「あれっ」外野4人?奇策に動じず打ち勝った
前橋工の3番・原沢健人選手(3年)は健大高崎が講じてきた奇策にも動じなかった。
今大会4打点の原沢選手の長打力に対し、健大高崎が初回などの守備で見せた「外野4人態勢」には、「思わず健大高崎ベンチの方を見てしまった」という。
五十嵐卓也監督から「変に意識するな」と試合途中にアドバイスされ、普段通りの打撃に徹した結果、この試合、5打数3安打を記録した。
頼れる打者は試合を振り返り「先制されても落ち着いていた。自分たちの打撃には自信がある」と確かな手応えを口にした。
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初回、今大会3本塁打を放っている前橋工の3番・原沢健人(3年)が打席に立つと、健大高崎の内野手の一人が外野へと駆けた。
「あれっ」。前橋工ベンチから、どよめきが上がった。原沢に象徴される強打の前橋工打線に対し、健大高崎が仕掛けた「外野4人態勢」だった。「単打で済めば、まだいい方だと思った」と健大高崎の青柳博文監督は振り返る。
2013年7月24日12時36分 読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/sports/hsb/2013/prelim/news/20130724-OYT1T00490.htm
王シフト(おうシフト)は、読売ジャイアンツの王貞治選手が打席に立った際、対戦チームが敷いたシフト。特に、広島カープ(現・広島東洋カープ)の白石勝巳監督(当時)が1964年頃に考案した配置に対してこの呼称を用いる。
解説
当時、広島カープのスコアラーを務めていた川本徳三は王の打球が右方向に集中していることに目をつけた。そこで川本は地元企業で後に広島に資本協力をすることになる東洋工業(現マツダ)の所有する電子計算機を使って王のデビュー戦以来の全打席の打球方向を数値化し、白石はその結果に基づいて選手の守備位置を決めたという。
一塁手を一塁線へ、二塁手をより一塁側へ、遊撃手は二遊間へ、三塁手は遊撃手の守備位置へ、外野手はそれぞれ右方向へ移動。結果フィールドの右半分に野手が6人という極端なシフトとなった。電子計算機での試算結果によると、このような極端なシフトを採った場合、王の全打席通算打率は2割3分台まで低下するという具体的な結果が示されており、王シフトは単なる思いつきではない、後年の「データ重視野球」の先鞭を付けた例とも言われている。
白石監督の狙いは、右方向の打球が多い王のヒットを減らすことはもちろんであるが、それ以上にがら空きのレフト方向を王に印象付けてレフトへの流し打ちを誘うことにあった。左に流すバッティングなら長打も少なく、また流し打ちを繰り返しているうちにやがて一本足のフォームが崩れてくるのではないかとの狙いだった。(中略)左翼の守備についていた山本は「選手・コーチは経験上、以前から王の打球が右方向に多いのはわかっていた。それを改めて数値化したことで王シフトの必要性はみんなすぐに理解した」と語っている。
Wikipedia
しかし、王は王シフトを眼前にしても流そうとは全く考えなかったと語っている。白石も後年NHKのインタビューに対し、自らの狙いに反して自分のスタイルを貫き通した王のこの姿勢を高く評価している。(中略)
王は5月3日の試合(阪神戦)で1試合4打席連続本塁打を放っており、5月5日のダブルヘッダー第1試合(巨人-広島7回戦)の第1打席は5打席連続の新記録がかかっていた。しかし、結果は大羽進が2球目に投じた内角高めのシュートでファーストライナーに仕留められ、新記録達成はならなかった。第1試合は4打席無安打。ただ、王シフトを挙行した第2試合(8回戦)では、シフトを開始した打席でバックスクリーンのわずか右へ18号ホームランを放たれるなどして4打数3安打を決められる結果となり、このシフトも功を奏さなかった。しかし、このシフトは多少なりにもプレッシャーにはなったようで、例えば翌日の9回戦では遊飛と3つのセカンドゴロなどで5打数無安打に抑えたり、1964年の対広島戦の王の成績は打率.291、本塁打数は対戦した5球団で最も少ない7、本塁打率11.29であり、シーズンの成績(打率.320、55本塁打、本塁打率8.58)からみればまずまず成果はあったと「記録の神様」と呼ばれた宇佐美徹也は一応の評価をしている。
