2013/9/29:
●「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」は嘘!でも昔は本当に…
●廃藩置県で神奈川県…のはずが、なぜか20年以上経ってから東京に
●町田市などの三多摩が東京都に入ったのはコレラデマが理由?
●水源の管理が理由説は間違い?「神奈川県史」では否定してる
●三多摩の議員を潰したい!本当の理由は政治家の陰謀だった?
●東京都の町田市と八王子市、実は神奈川県知事に捨てられた街だった
●やっぱり東京は良かった?入ってみると良いことだらけだった
2020/07/15:
●町田市、マジで神奈川県になっていた!ただし、一部の地域のみ
●「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」は嘘!でも昔は本当に…
2013/9/29:
町田市は神奈川県?バイト雑誌でも東京都に含まれないという話を過去にやっていた関係で、
吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞(2013/8/23 6:30)という記事が目につきました。
記者は大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがあり、西日本出身者ということもあり、素直に信じていました。ただ、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」なのです。
しかし、以前はこれが当てはまっていたときもありました。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だったそうです。では、なぜ東京になったのかというのがこの記事。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきたそうです。
●廃藩置県で神奈川県…のはずが、なぜか20年以上経ってから東京に
元記事のタイトルに入っていたのは町田市(
南多摩地域)と吉祥寺(旧武蔵野市吉祥寺、旧
北多摩郡吉祥寺村)ですが、実際にはもっと多くの地域が対象となっています。
一般的に多摩地区とは、東京23区より西側に位置するエリアのこと。「東京都下」「三多摩」などと呼ばれることもあります。
このうち「三多摩」の名はかつて「北多摩郡」「西多摩郡」「南多摩郡」だったことに由来。ただし世田谷区の旧砧(きぬた)村なども含まれており、必ずしも現在の境界線とは一致しません。北多摩郡にあった砧村は現在、成城や喜多見となっているそうです。
財団法人東京市町村自治調査会が中心となってまとめた「多摩百年のあゆみ」(多摩百年史研究会編著)によると、この地域は明治維新後、「品川県」「韮山(にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)県」などに分割。
その後の1871年(明治4年)に実施された廃藩置県の後、三多摩の大半は神奈川県に所属することになりました。そして、三多摩が東京府に移管されたのは20年以上もたってからで、1893年(明治26年)だといいます。
●町田市などの三多摩が東京都に入ったのはコレラデマが理由?
移管を決めた「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」は、その理由について「水路ノ関係」だと記しています。東京府を流れる上水道の水源が多摩地区にあり、管理のためには東京府に移管した方がよい、という趣旨だったそうです。
まず、背景として、明治時代前半の東京では、上水道の衛生面が大きな問題となっていたというのがあります。当時、東京の上水道を担ってきたのが玉川上水でしたが、これが不安視されてました。デマだったみたいなんですけどね。
<1886年(明治19年)、玉川上水への不安が一気に高まる事件が起こる。コレラが大流行したのだ。しかも「多摩川上流でコレラ患者の衣服を洗濯した」とのうわさが広まった。本当なら羽村から玉川上水を伝って東京の水道が汚染されてしまう。
実際に洗濯したのは多摩川の支流で、水道水に影響はなかった。しかしこの事件が「多摩の東京移管」機運を高めることとなった、と東京都は記す。当時、多摩川の上流は神奈川県に属していたが、見回りの強化などのためにも東京府が直接管理すべきだ、となったのだ>
●水源の管理が理由説は間違い?「神奈川県史」では否定してる
しかし、記者は"本当にそうなのか。だったらなぜ最初から東京府に含めなかったのか"と疑問を呈していました。これだけだと憶測っぽいのですけど、実を言うと、神奈川県の見方も異なっています。
1980年(昭和55年)に神奈川県が編さんした「神奈川県史」では、三多摩の東京移管は水源の管理が理由とする東京都の説明に対し、以下のように書いていたそうです。
「これらの理由は東京府市部の行政上の説明としては一応筋が通っているが、これが通るのは西・北多摩郡のみである。南多摩郡の移管理由には東京府の行政上の要請は全くなかった」
玉川上水の水源は西・北多摩郡にあった。南多摩郡まで移管する必要はなかったではないか、との主張。この南多摩郡とは、現在の
町田市、八王子市、多摩市、稲城市、日野市のことです。よく話題になる町田市はここで登場しましたね。
●三多摩の議員を潰したい!本当の理由は政治家の陰謀だった?
