●日本初の外国人監督は弱小阪神!支持率70%で最初は好評だった
2021/07/28:タイトルだけだとなんの話かわからない人も多いでしょうが、今回は野球の話。元記事は、
30年前、プロ野球のガイジン監督に対する日本人の「民度」はこんなものだった(2012年10月25日 [橘玲の日々刻々])というものです。記事の時点で、30年前に、プロ野球史上、実質的にはじめての外国人監督となったドン・ブレイザーさんについてでした。
<一流の大リーガーだったブレイザーは35歳で日本に渡り、野球選手としてのキャリアを南海ホークスで終えたあと、日本が気に入ってそのまま家族とともに神戸で暮らすようになります。選手兼監督だった野村克也の下でホークスのコーチなどをしていたブレイザーに目をつけたのが、球団史上最悪の成績で最下位になり、ファンから非難の嵐を浴びていた阪神タイガースでした。(中略)
1979年、ブレイザーの率いた新生タイガースは目覚しい復活をとげ、9月まで優勝戦線に踏みとどまり、ライバルのジャイアンツに一方的に勝ち越します。観客動員は150万人を超えて球団史上最高を更新し、ブレイザーに対するファンの支持は70%を超えました>
●30年前の日本の民度と排他主義 外国人ブレイザー監督への中傷・脅迫
しかし、次の年はたいへんな事態になります。きっかけは、タイガースに鳴り物入りで入団した岡田彰布と、ヤクルトから解雇された外国人内野手を競わせたことだといいます。ブレイザー監督は岡田の天性の資質を認めながらも、いきなりプロ野球で130試合プレイするのはリスクが大きいと判断。しかしタイガースファンとスポーツ新聞は、ブレイザーがポンコツの(お払い箱になった)外国人選手を優遇し、日本人の有望な若手を差別していると激怒したそうです。
<ある週刊誌は、「ブレイザーは外国人選手から賄賂を受け取っているから使わざるを得ないのだ」と事実無根の記事を掲載しました。さらには、後楽園球場で行なわれた巨人戦の後、暴徒と化した一部のタイガースファンが、ブレイザーと選手の家族(それも妊婦)の乗ったタクシーを取り囲み、「アメリカへ帰れ!」「ヤンキー・ゴー・ホーム!」「死んじまえ!」などと車に拳を叩きつけながら叫ぶという騒ぎになります。
ブレイザーの元には毎日のように脅迫やいやがらせの手紙が送られてきて、なかには「お前もお前の家族も殺してやる」というものもありました。今ならどれも大問題になる事件ですが、当時は新聞も週刊誌も一切報道しませんでした>
追いつめられたブレイザーは、阪神のフロントと対立して辞表を提出。これについて、あるスポーツ新聞は「合理的精神の持ち主であるアメリカ人の監督にはやはり日本人の考え方が理解できなかった」と書き、セリーグの会長は「ガイジン監督は、やはり日本の野球には合わないと思います」とコメントしました。
またブレイザーの後任となった阪神の監督は、「結局のところ、日本人の心をわかることのできるのは、日本人しかいないと思う」と記者会見で発言しています。これについて記事では<日本人の「民度」も、30年前はこんなものだったのです>と書いていましたが、最後に「私たちは、あの時からすこしは成長できたのでしょうか?」として、今の人たちにも問うています。
●体が小さくメジャーリーガーとしては非力…日本人みたいな選手時代
ところで、このドン・ブレイザー監督。
Wikipediaを見ると選手時代から非常に個性があり、非常におもしろいです。最初の記事では、「一流の大リーガーだった」とあったものの、実は「体が小さくメジャーリーガーとしては非力だった」という異色の大リーガーでした。身体的には一流ではなかったのです。
ただ、これはメジャーで通用しなかったという意味ではありません。メジャーで生き残るために、頭脳プレーや小技、待球戦法を使ったそうです。もともとメジャーでも守備の名手として知られており、併殺時の素早い足の運びや正確な送球など、質の高いプレーで格の違いを示しました。日本人が手本としたいタイプの選手だったようです。
<ブレイザーが南海に来た時、野村克也はしょっちゅう食事に連れ出し、どうしてその体でメジャーで生き残れたのかを聞いたところ、ある日ブレイザーから「君が打者の時にヒットエンドランのサインが出たらどう対処する?」と聞かれ、野村は「フライと空振りはダメ。どうにか打球を転がす」と答えた。ブレイザーは「それだけか? まだあるぞ! 走者がいるという事は必ずセカンドかショートが二塁ベースカバーに入るのだから、セカンドが入れば一二塁間、ショートが入ったら三遊間方向に打球を転がすんだ」とさらりと答え野村を感服させた。
バントの正確さにも定評があった。セーフティーでは三塁線のラインぎりぎりに転がすことが多く、切れそうで切れないゴロは芸術的だった。捕球、スローイングと基本的な技術の確実性が高かった。派手さはないが、捕ってからの送球までの流れが速く、ミスも少ない。南海の投手陣は「困ったらドンの方向に」が合言葉だった>
●日本球界に革命!日本のプロ野球の大恩人であるブレイザー監督
前述の通り、監督になる前には先にコーチになっています。1970年から野村さんが選手兼任で監督に就任したときに、野村監督の要請でヘッドコーチに就任しています。1973年のパシフィック・リーグ優勝に貢献し、1977年オフ、野村の解任に伴い南海を退団していました。阪神監督になったときは引き抜きではなく、フリーだったみたいですね。
