●ライバルとの争い・感情的確執が多かった大科学者ニュートン
2014/3/6:皆さん、ご存知の医大なる科学者であるアイザック・ニュートンさん。現在の自然科学の基礎となった大天才なのですが、いろいろとあれなエピソードが多い方でもあります。その一つがライバルとの激しい確執です。
Wikipediaでは、わざわざ「論争・先取権争い・感情的確執」という項目を作っていました。ニュートンは同時代の人々としばしば争っていたことが知られているとして、以下のような話を書いていました。
<1660年代には、ライプニッツと微分積分法の先取権を巡って争いが生じ、裁判で25年も争い、さらに双方の弟子・後継者らも巻き込んで、論争は実に18世紀まで続くことになった>
<1672年にはロバート・フックと光の分散と干渉の理論に関して論争になった>
<1686年には、プリンキピアの出版の時、ロバート・フックとのあいだで万有引力のアイディアの先取権をめぐって対立した>
●フラムスティードと彗星論争に負けたニュートンが取った行動とは?
特にWikipediaで記載が多かったのは、1680年にジョン・フラムスティードと彗星を巡って論争となったこと。これは1か月の間隔をあけて現れた彗星が同一のものか別のものか、という論争で、フラムスティードが観測データにもとづいて同一だ、としたのに対して、ニュートンが別のものだと主張し譲らなかった、というものだそうです。これはニュートンが負けたのですが、問題はその後でした。
<論争は一応ニュートンが自説の誤りを認めて収束したが、自尊心を傷つけられる形になったニュートンは感情的には根に持つことになり、後に王立協会の会長の地位についた時などはその
地位を利用してフラムスティードを蹴落とそうとし、またプリンキピアの執筆時に必要となった天文データを要求する時には
フラムスティードに対して高慢な態度をとったり、嫌がらせをしたりした。またフラムスティードの長年の観測業績の集大成となる本が作られることになった時には、それを形式的にはハリーの本とし、
フラムスティードの名がそれには冠されないようにすることで(『天球図譜』)仕返しを行う、などということもした>
おもしろすぎます、ニュートンさん。私はゲラゲラ笑って読んでいますが、フラムスティードさんにとっては堪ったもんじゃありませんでしたね。ニュートンさん、性格悪すぎでしょう。
●性格悪いニュートン ライプニッツ、フックらとドロドロの確執
上記の部分ではフラムスティードさんについての記述だけ詳しかったのですが、むしろ有名なのは他のお二人とのいざこざでしょう。まず、ライプニッツさんとの争いについて補足しておきます。
<ニュートンとライプニッツはそれぞれ独立に、異なった視点から微分積分法を発見した。後々、優先権をめぐって熾烈な争いが展開されることになる。ニュートンの発表はライプニッツより遅いのだが、ライプニッツより早く発見していた、と主張した>
Wikipediaでは"科学界によっては理論が正しいと証明されれば何事も無いが、先取権においては解釈を巡って苛烈な論争になる場合がまま有り、先取権について当事者である学者が特別目くじらを立てるのは特別珍しいことではない"とフォローしています。
ところが、<ニュートンは病的に猜疑心が強い性格で、ライプニッツが盗んだとの主張を続けて、結局25年の長きにわたり法廷闘争を行うことになる>という記述もありました。フォローしきれない性格の悪さがあるようです。
●短気で気位が高いフック、ニュートンと争って死後に報復される
もう一人、フックの法則のロバート・フックさん。この方は多才であるものの移り気で一つの課題に集中できない…という性格のようで、問題をややこしくしています。ロバート・フックさんの方もあまり良い性格の方とは言えなかったようですから、お互い様ですね。性格の悪い人同士がぶつかれば無事では済みませんわ。わかります。
<特に晩年のフックは短気で気位が高く、知的論争で相手を不快にさせる傾向があった。(中略)彼の名声は死後に低下しているが、その原因は一般にアイザック・ニュートンとの間の確執にあったとされている。(中略)ニュートンはフックの死後に王立協会会長となり、フックの業績を覆い隠そうと様々なことを行った。唯一の肖像画を破棄したのもその一例である。(中略)フックが再評価されるようになったのは20世紀に入ってからで、Robert Gunther や Margaret Espinasse の研究によるところが大きい。長く無名だったが、今では当時の最も重要な科学者の1人と認められている>
