読み方や表記はいろいろあってややこしいですけど、表記は「天の逆鉾」、読みは「あまのさかほこ」あたりがメジャーそうです。
ただし、Wikipediaでは以下のように、表記は「天逆鉾」を採用、読みは「あめのさかほこ」を先に書いています。異名などもたくさんあってややこしいです。
天逆鉾(あめのさかほこ、あまのさかほこ)は、日本の中世神話に登場する矛である。一般的に記紀に登場する天沼矛の別名とされているが、その位置付けや性質は異なっている。中世神話上では、金剛宝杵(こんごうほうしょ)、天魔反戈(あまのまがえしのほこ)ともいう。宮崎県高原町の霊峰高千穂峰の山頂に突き立てられている。山頂部は、霧島東神社(宮崎県高原町鎮座、霧島六所権現の一社)の飛び地境内であり、天逆鉾は同社の社宝である。
Wikipedia 古い伝説としては記紀神話の「天沼矛」(あめのぬぼこ、あまのぬぼこ)がベースです。有名な国産み神話ですね。
元来、記紀神話では、漂っていた大地を完成させる使命を持った伊邪那岐(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の夫婦神が天沼矛を渾沌とした大地に突き立てかき回し、矛を引き抜くと、切っ先から滴った雫(あるいは塩)がオノゴロ島となったとされていた(国産み)。
この天の逆鉾(天沼矛)の所在については諸説あるようです。
『大和葛城宝山記』……天魔反戈は内宮滝祭宮にある。
伊勢神道(度会神道)の神道書『神皇実録』……サルタヒコの宮処の璽(しるし)。伊勢神宮に保管。
『倭姫命世記』……天照大神が天から天逆鉾を伊勢に投げ下ろした。伊勢神宮の内宮御酒殿に保管。
北畠親房の『神皇正統記』……オノゴロ島である宝山にある。
しかし、一番有名なのは、今日取り上げる高千穂峰のものです。
天逆鉾が、大国主神を通してニニギに譲り渡されて国家平定に役立てられ、その後、国家の安定を願い矛が二度と振るわれることのないようにとの願いをこめて高千穂峰に突き立てたという伝承がある。この矛の由来は不明であるが、一説によると奈良時代には既に存在していたといわれる。
この高千穂峰の天逆鉾を引き抜いた方がいました。坂本龍馬です。
この天逆鉾、古来から誰も詳しく調べるなどとしようとした者はいなかったのだが、幕末の志士坂本龍馬が高千穂峰を訪れた際、大胆にも引き抜いて見せたというエピソードがある。このエピソードは龍馬自身が手紙で姉に伝えており、手紙も桂浜の龍馬記念館に現存している。
Wikipediaは「大胆にも引き抜いて見せた」などと好意的に書いていますが、私は何となく犯罪自慢写真を嬉々としてツイッターに投稿する若……いや、でも、まあ、こういうところが坂本龍馬の魅力ですよね。
(2016/12/24追記:批判が結構あったので、集めてみました →
天の逆鉾を引き抜いて自慢した坂本龍馬はDQNで反日?聖地・高千穂での暴挙)
以下のエピソードなんか見ても、そんな感じです。
東京エゴイスト : 注意!天の逆鉾には触れませんbyNHK「龍馬伝」#38
霧島登山で案内役を務めていた吉井幸輔の息子だけど、この子の息子(つまり吉井幸輔の孫ね)が歌人の吉井勇。
実際は案内役じゃなくて、単に父親にくっついてきただけなのだが、この時目撃した龍馬&お龍の様子を後年息子だか孫だかに語り残していて、その内容がかならい笑える。
なんでも途中の道筋では人目もはばからずいちゃいちゃしていたかと思うと、なぜか急に不機嫌になってムクれたお龍さんに龍馬が涙目で謝ったり(爆)、れっきとした薩摩藩士の息子にとっては、「なんなのこの人たち???」という印象だったらしい。
あの逆鉾だって、お龍さんも一緒になって面白がって抜いちゃったというし、子供の目から見ても
とんだバカップルだったらしい(笑)。
http://blog.livedoor.jp/egoist777/archives/51862893.html この方は"女人禁制の霧島山に奥さん連れてったり天の逆鉾を引っこ抜いたりと、罰当たり行為を繰り返したのが翌年に死んじゃった原因だろうか"と感想を書かれていましたが、同様に天の逆鉾引き抜きを「罰当たり」と言ったコメントは今回調べているときに何度も見かけました。