広島カープは5月5日のダブルヘッダーのどこかの王の打席で、この王シフトを敢行する予定だったらしく、第1試合の先発だった大羽進は「試合前に白石監督に呼ばれて、王の打席で変わった守備のシフトを敷くが、お前は気にせず普通に投げてくれ」と言われた、第2試合でそのシフトを見た時は「あまりにも極端なのでびっくりした」と話している[2]。
なお、王シフトにもほとんど自分のバッティングスタイルを変えることのなかった王だが、同年7月15日の広島戦で一度だけ三塁方向にバントしたことがある。バントした打球は誰もいない左翼方向を外野まで転がり、この間に王は二塁まで進んだ。このプレーは誰にもエラーがつかなかったため、王の二塁打が記録された。この「バントで二塁打」という珍記録も王シフトの副産物だった。
その他の王シフト
白石の考案した王シフトは他のチームにも影響を与え、他のチームも同様のシフトを敷くようになっていった。しかし王は動じることなく、1964年に放った日本記録となる55本塁打のうち50本がセンターから右方向の打球だった。王の長打力に磨きがかかり始めると、変わったシフトをとるチームも出てきた。
1968年6月26日、中日ドラゴンズは内野手4人を全部1塁、2塁間に配置、レフトを左中間、センターを右中間、ライトを一塁ライン際に守らせた。中心線から左側には外野手が1人いるだけというシフトだった。
また、1972年の日本シリーズ第1戦(10月21日)、阪急ブレーブスは二塁手を1、2塁間に、三塁手を遊撃手の位置に配置し、中堅手の福本豊を右中間に、そして遊撃手の大橋穣をセンターに守らせる「外野4人シフト」を敷いた。この試合の王の第2打席は「遊飛(ショートフライ)」と記録されているが、これはバックスクリーン手前まで飛んだ打球を大橋が捕球したものである。
外野4人動じず!聖光学院4強/福島大会 - 高校野球ニュース : nikkansports.com
<高校野球福島大会:聖光学院9-0磐城>◇24日◇準々決勝◇県営あづま球場
聖光学院が磐城の外野4人シフトにも動じることなく4強入りを決めた。4番園部聡内野手(2年)、5番斎藤湧貴外野手(3年)ら強打者4人に対し、二塁手が中堅手の横まで下がった。園部は「あんなの初めて。ビックリした」と言うが、5回2死二塁から三塁線を破る適時打を放った。斎藤智也監督(49)も「さすが遠藤太(監督)だね」と敵将の奇策に驚いていた。[2012年7月24日21時12分]
http://www.nikkansports.com/baseball/highschool/news/f-bb-tp3-20120724-988663.html
大谷シフトで外野4人 - オガレオガサワラ
2012年5月25日 イワテニッポウより。
えっ、外野手が4人いる
「大谷シフト」にも動じず
落ち着き内野安打
「事件」は四回裏に起きた。花巻東の大谷翔平(3年)の打席。初級ボールの後、試合がストップ。大東の三塁手がいない。事態に気づき球場全体に笑いが広がる。「いや、おかしい…。えっ、外野手が4人いる」。三塁手を外野に回した大東の「大谷シフト」に今度は会場がどよめいた。
強打者を警戒した奇策に大谷も思わずにっこり。ファウルになったが2球目をバントで無人の三塁側に転がすと、観客席から拍手。3球目はあえて軽くバットを振り、遊撃内野安打とすると、大歓声がわき起こった。大谷は「(相手に打撃を)意識してもらえて、ありがたい。サードがいないので確率の高い打ち方を選んだだけ。自分が出塁し大量点に結びつけたかった」と笑顔で語った。
長打が嫌なら四球でいい場面だが、大東の小山智之監督は「投手に勝負させてやりたかった。単打ならいい。外野手4人を超える打球を狙ってくると思ったが…。自分を殺してチーム優先。さすが大谷君ですね」と脱帽した。
http://blog.goo.ne.jp/msmk/e/4f57accafad812d29bca20a49c173694
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