2013/6/17:
変わる教科書の徳川綱吉と生類憐れみの令の評価 名君と動物愛護の続き的な感じで、今回は生類憐れみの令の
Wikipediaを読んでみることに。最初、評価に関係する部分を抜き出してみようかと思いましたけど、評価に限らず全般に気になったところを見ていきます。
まず勘違いの例として挙げられていたのが、"「生類憐みの令」は、そのような名前の成文法として存在するものではなく、複数のお触れを総称"だということ。それから、教科書にそんなこと書いていなかったので、そんな勘違いしている人いるの?と思いますが、"「犬」が対象とされていたかのように思われているが"とありました。もちろん違います。
当然、"猫や鳥、魚類・貝類・虫類などの生き物"全般に及んだものであり、犬限定の法律じゃありません。ただ、私も知らなくてびっくりしたのが"人間の幼児や老人にまで及んだ"ということ。
変わる教科書の徳川綱吉と生類憐れみの令の評価 名君と動物愛護で出てきた「綱吉政権による慈愛の政治」というのは、ここらへんを踏まえているのでしょうか?
"綱吉の死後、宝永6年(1709年)早速犬小屋の廃止の方針などが公布され、犬や食用、ペットなどに関する多くの規制が順次廃止され"ましたが、"牛馬の遺棄の禁止"の他、この"捨て子や病人の保護などは継続"されたそうです。
一方、もともと気になっていた生類憐れみの令の評価に関わる話。以下のように見直し論が進んでいるそうです。ただ、前回も書いたように、あまり現代的な観点を入れすぎるのもマズいと思いますけどね…。
<一般的に「苛烈な悪法」「天下の悪法」として人々に認識されているが、江戸時代史見直しと共に徳川綱吉治世の見直し論も起こり、この令も再検討されている(詳細は見直し論参照)。また、動物愛護法をはじめ、刑法の保護責任者遺棄罪、殺人罪や児童福祉法、児童虐待防止法として現代においても同様の法令が制定されるに至っている>
・見直し論
<見直し論の立場に立つ山室恭子は、「生類憐みの令の目的は、綱吉の時代にはまだ残っていた戦国時代の荒々しい風潮を一掃することであった」と推測している。しかし「荒々しい」人々は、この意外性の強いお触れに対し、次々に裏をかいておちょくり、そのため幕府側も次々に詳細なお触れで対抗するという、ある意味で不幸なループに陥り、そのため事実をはるかに上回る「面白い話」として後世に伝えられてしまったのではないか、としている。
また、6代将軍家宣や儒学思想に基づく新井白石らの政治をことさらに良く見せようとする意図もあったと推測している。ちなみに白石は綱吉の将軍就任に功績のあった堀田正俊の家に仕えていたが、正俊の死後の堀田家は、綱吉によって何度も改易されるなど何故か冷遇されている。おかげで白石は浪人生活をするはめになり、ために白石が綱吉に対して個人的な怨恨を持っていた可能性も否定できない>
新井白石が自己アピールために徳川綱吉の政治を悪く書いていた可能性…というのは、前回の徳川綱吉の項目でも出てきました。このように政敵の一方的な主張は信頼性が低く、第三者評価の資料の方が本当は望ましいです。一方、以下の隠れキリシタン摘発目的というのは初耳。これは胡散臭さがありますね。
<また、当時のキリシタンは肉食を推進していた為、この令の発布によって動物殺生を発見させ、隠れキリシタンの摘発を促進したという説もある[要出典]。この説を主張する者によると「生類憐みの令は、些細な殺生を禁じ、違反者に対して厳罰で報いた悪法である」というものであるが、その根拠は現時点では確認されていない>
学校の授業や小説などのこの時代を描いた創作物だと、「厳しすぎる生類憐れみの令のせいで庶民が苦しんだ…」というイメージ。ただ、ここらへんも異論があるようで、厳罰でなかった可能性があります。とはいえ、前半は出典なしの記述もあるので注意。後半は出典があります。
