宮本武蔵の話をまとめ。<いい話は身内の記述や信頼性低い書物ばかり…という宮本武蔵>、<宮本武蔵卑怯者説は真実?巌流島の決闘で約束を破って集団リンチ>、<宮本武蔵の佐々木小次郎殺害は大名が黒幕?佐々木氏弱体化説>などをまとめています。
2022/07/19追記:
●宮本武蔵の佐々木小次郎殺害は大名が黒幕?佐々木氏弱体化説 【NEW】
●いい話は身内の記述や信頼性低い書物ばかり…という宮本武蔵
2014/3/22:
宮本武蔵、佐々木小次郎との巌流島の戦いで実は無遅刻だった以外に何か宮本武蔵の話を…と思って、見繕っていました。「巌流島の戦い」は前回やったので次は別の話…のつもりだったのですが、
Wikipedia見ていたら、まだおもしろい話があり、結局、またこの戦いについての話をやります。
前回書いた通り、『二天記』は記述がめちゃくちゃでしたし、その元になった『武公伝』も怪しい感じです。また、『二天記』は宮本武蔵の二天一流の兵法師範の豊田景英が著したもの、『武公伝』もやはり二天一流兵法師範の豊田正脩が著したものであり、宮本武蔵に有利な情報を好んで載せている可能性があります。 でも、この『武公伝』の記述からとりあえず見てみましょう。
・巌流小次郎は富田勢源の家人で、常に勢源の打太刀を勤め三尺の太刀を扱えるようになり、18歳で自流を立て巌流と号した。その後、小倉城主の細川忠興に気に入られ小倉に留まった。
・慶長17年に京より武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た。興長は武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった。勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた。
・勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた。武蔵は喜んだが、すぐに小倉を去った。皆は滞在中に巌流の凄さを知った武蔵が逃げたのだと噂した。武蔵は下関の問屋小林太郎右衛門の許に移っていた。興長には、興長への迷惑を理由に小倉を去ったと伝えた。
・試合当日、勝負の時刻を知らせる飛脚が小倉から度々訪れても武蔵は遅くまで寝ていた。やっと起きて、朝食を喰った後、武蔵は、太郎右衛門から艫を貰い削り木刀を作った。
・その後、太郎右衛門の家奴(村屋勘八郎)を梢人として舟で島に向かった。
・待たされた小次郎は武蔵の姿を見ると憤然として「汝後レタリ(来るのが遅い!)」と言った。木刀を持って武蔵が汀より来ると小次郎は三尺の刀を抜き鞘を水中に投げ捨てた。武蔵は「小次郎負タリ勝ハ何ゾ其鞘ヲ捨ント(小次郎、おまえは敗れた。勝つつもりならば大事な鞘を捨てはしないはずだ。)」と語った。
・小次郎は怒って武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。同時に武蔵も木刀を小次郎の頭にぶつけた。倒れた小次郎に近づいた武蔵に小次郎が切りかかり、武蔵の膝上の袷衣の裾を切った。武蔵の木刀が小次郎の脇下を打ち骨が折れた小次郎は気絶した。
・武蔵は手で小次郎の口鼻を蓋って死活を窺った後、検使に一礼し、舟に乗って帰路に着き半弓で射かけられたが捕まらなかった。
『武公伝』『二天記』の信頼性の話に戻ります。『二天記』に限って言うと成立した時期が遅いことも、内容の創作性が増した原因とされています。その『二天記』は1776年の成立。じゃあ、『武公伝』は古いの?と見ると、1755年でした。ほとんど変わらないじゃん! 宮本武蔵は1584年生まれで、1645年に亡くなっています。
では、古いものであれば、信頼性が高いのでしょうか? 「巌流島の決闘」を記した最も古い史料は、"承応3年(1654年)の『新免武蔵玄信二天居士碑』(『小倉碑文』)"だそうです。内容は以下の通りで、書物と違って長々と書けない碑文ということもありシンプルな記述です。
「岩流と名乗る兵術の達人が武蔵に真剣勝負を申し込んだ。武蔵は、貴方は真剣を使用して構わないが自分は木刀を使用すると言い、堅く勝負の約束を交わした。 長門と豊前の国境の海上に舟嶋という島があり、両者が対峙した。岩流は三尺の真剣を使い生命を賭け技術を尽くしたが、武蔵は電光より早い木刀の一撃で相手を殺した。以降俗に舟嶋を岩流嶋と称するようになった。」