上記は
Wikipediaにあった話で以下も同様。「それでもフックが創意に富み、大変な実験施設を作り上げ、様々な業績を残したことは事実である」としていますが、フックさんもニュートンさんに負けず劣らずにすごかったようです。
<フックは暗号をつかってアイデアを隠すことがあった。王立協会の実験監督として、協会に送られてくる様々なアイデアを試し、後にそのアイデアは自分のものだと主張したという証拠がある。フックは極めて多忙だったため、自分のアイデアを特許化して事業を起こすといった暇がなかった。科学全体が大きく発展した時代であり、様々な場所で様々なアイデアが生まれていた>
本来科学論争と人格否定は別にして欲しいんですけどね。日本人の方が人間関係に響いて、欧米では会議で激論でも後に引かないなんて言いますが、それが嘘なのか、昔は違ったのか、ニュートンさんとフックさんが特別なのか…? ちょうど最近、
説得のコツは相手に反対・否定しないこと、間違いを指摘しないことってのも書いていますが、難しいものです。
●様々な研究についてニュートンに手紙で教えてあげていたフック
フックのWikipediaにはズバリ「フックとニュートン」という項目もありました。<1672年、アイザック・ニュートンが光の粒子説を発表すると、フックは光の波動説で応戦。また、論文の内容の大部分は自分が『顕微鏡図譜』で既に発表済みと主張、大きな議論となった>などといった話があります。
1679年11月、フックはニュートンと頻繁に手紙のやり取りをし始めました。この内容は別に険悪だったわけではないようで、様々な研究についてニュートンに知らせて、ニュートンへの刺激になればという形で様々な問題についてニュートンの意見を訊ねていたそうです。意見が異なることもあったようですが、ここだけ見ると健全ですね。省略しましたが、フックは間違った主張もしていたようです。
<ニュートンは地球の動きを検出する実験として、空中に物体を浮かせて落下させる実験を提案した。重要な点はニュートンが落下物体が垂線から逸れることで地球の動きを検出できると考えた点で、もし地面がなければ物体が螺旋軌道を描いて中心に落下していくと考察している。フックはその考察には同意しなかった>
●重力に関する重要な業績を盗もうとしたフック、ニュートンに指摘される
1686年、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』が王立協会に提出されたとき、重力が距離の2乗に反比例するという見解は自分がニュートンに伝えたのだと主張。エドモンド・ハレーの同時代の記録によれば、一方で、フックはそれによって曲線軌道が描かれるという点はニュートン独自の説だと認めていたそうです。
ところが、最近の研究で、重力が距離の2乗に反比例するという仮説は1660年代末までには広く知られており、様々な人々が様々な理由でそれを発展させていたことがわかっているとのこと。つまり、フックさんはすでニュートンではない誰かの業績を盗もうとしたようです。
<ニュートン自身も1660年代に惑星が円軌道だと仮定したとき、中心方向へ引っ張られる力は中心との距離と逆2乗の関係にあることを示した。1686年5月にフックが逆2乗の法則を自分のものだと主張したとき、ニュートンはその反論として他者のフック以前の業績を示した。さらにニュートンはフックから最初に逆2乗の法則について聞いたのがもし事実だとしても、それを数学的に定式化したのは自分であり、フックは単に観察から大まかに推論したに過ぎないと主張した>
一方でニュートンは著書の『プリンキピア』の全ての版でフックや他の先人(レン、ハレーなど)への敬意を表しているとのこと。それがどうして肖像画を破棄するほどに、こじれちゃったんでしょうね? フックとの確執だけではなく、ニュートン自身の自己顕示欲の強さのためでしょうか…。
また、内容的にフックさんの側に立ちすぎている可能性や、フィクション的要素がある可能性がありますが、"実験屋のロバート・フックと理論屋のアイザック・ニュートンの間のどろどろの確執の物語"(アマゾンレビューより)である
ロバート・フック ニュートンに消された男 (朝日選書)
という本も出ています。ここらへんの話はおもしろいですね。
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