なお、"お龍さんも一緒になって面白がって抜いちゃった"ですが、龍馬ではなくお龍さんが抜いたと書いている人もいらっしゃいました。
ただ、このエピソードは他に見られませんので、記憶違いの可能性があります。一般的な記述は以下のようなものです。
ところで、現在私たちが見ることのできる天の逆鉾は「本物」(?)ではなく、レプリカだそうです。
火山の噴火で折れてしまい、現在残っているものはレプリカである。オリジナルは柄の部分は地中に残っており、刃の部分は回収され、島津家に献上され、近くの荒武神社(都城市吉之元町)に奉納されたが、その後様々な人手を転々と渡って行方不明となっている。(Wikipedia)
坂本龍馬の頃はどうだったのだろう?と検索をかけると、以下のような記述。
逆鉾は一時期は柄だけだった・・・
霧島の度々の噴火により鉾先が折れてしまい、柄だけの時代があったようです。
これは江戸時代の(*2)木下逸雲の記録でも確認できます。(龍馬が登った時は、すでに柄だけだったようです。)
鉾先は都城市吉之元町の*荒武神社の御神体として祀られていたそうですが、戦後の混乱の中で紛失してしまったと言われます。
尚、現在ある逆鉾の鉾先は後付のもので、いつ誰が付けたかは分かっていないそうです。
*2 幕末長崎の画家、木下逸雲の「霧島山に登るの記」(文政11年(1828年))の小文に、この天の逆鉾図が大きく正確に描かれている。
Photo Miyazaki 宮崎観光写真
http://www.pmiyazaki.com/taka_sakahoko/ 坂本龍馬が引きぬいたのが柄だけであれば、"簡単に抜けてしまって拍子抜けした"、"よくも、あんなデカイものを抜いたと感心する"というのも納得です。
ただ、先ほどの記述では「四、五尺ばかりの鉾」とありました。1尺はおよそ30cmですので、1.2~1.5mくらいであり、これが「柄だけ」であったというのも変な話です。
気になって検索すると、以下のサイトさんでは坂本龍馬が完全体を引き抜いたとみなして、天の逆鉾の実際の長さは「138㎝」と推測されていると書かれていました。
霧島ガイドブックきりしま知得本
http://furusato-kirishima.com/sb_list2.cgi?_v=1244687890&tpl=sb_list3 何かここらへんは情報が錯綜しまくっていて、何が何やらわかりませんね。
…と最初に書いたときは終わっていたのですけど、後からもうちょっと調べました。すると、
龍馬が長い手紙を書く時
(小椋 克己)に実際の手紙の内容がありました。
それによると、「お龍と二入(誤植?元から誤字?)で両方から鼻をおさえてヱイヤーと引き抜いてみたら」とのこと。どうやら
二人でいっしょに引き抜いたが正解のようです。
いくつかあった記述のうちの一つに"お龍さんも一緒になって面白がって抜いちゃった"というものがありました。私はこれを見て龍馬と交互に引き抜いたと解釈してしまったのですが、文字通り「一緒に」という意味だったんですね。
それにしても、本当仲いいですね。「二人で初めての共同作業……」といった感じで、なぜかケーキ入刀を思い出してしまいました。
この龍馬らがエイヤーとやった天の逆鉾が、本物(?)なのか、偽物なのかは依然不明ですが、前述したように今見えるのがレプリカなのは間違いないですので、何だ偽物かーと思うとがっくりするかもしれません。
しかし、「本物」の後にはてなマークをつけたように、そもそもオリジナルの鉾が「本物」の「天の逆鉾」だったのかどうかはわかりません。
Wikipediaによると、第二次世界大戦前の日本の歴史学者"喜田貞吉は、『神皇正統記』などに触発され霧島山降臨の話を作り出した修験者が高千穂峰の山頂に逆鉾を置いたと推察している"そうです。
そんなん言われると台無しだわぁと思いますが、喜田貞吉さんの説明は飽くまで推察ですし、天の逆鉾のありか自体が諸説あるのですから、そのどこかに「本物」が眠っているという可能性はあります。
夢はまだまだ見れますよ。
追加
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