武蔵の死後の僅か9年後ですから、非常に古いものです。しかし、『小倉碑文』には『武公伝』『二天記』と同様の懸念があるんですよ。武蔵の養子宮本伊織貞次が、父武蔵を弔い、その事績を顕彰するために建立したものだ(
小倉碑文より)ということです。武蔵の養子の記述なのですから、宮本武蔵に有利な内容である可能性が高いです。
ここらへんはある程度は仕方ないでしょうか。こういった記録を残す人は縁のある人が多いに決まっています。対立しているとお互いに良く書く…というのもよくある話です。ただ、対立している情報がある…というのは、一方的な情報にならないために、ある方がマシですね。
●宮本武蔵卑怯者説は真実?巌流島の決闘で約束を破って集団リンチ
一番良いのは中立の立場の記録があるケースですが、複数判断材料があることに越したことはありません。で、これら以外にも当時の記録があるのか?と言うと、結構あるのです。Wikipediaで特に紹介していたのは、地理学者古川古松軒が書いた『西遊雑記』という九州の紀行文でした。
<岩龍島は昔舟島と呼ばれていたが、宮本武蔵という刀術者と佐々木岩龍が武芸論争をし、この島で刀術の試合をし、岩龍は宮本に打ち殺された。縁のある者が、岩龍の墓を作り、地元の人間が岩龍島と呼ぶようになったという。
赤間ヶ関(下関)で地元の伝承を聞いたが、多くの書物の記述とは違った内容であった。
岩龍が武蔵と約束をし、伊崎より舟島へ渡ろうとしたところ、浦の者が岩龍を止めた。
「
武蔵は弟子を大勢引き連れて先ほど舟島へ渡りました、多勢に無勢、一人ではとても敵いません、お帰りください。」 しかし岩龍はこう言って強引に舟島に渡った。
「武士に二言はない、堅く約束した以上、今日渡らないのは武士の恥、もし多勢にて私を討つなら恥じるべきは武蔵」 浦人の言った通り、武蔵の弟子四人が加勢をして、ついに岩龍は討たれた。
しかし岩龍を止めた浦人たちが岩龍の義心に感じ入り墓を築いて、今のように岩龍島と呼ぶようになった。 真偽の程はわからないが、地元の伝承をそのまま記し、後世の参考とする。
ある者は宮本の子孫が今も小倉の家中にあり、武蔵の墓は岩龍島の方向を向いているという>
こっちだと岩龍(小次郎、佐々木小次郎)の方が格好良く書かれています。"勝負の日、島に近づくことは固く禁じられた"ことは『武公伝』にも書かれていましたし、それを破った卑怯者の宮本武蔵!という感じです。ただ、こちらは先ほどと同様、地元の人(?)を良く言いたがるということが予想されますので、これまた無批判に信用できるということではありません。
また、この紀行文は"『二天記』とほぼ同時代の1783年"であるということで、時期的にも新しいもの。ここらへんもマイナス材料です。ところが、この『西遊雑記』に近い記述は、もっと早い年代にもあったんですよ。"『小倉碑文』の次に古い記録"になる"試合当時に門司城代であった沼田延元(寛永元年(1624年)没)の子孫が寛文12年(1672年)に編集し、近年再発見された『沼田家記』"というものです。
・宮本武蔵玄信が豊前に来て二刀兵法の師になった。この頃、すでに小次郎という者が岩流兵法の師をしていた。
・門人の諍いによって武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。
・試合の結果、小次郎が敗れた。
・
小次郎の弟子は約束を守り一人も来ていなかったが、武蔵の弟子は島に来ていて隠れていた。・その後、勝負に敗れ気絶した後
蘇生した小次郎を武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。 こちらだと「一人で来る」の約束破りだけでなく、小次郎を集団リンチ…どれだけひどいんだ?という話になっています。でも、またこれを書いた人は誰か?というのを見なくてはいけません。反宮本武蔵派でしたら、信頼性が低下します。そして、それがわかるのは、上の続きの部分でした。