<野村は著書の中でブレイザーは私に考える野球を教えてくれた恩人と著書で記している。野村によるとブレイザーは最初のミーティングでそれまで南海の選手が見たことも聞いたこともなかった野球理論や知識を伝授し、シンキングベースボールの奥深さを教えた。緻密な野球を組み立て、日本球界に革命をもたらした>
阪神タイガースの監督就任は1979年。アメリカから野球を頭脳プレーで展開する「考える野球(シンキング・ベースボール)」の仕組を取り入れた采配が期待されたそうです。そして、前述の通り、これに成功。Wikipediaでは、前年に比べて戦力がアップされたこともあったがブレイザーの手腕によるものも大きかったとしています。しかし、前述の問題で翌年はたいへんなことになりました。
<1980年は当時新人の岡田彰布の起用法を巡ってフロントとの確執を生み、ファンから自宅にカミソリ入りの手紙を送りつけられ、夫人が「こんな野蛮な国はイヤ」と帰国を懇請したこと、また球団フロントがデイヴ・ヒルトン(岡田と二塁手の座を争わせていたが、成績が低迷)を退団させた後(ヒルトン退団についてはブレイザーも了承していたが)、ブルース・ボウクレアを獲得したことを「フロントの現場への介入」と見たこともあって、シーズン途中の5月14日で退任。ブレイザーの退任後はヘッド兼打撃コーチの中西太が後任の監督となったが、5位に終わっている>
●妊娠中の夫人が同乗していた外国人選手の車を取り囲み車を蹴る
ブレイザーは、新人はまず二軍で養成すべしと考えていたとのこと。岡田選手はブレイザーとの初対面で通訳兼任コーチの市原稔を介して「いくら力のあるルーキーでも、メジャーリーグでは最初からいきなり試合起用することはない」と告げられ、「そんなの関係ないやろう」という反骨心が芽生えたと後に著書に記しているそうです。
<岡田自身は起用がないことについて表立ってコメントすることはなかったが、大物新人スラッガーをいち早く一軍で活躍させたい球団社長の小津正次郎を中心とするフロント、ファンやマスコミが許さなかったためと言われる。ブレイザーがヤクルトスワローズから獲得したヒルトンを成績・特に打撃が不振にもかかわらず守備面を評価して起用し続けたこともそうした声に拍車をかけることになった>
岡田さんの方の
Wikipediaでは、<掛布が負傷した時も岡田の起用が見合わせられたため(この時、岡田も負傷していたという説もある)、ファンの間から「なぜ岡田を出さない」という不満が盛り上がり、ファンの一部からはヒルトンやブレイザーを悪者扱いし>といった話があった他、岡田さんのフォローの話もありました。
<更には妊娠中の夫人が同乗していたヒルトンの車を取り囲み罵声を浴びせ、車を蹴るといった嫌がらせが激しくなった。そこで球団は不明瞭な形でブレイザーを解任し、コーチだった中西太に監督を交代させた。
以降は出場機会が増え、新人王に繋がったが、自らの力でチャンスを掴みたかったので、当時ヒルトンが出場する度に「オカダ・オカダ」とコールが湧いたことに対して、後年のインタビューで「あの岡田コールは嫌だった」と苦言を呈している。
また、後年、ブレイザーに親しい人物からブレイザーの「憎くて使わなかったのではなく、期待されて入団してきたルーキーだから余分な力みを生まない楽なところから使ってやりたかった。だから時期がずれた」というコメントを伝えられ、「今となればこのメッセージはある程度、理解できるようになった。ブレイザーもかなり悩んだのだろうし、考えたのだろう。自分も監督になり、そのことはよくわかった」と著書に記している>
●ケガ人や調子の悪い選手は徹底的に使わない主義…これも不評?
最初の方のWikipediaに戻って、徹底的にケガ人や調子の悪い選手を使わない主義だという話もありました。「怪我をおして出場」を日本人は美談としがち(投稿後、安倍首相も言っていました)なのですが、ブラック企業思想なのでブレイザー監督の考えは素晴らしいと思います。ただ、これがまた嫌われたのかもしれません。
<当時調子を落としケガをしていた掛布雅之の起用を巡って「どうして掛布を使わない?」とのマスコミの問いに「今の状態では使えない」と返し、マスコミが「ファンは掛布を観に球場へ足を運んでいる」と切り返すと「いいや違う。ファンは掛布の凡打を観に来ているのではない。ファンは掛布の素晴らしいヒットやホームランを観に来ているのだ」と返した>
<全力プレーを推奨し、手を抜いた選手には徹底的に批判したとのこと。当時は当たり前とされていなかった事だが、プレーをビデオで撮り、それを基に個別で注意するという、そういうやり方に慣れていなかった選手達には堪えたといわれる>ともありました。これもまた嫌われた要素のようです。
また、<来日してかなりの年数を日本で過ごしているので日本語は相当レベルで理解していたが、選手や記者会見では必ず通訳を通して意思の疎通を図った>とのこと。これも理解できる考えだと思いますね。想定した通りにメッセージが伝わらないおそれがありますから、通訳を通した方が良いという考えだと思われます。
<マスコミが「あの場面ではバントが…」と日本語で言ったところ、「キミに作戦の指揮を執る権利はない。ボスは私だ!」と英語でまくし立てた。そのマスコミ側の近藤唯之はこの点についてはブレイザーを人間音痴であるとまで酷評した。こうした批判に懲りたのか、1981年に古巣・南海の監督となると、「極力通訳無しで意思疎通を図るように」との球団命令に従っている。しかし、2年間で成績は、それぞれ5位、6位に終わっている>
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