●「武士は二君に仕えるな」の批判、本来の武士の考え方ではない
2022/03/11追記:福沢諭吉が榎本武揚を「二君に仕えるという武士にあるまじき行動をとった典型的なオポチュニスト(=日和見主義者)」などと批判した…という話を紹介していました。ただ、そもそも「武士は二君に仕えるべきではない」という考え方は本来の武士の考え方ではなく、後世の捏造なんです。
他の投稿でも紹介したように、
武士道のWikipediaでは、「近世における武士道の観念」のところで、以下のように説明しています。そもそも戦国時代の主従関係は強固なものではありません。私は「社長と社員」の関係よりは、「大企業の社長と取引先の社長」の方が近いイメージなんじゃないかと勝手に思っています。
<武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。なぜなら、
中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われるような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」といった考え方は当時は主流ではなかった。>
●武士道は江戸時代の捏造で、明治以降になって再評価されたもの
現在のイメージの武士道の形が出てきたのは戦国時代以前ではなく、武士がほぼ戦闘を行わなくなった江戸時代になってからだとのこと。中国・南宋の朱熹(しゅき、1130年-1200年)によって構築された儒教の新しい学問体系「朱子学」の影響だと、Wikipediaでは説明されていました。後世の武士道は中国の影響が強いとも言えるかもしれません。
<江戸時代の元和年間(1615年 - 1624年)以降になると、儒教の朱子学の道徳でこの価値観を説明しようとする山鹿素行らによって、新たに士道の概念が確立された。これによって初めて、儒教的な倫理(「仁義」「忠孝」など)が、武士に要求される規範とされるようになったとされる。山鹿素行が提唱した士道論は、この後多くの武士道思想家に影響を与えることになる>
また、現在のつくられた武士道観は、多くの文化破壊と捏造が行われた明治時代にも、強い影響を受けています。江戸時代の体制を否定したはずの明治政府にとって江戸時代の武士道は都合が良かったようで、国家主義者と呼ばれる今で言う右派系の人たちがこれを利用していました。
<明治維新後、四民平等布告により、社会制度的な家制度が解体され、武士は事実上滅び去った。実際、明治15年(1882年)の「軍人勅諭」では、武士道ではなく「忠節」を以って天皇に仕えることとされた。ところが、日清戦争(引用者注:明治27年)以降評価されるようになる。例えば井上哲次郎に代表される国家主義者たちは武士道を日本民族の道徳、国民道徳と同一視しようとした>
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