こう言われると、たしかに水の話だけでは説明できないとわかります。他にも何かあるはずです。では、水の問題の他に何があったのか?と言うと、どうやら政治的な問題があったようなんですね。というか、水の問題は建前であり、実際には政治的な理由であったという書き方でした。
<さらには水源問題を理由にした多摩地区の東京への移管要請はコレラ発生以前からあり、何度も政府が退けてきたこと。そのときでさえ、南多摩地区は除外されてきたことなどを指摘し、南多摩も含めた移管は水源問題よりも別の政治的思惑が大きかった、と結論づけている>
穏やかじゃないですね。ではこの「政治的思惑」とは何か?という話。実は、当時の神奈川県知事、内海(うつみ)忠勝がキーマンだといいます。
<1892年(明治25年)、第2回となる衆議院選挙が行われた。神奈川県に属していた三多摩では当時、板垣退助らが設立した自由党の勢力が強く、選挙では2議席を独占した。板垣が「多摩は自由党の砦(とりで)」と表現するほど、多摩では自由党が支持を集めていた。
この選挙で内海知事は自由党に圧力をかけたといわれ、多摩の自由党は猛烈に反発。県議会に対し内海知事の罷免を要求した。
「神奈川県史」によると、
県議会で多摩出身の自由党議員に手を焼いた内海知事は政府に対して三多摩の移管を強く要請した。東京府では自由党の勢力は弱く、移管によって影響力をそぐことができるとの判断だった>
●東京都の町田市と八王子市、実は神奈川県知事に捨てられた街だった
現在と違って、当時の知事は政府が任命しています。記事では、「当時の知事は政府が任命しており、反権力色の強い自由党に対しては否定的だったようだ」と書いていました。当時の明治政府も政府に逆らう政党は嫌だったのかもしれませんね。
これに対し東京府知事は当初、水源説で説明できる西多摩と北多摩のみの移管を政府に上申。ただ、内海知事は東京府に宛てた書簡の中で、歴史的に三多摩はつながりが深いため、南多摩を切り離すことは民意に背く、と主張し、三多摩セットの流れになっていきました。
ひどい理由だと思う話なのですけど、意外にも住民の反応は分かれました。まず、北多摩では賛成の声も多かったとのこと。甲武鉄道(現・JR中央線)の開通で北多摩は東京に近くなり、東京への親近感を強める住民が多かったためとされていました。
一方で、西多摩、南多摩では猛烈な反対運動が起こり、衆議院に対し48の村が連盟で抗議文を送る事態に。役場を閉鎖する抗議運動も相次いだそうです。しかし、1893年、反対運動が続くなか、三多摩の東京府への移管法案はわずか10日の審議で成立。自由党内部でも問題への温度差があり、国政レベルでは反対は大きなうねりとはならなかったともいいますが、かなり強引でした。
●その後も「武蔵県」「千代田県」「多摩県」や出戻りを検討
今なら皆喜んで東京都へ行きそうなものですが、こうした騒動の末に三多摩は神奈川県に捨てられてしまいました。しかし、多摩地区の帰属に関する騒動はこれで終わりではなかったようです。
<1896年(明治29年)には「武蔵県」構想が飛び出した。三多摩だけではなく、現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区も含めた地域を1つの県とするプランだ。現在の中央区や千代田区などの東京都心部を東京市として、その周りをすべて取り囲む。名称は「千代田県」にするという案もあった。
1923年(大正12年)には鳩山一郎が三多摩を神奈川県に戻す案を提出。1924年(大正13年)には「多摩県」として独立するプランも出た。
いずれも水源地は警察が管理すればいい、としており、水源問題と行政問題とを切り離している。こうした経緯を見る限り、三多摩の東京移管には水道問題よりも政治的思惑の方が大きく働いたと考えるのが自然だ>
●やっぱり東京は良かった?入ってみると良いことだらけだった
あと、「今なら皆喜んで東京都へ行きそうなものです」と書いたように、やっぱり入っていみると東京都が良かったようです。今度は逆の動きへの抵抗が増します。おもしろいですね。
<多摩を東京から切り離す一連の構想に対して、多摩の住民からは反対の声が強かった。東京府に組み込まれたことで、経済的に発展していたことが大きな理由だったようだ。鉄道も道路も東京に向けて延びていき、政治情勢も住民感情も、10年ほどで大きく変わった>
なお、私の方のタイトルは吉祥寺ではなく、検索してもう少し間違われる例のありそうな同じ南多摩の八王子市を入れてみました。特に悪意があるわけじゃございませんので、町田市・八王子市の両市民の皆様もお怒りにならぬようにお願いいたします。
●町田市、マジで神奈川県になっていた!ただし、一部の地域のみ
2020/07/15:
町田の一部、本当に神奈川県になってしまう 今さらなぜ?市役所に聞いた(全文表示) - ニュース - Jタウンネット 東京都(2020年4月 3日 11:00)という記事が出ていました。ネタではなく、2020年12月1日から町田市の一部が神奈川県になることが市議会で決定したという話です。
これはまたもともとやっていた話と同じ、水関係の話と言えそうなものでした。町田市議会の公式サイトによれば、かつて町田市と相模原市との境界は境川の河川中央となっていたのですけど、河川改修によって両市の一部が川を隔てた「飛地」となって存在する形になってしまったんですね。
飛び地というというのは、なにかと問題があります。そこから生じる様々な不都合を解消するために、境界線を新しい現在の河川中央に再び変更して、飛地をなくすという理由でした。飛び地による不便というのは、具体的には、荷物が届かなかったり、ゴミの集積に河川の向こう側まで行かなければならかったりなどのもの。マジで困りますね。
エイプリルフールのジョーク?といった声も出ていたんですけど、このように真面目な話。また、今回がたまたま話題になったというだけで、実は1999年から約4年のスパンで行境界線を変更しており、初めてではなく今回は7回目。あと、2回やる予定だそうです。j今後もまた話題になるかもしれません。
なお、住所変更は飛地に住む世帯ごとにお願いしており、反対が1世帯でもあればその土地は住所変更せず。実際にそのようにして、飛び地が残っている地域もあるとのこと。変更を拒否したのには行政サービスによる選択などの理由がありそうですが、巻き込まれた他の世帯はかわいそうなことになりますね。
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