私はブログの中で「思います」といった書き方を多用しています。これは意識してやっているもので「敢えて」です。
理由は
日本人は科学を信じないが、みのもんたらの疑似科学は信じるで書いた話とも関係しますが、そもそも絶対だと言えるものは世の中に少なく、多くの物事は常に間違っている可能性があるからというのが一つ。
また、断定した書き方をしないものの、証拠となるもの・「思う」に至った情報などは多くの場合載せているので、それをもって読者の方に考えてほしいというのが一つです。
ただ、反省しなくちゃいけないなと思ったのが、そういった情報を見てちゃんと自分で考えられる人は、そもそも怪しい情報とは距離を置く場合が多いのではないか?ということです。
言葉尻に騙されて本質を見極められないからこそ怪しい情報に引っかかるわけで、そういう人たちに遠回しに答えを提示しても無駄だろうという考え方は、残念なことに説得力があります。
とはいえ、だからと言って断言できない情報を断言するわけにも行きません。疑似科学批判が非科学的になることがしばしばありますが、やはりそれはやってはいけないと私は考えています。
「良いことのためなら嘘を言って良い」と考えている方が少なからずいますが、やはりそれだと同じ穴のムジナになり、主張の正当性に疑問符をつけてしまうためです。
前置きが長くなりましたが、今日は結局そういう語尾みたいなところは本質じゃないんだよというお話。「思う」→「である」「考える」といった論文における言い換えという話題です。
多少ギャグ入っているところもありますけど、私も学生時代に論文には「思う」を使うなということは言われました。
NG表現 論文での言い換え表現
〜(だ)と思う。/〜(だ)と思います。 〜である。/〜(だ)と考えられる。
〜(ん)じゃないかと思う。 〜(の)ではないだろうか。
〜かもしれません。 〜の可能性がある。/〜で(あって)もよい。
〜(だ)と感じます。 〜(だ)と推測される。/〜と思われる。
〜は興味深いです。 〜は重要(な課題)である。
〜を知りたいです。 〜を理解する必要があろう。
〜の意味がわかりません。 〜をより深く理解する必要があろう。
〜は嫌です。/〜は好きじゃありません。 〜は必要とはいえない。/〜は適切ではない。
こんな話を聞いたことがあります。 このような事例が挙げられる。
みんなが〜(だ)と言っています。 一般に〜(だ)といわれている。
みんなが〜(だ)と思っています。 〜(だ)と広く信じられている。
論文・レポートらしい表現 にほんごのページ
http://web.ydu.edu.tw/~uchiyama/ron/rasii.htmlNG表現 論文での言い換え表現
とても;すごく 非常に;極めて
~おもしろい。 ~は重要である。
~はバカだ。 ~の見解には再考の余地が残る
研究しましたが~はわかりませんでした。 ~は今後の課題としたい。
もうダメだ。 議論が錯綜してきたので、原点に戻ってみることにする。
イヤになってきた。 ここで筆を置くことにする。
こう言い換えろ→論文に死んでも書いてはいけない言葉30 読書猿Classic: between / beyond readers
http://readingmonkey.blog45.fc2.com/blog-entry-557.html ともに全文ではなく、おもしろいと思ったところの抜粋です。(2つのリンク先では重なっている情報が多いです)
2つ目のリンクに関しては、これを「パクった人がいる」と問題になったようですが、1つ目のリンクのトップページに「更新日:2010年1月23日」とあるので、こちらの方が古いんじゃないでしょうか?
(2つ目のリンクは2012.01.03のもので、その元ネタも2010.12.03です)
ただ、これはどれがオリジナルであると争ってもあまり仕方ないと思います。
もっと数が少なかった記憶がありますが、私は昔コピペで似たような趣旨のものを見た覚えがあります。ある程度共通した理解のある言い換え表現だと思って良いでしょう。
なお、上記のうち2つ目のリンクについては、以下のような見方も存在します。
ただ、私はそれも無理がある解釈だろうと思います。「である」「したがって」など、それを論文に使えなかったら何て書くの?というものが、多数見られるためです。
それから、この言い換え表現でおもしろいなぁと思ったのが、こういうものがあることです。(以下は、1つ目のリンクより)
NG表現 論文での言い換え表現
そんな事実はありません。 そのような事実は認められない。
〜(だ)というのはウソです。 〜(だ)という事実は確認できない。
〜(だ)というのはインチキです。 〜が真実であるという証拠はない。
上で先に出していたものは主に自分の主張したい不確かなものを確かなように誤解させるテクニックですが、こちらは他人の不確かな主張をより慎重に批判するという反対の方向性の言い換え表現です。
これは私が最初に出したリンクの
日本人は科学を信じないが、みのもんたらの疑似科学は信じるで書いた「どう見たってインチキなものであっても、確実な証拠がない限り断定して批判するべきでない」という話と少し似ています。
勘違いしている人が多いと感じますけど、この世の中のほとんどの物事は黒と白で単純に色分けできるものじゃないのです。漫画のように善悪スパっと分けられるとか、二極化した極論と極論で争うとか、そういう方が多いので心配になります。
といった感じで、言葉尻を変えているというだけで、論文というのもまた確かなものではありません。
これは当然ですね。何しろ世の中には不正論文がはびこっているんですもの、「思う」と書かなかっただけで「確からしい」とは到底なり得ません。
大体にして、疑似科学的な主張。非科学的な主張をする人がむしろ自信満々というケースは珍しくありません。「だから信じられる」としてしまうとはなりません。
したがって、物事の確からしさを推測する場合に、こういった言葉のテクニックを重視しても仕方ありません。語尾を判断材料として真偽を決定しようというのは、むしろ非常に危険だと言った方がいいくらいです。
では、重要なのは何かと言うと、いかに確かだと思わせる証拠を提示できるかでしょうかね。
不正を行う人というのはデータの段階からいじってくることもあるのでそれもまた確実ではないのですが、今までに得られているほぼ間違いないとされる多くの知見と比べて、主張や証拠としているものにおかしい点がないか地道に見ていくしかないかもしれません。
これはとても難しいことであり、万人にできるか?と言うとそうではないでしょう。
わかる人は深く読まなくとも見た瞬間「怪しい」と感じられるもので、騙される方は結局どこまで行っても騙されたことに気づかないというケースが多いと考えられます。(騙された方は、間違いを指摘する情報の方を断固拒否が多いんですけどね)
前回と似たような結論になりますが、詳しい方により多く声を挙げていただいて、誤りや疑惑が存在することを繰り返し周知していくしかないと思います。
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