・それを伝え聞いた小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとした。
武蔵は門司まで遁走、城代の沼田延元を頼った。・
沼田延元は武蔵を門司城に保護、その後鉄砲隊により警護し豊後に住む武蔵の親である無二の所まで無事に送り届けた。
何とこの書物を書いたのは宮本武蔵を匿った張本人の子孫でした。中立とは言えず、宮本武蔵側の人間だと言えます。…にも関わらず宮本武蔵に有利な情報は「試合の結果、小次郎が敗れた」くらいのもので、武蔵に不利な情報がてんこ盛りでした。
こういう書いた人の立場や成立年代を考えると、最も信頼性の高い史料はこの『沼田家記』でしょう。実際、Wikipediaでもそういった扱いになっていました。なお、前述の『武公伝』のおかしな点としては、以下のように細川家中を巻き込んだものとして描かれている点も問題になっています。
「武蔵が父・無二の縁で細川家の家老・松井興長を訪ね小次郎との勝負を願い出た」
「武蔵を屋敷に留め、御家老中寄合で(引用者注:小倉城主の細川)忠興公に伝わり、向島(舟島)で勝負をすることになった」
「勝負の前日、興長から武蔵に、勝負の許可と、明日は小次郎は細川家の船、武蔵は松井家の船で島に渡るように伝えられた」
本当に上記のように細川家中を巻き込んだ大きな騒動になっていたのであれば、"『武公伝』の編集当時に、細川家中や正剛・正脩の仕える松井家中"には記述がないというのは不自然。「いや、お気に入りの小次郎が負けたから隠したのだ」といった陰謀論を唱えるかもしれませんが、それよりは先程の『沼田家記』の弟子(門人)同士が喧嘩して師匠同士の争いに発展した…という説明の方がすっきりしています。
それから、"『五輪書』に岩流との勝負についての記述が全くない事実を考えると晩年の武蔵は舟島での岩流との勝負について自ら語ることが殆どなかったと推測"されるともあり、武蔵自身はその後あまり話したがらなかったと考えられています。
こうなると、「試合の結果、小次郎が敗れた」も武蔵が沼田延元に言っただけですから怪しいもので、地元伝承の「多勢に無勢、一人ではとても敵いません」が本当だったなどの可能性もありそうです。しかし、そこまで断定する根拠も特にありませんから、両論併記くらいのところが妥当な線でしょうか? 現代から推測できるところとしては、ここらへんまででしょうね。
●宮本武蔵の佐々木小次郎殺害は大名が黒幕?佐々木氏弱体化説
2022/07/19追記:最初のときに、信頼性が低い資料の理由の一つで、細川家中を巻き込んだ大きな騒動と書かれているのに、細川家側に一切資料が残っていないという話を紹介しています。修験者が集う英彦山(ひこさん)の
ウィキペディアを見ていたら、この細川家と佐々木小次郎の絡む説が出ていました。
なぜ佐々木小次郎が絡む説が出てくるのか理解するには、まず、英彦山(ひこさん)のあった豊前国の領有に関わる知識が必要になってきますので、そこらへんから引用。この英彦山に関わる話が書かれた前半の説明は書物がある信頼できる話です。ただ、後半は例によってトンデモっぽいものでした。
<この山を根拠とする豊前佐々木氏が領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため、天正9年(1581年)10月、敵対する大友義統の軍勢による焼き討ちを受け、1ヶ月あまり続いた戦闘によって多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという。
なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが滅ぼされず、細々と生き残っている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎はこの豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある。その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという>
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