マンデラ元大統領が組織したウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)についての話が知りたかったのですが、意外にあまり詳しい話がありません。
Wikipediaでは以下のみです。
1961年11月、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)という軍事組織を作り最初の司令官になる。それらの活動などで1962年8月に逮捕される。1964年に国家反逆罪終身刑となりロベン島に収監される。
Wikipedia これよりは以下の方がまだ詳しいですね。
以下は南アフリカに関するサイトさんかな?
もう一つ知恵蔵2013から。
アフリカ民族会議 【あふりかみんぞくかいぎ】 知恵蔵2013の解説
1912年、アフリカ人都市知識層を中心に結成。非暴力主義に基づくアフリカ人の権利擁護を目的とし、初期には請願・陳情などの手段によった。(中略)60年にシャープビル事件により非合法化され、61年、ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)というゲリラ組織が誕生。62年にはネルソン・マンデラ議長が逮捕された。69年、武力闘争を宣言。
( 林晃史 敬愛大学教授 )
コトバンク といった感じでしたが、結局一番詳しかったのは私が最初に読んだ以下の記事です。
南アフリカの指導者、ネルソン・マンデラ氏が死去 だが、マンデラは生き、ビコは死んだ【後編】 ダイヤモンド・オンライン 2013年12月27日 降旗 学 [ノンフィクションライター]
http://diamond.jp/articles/-/46585 最後の知恵蔵2013に出てきたように、マンデラさんも最初は非暴力主義をとっていました。
変心のきっかけは“アフリカ年”と呼ばれた1960年の出来事です。"一七ヵ国が次々と独立を果たした"というアフリカの特別な年に、何と南アフリカではシャープビル事件という悲惨な事件が起きていました。
この事件はWikipediaにも項目があります。
シャープビル虐殺事件(シャープビルぎゃくさつじけん、アフリカーンス語: 英語: Sharpeville massacre)は、1960年3月21日に南アフリカ共和国トランスバール州ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで発生した虐殺事件である。
概要
(中略)3月21日、午前10時頃にPACが組織した5,000~7,000人の群集は逮捕を覚悟で身分証を持たずにシャープビルの警察署前で抗議行動を開始した。警察官は群集に対して解散するように警告したが群集は解散しなかった。警察は抗議集団の最前線に装甲車を配備した。
午後1時15分頃、警察官は群集に対して発砲を開始し、69人が死亡、180人以上が負傷した。群集はパニック状態となり、周辺は騒乱状態に陥った。
Wikipedia この事件の後、アフリカ民族会議(ANC)は非合法化され、"すでに反逆罪で起訴されていたマンデラら二九人の指導者が身柄を拘留され"たようです。
マンデラさんは翌年無罪で釈放されましたが、非暴力主義からの転換をはかります。
組織が非合法化されたため、彼らは地下活動に入った。
地下からマンデラは大衆に訴え、その呼びかけに応えた黒人たちは全国規模のストを敢行する。(中略)
しかし、マンデラは二日目にストの中止を宣言し、地下から声明を発表する。
「政府が、もし、我々の非暴力主義による戦いを、剥き出しの暴力で粉砕しようとするのであれば、我々も戦術を再検討せざるを得ない」
それは、彼らの、非暴力主義との決別と言ってもよかった。そして、マンデラは、民族の槍――、彼らの言語で、ウムコント・ウェ・シズウェという組織を結成する。マンデラは全国最高司令部の責任者に就任した。
民族の槍は、一言で言ってしまえば武装集団のことだ。
わざとこういう構成にしているのですが、この「民族の槍」はこれまでの説明だと相当過激な組織のように見えます。
最初のところから説明を抜き出していくと、
軍事組織
ゲリラ戦術をヒントに、白人政権への直接的な攻撃を開始
反逆罪と破壊行為で終身刑
武装部門
ゲリラ組織
武装集団
といった具合です。いかにも殺人を含む戦闘活動を繰り返す過激なテロ組織という感じです。
ところが、この「民族の槍」はそういった目的で作られたわけではありません。
ここが私が興味を持った理由なのですが、前述のような印象を与える書き方はかなり誤解を招く不適切な表現だとも言えます。
この時期、マンデラは毛沢東やチェ・ゲバラ、リデル=ハートの文献、クラウゼヴィッツなどを読みあさっていたらしい。つまり、非暴力主義を唱えていたマンデラは、このとき、武力行使を計画していたのである。
武力行使には大きく四つ――、破壊活動、ゲリラ戦、テロ、革命があり、彼らは熟考に熟考を重ねた末に、破壊活動を選んだ。
「ゲリラ組織」と説明しているものもありましたが、武力は武力でもゲリラ戦は選択されませんでしたし、テロも意図していませんでした。
実際には死者を出すこともあったようですが、"民族の槍による破壊活動が開始され"た1961年12月から18年後の1979年まで犠牲者を出したことはなかったようです。
一八年後の一九七九年、アジトを摘発された民族の槍の部隊がケープタウンにある黒人居住区の警察を襲撃し、警察官三人が殺害されるまで、民族の槍は、破壊活動でひとりの死者も出していなかった。
また、民族の槍は発電所や公共施設を主に破壊していたようですが、この「破壊活動」というのも言葉の持つインパクトと比べるといささかスケールが小さいものでした。
当時は南アの黒人たちも不思議に思っていたらしいのだが、破壊活動とは言いながら、破壊の規模は、翌日に修理をすれば元に戻る程度のものだったらしい。
後にマンデラが語ったところでは、破壊活動とは、文字どおりの破壊ではなく、人種差別の象徴となる施設や実施機関の一部を破壊し、その機能を一時的に停止させることにあった――、と言っている。
作者の降旗学さんは"非暴力主義を訴え続けた指導者が、最後に武力闘争を選ばなければならないほど、人種差別は悲劇なのだ"と書かれていました。
私は武力闘争を選んだというのは否定できない事実であり、軽視されるべきではないと思います。
しかし、前半のような書き方は、ミスリードを誘うかなり説明不足なものだとも感じます。
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