Appendix

広告

Entries

山本亡羊先生小傳(中島民之介) 医学・儒学・本草学の門人多数


★2014/4/7 中島民之介『山本亡羊先生小傳』 たいへんな読書家の一方で多趣味
★2014/4/15 山本亡羊先生小伝(中島民之介) 儒学(朱子学)と幕府の矛盾、尊王論
★2014/4/19 山本亡羊先生小傳(中島民之介) 医学・儒学・本草学の門人多数


★2014/4/7 中島民之介『山本亡羊先生小傳』 たいへんな読書家の一方で多趣味

 Wikipediaに無い山本亡羊 中島民之介『山本亡羊先生小傳』で知る人柄でいただいたメールを紹介した『山本亡羊先生小傳』。やけに短いなと思ったんですが、まだまだ続きがありました。勘違い。

 この『山本亡羊先生小傳』のメール、特に迷惑しているということはなく、むしろこのような貴重な内容を私のところでやっちゃって良いのかな?と申し訳ない感じです。何だか手柄を横取りしている気分なのです。まあ、こうして私が恐縮すると、またメールの方が恐縮するという悪循環になるのでここらへんにしておきます。

 あと、「ブログで紹介してほしい」というのは私の勘違いだったようで、単に内容を教えてくださるという意味だったみたいです。ただ、まあ、古い書物ですので青空文庫のような役割を果たせるでしょうから引き続き。注意事項などは前回をどうぞ。
『山本亡羊先生小伝』4亡羊の学問

先生幼より学を好むこと天性に出づ。経学医術は父封山翁より伝ふ。尤も(※)程朱の学(※)を尊信す。年甫めて(※)十六、小野蘭山翁の門に入り本草学を研究し又書及詩文を細合半齋翁に学び礼法を橋本経亮(梅宮祠官)に、雅楽を麻田助太夫(東寺の人)に学び、和歌は小沢蘆庵に質さる。先生二十一歳の時蘭山翁、幕府の召に応じ江戸に赴かる。依て同翁に親炙せられたる年月は甚短し。然れども時々書簡を以て教へを乞はれ、其答書数百通に至ると云。惜哉、元治の兵燹(※)に焼失し、今僅に十余通を存する而已(※)。
先生の学は実践を主とす。是を以て詩文の雄麗筆跡の猶美世を驚かす無しと雖(※)、人みな先生を重んず。先生年少より多く書を読む。人、其読むことの神速なるに驚く。古人云「読書五行倶に下る」とは先生の如きを指すものか。先生、昼間は業務あるを以て読書は必夜間の課業とし、夜半に至り漸く寝に就く。友人丘本思純(正吉)曽て詩を賦し先生に寄す。
  括目更驚君敏捷。一年読尽半千書。

※語註
尤も…モットモ
程朱の学…朱熹や程兄弟による経学の学説。
甫めて…ハジメテ。やっと。
兵燹…ヘイセン。燹は兵乱によっておこる火事。兵火。
而已…のみ。
雖…イエドモ。~であっても。

 "先生幼より学を好むこと天性に出づ"と冒頭にありますが、以前紹介した通り、父山本封山も儒医であり、前回も"先生、遺業を継ぎ専ら本草学を修む"の記述がありました。そういう意味では恵まれた環境にあり、必然的に"学を好むこと"になったのでしょう。

 また、前回を見ると亡羊自身も子供らに対して厳しそうな感じで、やはり似たような環境にあったと思われます。実際、息子たちも皆学者になりました。江戸時代は家業を継ぐことが当たり前ですので、息子から学者が出ることは特に不思議ではないのですが…。

 「麻田助太夫(東寺の人)」の「東寺」は、有名なので京都市南区九条町にある東寺(とうじ、教王護国寺(きょうおうごこくじ))で良いでしょう。一方の「橋本経亮(梅宮祠官)」の「梅宮」も寺社の類と思いますがわかりませんでした。これはどうやら、京都市右京区にある「梅宮大社」のようですね。

 上記は亡羊の本好き…って言っちゃうと随分軽いですが、読書中毒的なエピソードです。亡羊の開いた「山本読書室」はなるほどピタリなネーミングです。そして、この強烈な読書欲が山本亡羊読書室で岩倉具視暗号表 菅原道真直筆写経 日本最古の新聞など発見で書いたような多くの重要文化財級書物の収集に繋がっていそうです。

 なお、上記には「元治の兵燹(※兵乱によっておこる火事)に焼失し、今僅に十余通を存する而已(のみ)」とありました。また、読書室は禁門の変(1864)で焼失したという記述も以前紹介しています。これら2つの記述はおそらく同じものを指していると思われます。
功山寺挙兵(こうざんじきょへい)は、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター。回天義挙とも。これに端を発する長州藩内の一連の紛争を元治の内乱という。

 背景

禁門の変により長州藩は朝敵となり第一次長州征伐が行われ、三家老(国司親相・益田親施・福原元僴)が切腹し、藩政の実権は椋梨藤太の俗論派が握ることとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9F%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E6%8C%99%E5%85%B5