<当時の処罰記録の調査によると、ごく少数の武家階級の生類憐みの令違反に対しては厳罰が下された事例も発見できるものの、それらの多くは生類憐みの令に違反したためというよりは、お触れに違反したためという、いわば「反逆罪」的な要素をもっての厳罰であるという解釈がある[要出典]。町民階級などに至っては、生類憐みの令違反で厳罰に処された事例は少数であるとする[要出典]。また、徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の日記には、生類憐みの令に関する記述があまりなく、重要な法令とは受け止められていなかった可能性が強いのではないかと推論している。
また、生類憐れみの令が遵守されたのも江戸近辺に限られ、地方においてはほとんど無視されていたという見解もある。『鸚鵡籠中記』の記述によると、尾張藩においても立て札によって公布はされたものの、実際の取り締まりは全くなされておらず、著者の朝日重章自身も魚捕りを楽しんでいた。元禄の大飢饉において、東北地方において生類憐みの令を厳しく行ったために、獣が人を恐れずまた食用にする事もできずに被害が大きく拡大したという説もあるが、親藩においてもこのような状態であった以上、飢饉の最中の東北地方において生類憐みの令が厳しく取り締まられたという事は到底考えられない。また先に挙げられている『耳目心通記』でも生類憐みの令の飢饉の最中での実効性がほぼ無力である現実が記されており、また飢饉の最中に人間が禽獣に襲われる事はよくある話で、生類憐みの令と特に関連があったとは考えにくい>
上記で、<先に挙げられている『耳目心通記』でも生類憐みの令の飢饉の最中での実効性がほぼ無力である現実が記されており>とありました。これは、以下の記述のこと。生類憐みの令の罰が厳しすぎて動物を食べられずに被害が拡大したということはなく、ガンガン食べていたようです。
<元禄の大飢饉は1695年〜1696年(元禄8年〜9年)に東北を中心とする東北地方を襲った冷害で、収穫が平年の3割しかなく、津軽藩では領民の3分の1に相当する5万以上の死者を出したという。飢饉の様子を記録した『耳目心通記』(じもくしんつうき)によると、「道を往けば、餓死者が野ざらしになり、村では死に絶えた家が続き日増しに増えた。肉親が死んでも弔う体力もなく屍骸は放置される。11月になると積雪のため草木の根を取る事もできず被害は増した。生き残った家庭でも一家心中や子殺しが続いた」という。 さらに、死骸はおろが生きてはいるが路上で力尽きたものまで、獣や鳥に襲われ貪り食われた。また人間も牛馬犬鶏のみならず中には肉親の死肉を食うものまでいたという。 『耳目心通記』では何箇所もこれらの現実の前に、代官や庄屋を通じて説かれていた生類憐みの令が無力であった事が記されている>
先程、出典なしに注意するように…と書いたのですが、現在の話でも昔の話でもまず証拠があるかどうかが大事で、さらにその証拠の信頼性を見ていく必要があります。逆に言うと、生類憐れみの令の悪評は信頼できる証拠集めをしなかったせいとも言えるかもしれませんね。
見直し論の続き。Wikipediaでは、「他に、犬の収容と飼育も治安維持を主眼としていた可能性がある」としていました。当時の往来は現代からは考えられぬほど野犬の危険度が高かったそう。さらに、大名屋敷で放し飼いにされた犬が野犬化してこれに拍車をかけたといいます。この対策ではないか?という説です。
<刑場付近では人肉の味を覚えた凶悪な野犬が徘徊し、また前述のように飢饉ともなれば所構わず野犬の被害(咬創、狂犬病)が続出した。この法令で4万匹の犬を収容していたとされる[要出典]が、江戸市街には10万匹近い犬がいた為、その犬が更に野犬化したら、江戸の治安を維持する事は適わないだろう>
これは現在で言う保健所的な役割であり、その有効性がわかるでしょう。ただ、収容せずに犬を殺すという選択肢もありますので、収容がベストとも言いづらいかもしれません。実際、日本の保健所は犬を捕まえて殺す…ということをずっとやってきました。
<また、厳罰説を正しいと仮定した上での弁護論もある。生類憐みの令は処罰された側から見ると悪法に見えるが、当時、まだ戦国時代の「人を殺して出世する(賃金を得る)」がごとき風習が未だ根強く、病人や牛馬などを山野に捨てる風習や、宿で旅人が病気になると追い出されるなどの悪習などを改めるための法律であったと考えれば、厳罰を以って処すことの是非を軽々しく評価はできない。また、捨て子の禁止とその保護も生類憐みの令には含まれていた。尚、生類憐みの令がきっかけで庶民にも犬を飼う習慣が出来たとする説も存在する[要出典]>
ただ、ここまで読んできてわかるように、[要出典]がやけに多いです。批判説も擁護説もあやふやなところが多いのかもしれません。とりあえず、生類憐れみの令に関するものでしっかり確かめてほしいと思うのが、厳罰さや実行力の強さ。上記でも既に諸説出ていますが、他にも以下のようなものがありました。
<武士階級も一部処罰されているが、武士の処罰は下級身分の者に限られ、最高位でも微禄の旗本しか処罰されていない(もっとも下記にあるように、武士の死罪は出ている)。大身旗本や大名などは基本的に処罰の対象外であった。そのため、幕府幹部達もさほど重要な法令とは受け止めていなかったようである>
なお、"法令に嫌悪感を抱いた徳川御三家で水戸藩主の徳川光圀は、綱吉に上質な犬の皮を20枚(一説に50枚)送りつけるという皮肉を実行したという逸話"は、"明確な出典が確認されず後世の創作"の可能性があるようです。さらに、「地方では、生類憐みの令の運用はそれほど厳重ではなかった」という話があります。
<『鸚鵡籠中記』を書いた尾張藩士の朝日重章は魚釣りや投網打を好み、綱吉の死とともに禁令が消滅するまでの間だけでも、禁を犯して76回も漁場へ通いつめ、「殺生」を重ねていた。大っぴらにさえしなければ、魚釣りぐらいの自由はあったらしい。
また、長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く、生類憐みの令はなかなか徹底しなかったようである。長崎町年寄は、元禄5年(1692年)および元禄7年(1694年)に、長崎では殺生禁止が徹底していないので今後は下々の者に至るまで遵守せよ、という内容の通達を出しているが、その通達の中でも、長崎にいる唐人とオランダ人については例外として豚や鶏などを食すことを認めていた。
この法令は主に側用人を通じて出されており、中でも喜多見重政は『御当代記』にも「犬の事の大支配極まりは、喜多見若狭守である」と記されており、綱吉が中野・四谷・大久保に大規模な犬小屋を建てたことに追従して、自領喜多見に犬小屋を創設している(ただし喜多見に犬小屋が設けられたのは喜多見重政の失脚後という説もある)。この喜多見をはじめとする側用人たちが法令のそもそもの意味を歪めて発令したと主張する者もいる[要出典]>
「長崎では、もともと豚や鶏などを料理に使うことが多く」「唐人とオランダ人については例外」とありますした。皆さん勘違いしているんじゃないかと思うのは、
日本人はもともとあまり多く肉を食べていなかったという事実。そこの感覚を現代の調子で理解してしまうと、大きく誤解してしまいます。
Wikipediaでも<もっとも、
従来より仏教の影響もあり獣肉を食するのを嫌悪する風潮はあり、
本格的に獣肉を食するようになるのは明治時代以降の事である>とありました。今と違って肉食べまくりの生活じゃないかったんですよ。こういう部分も歴史を見る際には注意しておきたいところですね。
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