 火事で消失してもなおこれだけの史料があったのですから、その前となるとさらにすごかったんでしょう。惜しいことをしました。

『山本亡羊先生小伝』5亡羊の趣味

先生頗る角力(※)を好み又角力を観るを好まれ、年々角力の番附を集め時時自筆にて勝負付けを認めらる(※)。今尚家に存せり。又或年自邸の隣りに空地あるを利用し土俵場をしつらひ七目崎といふ力士を招き読書の余暇、麗沢社(当時先生設立の詩文社)の学友と角力を催さる。又先生壮年の時、平曲を星野検校に学び、老年に及びて更に平曲の名人山本検校に就きて其音調声曲を質し、自ら平家物語全部を手写す。其平生愛せらるる所の琵琶時鳥今尚家に保存す。先生音吐鐘の如し。初めて平曲を学び之を演ぜられしとき、隣人河内屋仙助という者驚きて人に告げ曰く「山本先生発狂せり」と。
先生又奕(※)を好み時々学友を招きて棋を囲まる。頗る下手、所謂御祭り碁初段に井目(※)位なり。先生技芸に於て尤も武術に精し。依て軍学の如きも夙に之を攻究す。所謂治に居て乱を忘れざる者、然り之を問へば笑ふて対へず(※)。孔子の衛霊公に於けるが如し。故に人之を知る者稀なり。寛政二年夏より因州鳥取伏見屋敷住河田佐助(故子爵河田景与の祖父)の門に入り、槍術剣法を学ぶ。其伏見に通学する寒暑風雨を避けず、終に(※)其蘊奥を究め皆伝允可の秘書を受く。其書家に伝ふ。

※語註
角力…すもう
認めらる…シタタメラル
奕…囲碁
井目…碁盤の上の九つの黒星。下手が予め九カ所の星に石を置いて行う対局
対へず…コタエズ。返答せず
終に…ツイニ。とうとう。

 ここは微笑ましいです。"隣人河内屋仙助という者驚きて人に告げ曰く「山本先生発狂せり」と"のところでは、声出して笑いました。

 好奇心の旺盛さは学問以外でもなかなか発揮させられていていろいろやっていますが、囲碁はいわゆる下手の横好きだったみたいですね。「頗(すこぶ)る下手」とまで書かれています。一方、槍術剣法はすごかったんですかね? 「皆伝」(かいでん、流派の奥義をすべて伝えられること)の文字が見えます。

 文頭に戻って相撲の件ですが、江戸のイメージであり、京都のイメージはありませんでした。地方巡業かな?と検索すると以下の記述がありました。
 江戸時代

江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9B%B8%E6%92%B2

 ただし、実力はともかく、ある時期からは「相撲はやはり江戸」と考える人が増えていたようです。
夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる。雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。

各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。

 1778年生まれで1859年(江戸時代は1868年まで)に亡くなっていますので、亡羊先生の頃には差がすでに広がり始めていたかもしれません。

 …といった感じ。まだ続きがありますので、他に書くことがないときにまた。のんびりと気楽に行くつもりです。


★2014/4/15 山本亡羊先生小伝(中島民之介) 儒学(朱子学)と幕府の矛盾、尊王論

 時間ができたので、中島民之介『山本亡羊先生小傳』の続きです。
『山本亡羊先生小伝』6亡羊の亡羊の信条

先生毎に言ふ「儒を業とし生徒を集め束脩(※)を以て生計を営むもの、往々售らん(※)と欲するの心あるを免れず、是心術の陋なる者なり。学問の道は人たるもの誰にても心得べき正心誠意修身斉家(※)のことなり。聖賢の書を鍋の中へ入れて生活するは愧ず(※)可きなり。或は農、或は商、常業あるものに非れば医を以て生を計るの優るに如かず。仍て自分は父封山の遺志を継ぎ医業を以て門戸を立なり」と。先生正月元日を除くの外、毎日病家に往診す。先生の患者を診する常に十人を限りとす。病人を多く取り扱へば自然疎漏を免れざるを以てなり。世間流行医が只管(※)患者の多きを貪る者と全然相反す。
先生又言う「古語に『売薬者両眼。用薬者一眼。服薬者無眼』と。医を業とするものは本草学を研究し薬品の真贋能毒を弁知せざるべからず」と。先生、春秋に門人子弟を拉ひ(※)、京都諸山を跋渉し植物を採集し予て(※)救荒の道を教へ、又薬功害毒の物類を実地に就き教授するを例とす。其時佩ぶる(※)所の採薬刀(松岡玄達翁の遺品)及び竹製の吸水器今尚家に蔵せり。柴野栗山、小沢蘆庵は先生の兄賢蔵君の師なり。先生其人物の高尚にして識見あるに敬服す。頼山陽、浦上春琴の両人常に先生の門に出入相往来す。先生、山陽の文材を激賞せらるるも其風采を喜ばず。曽て云う「山陽は結髪床の日手間取りに似たり。春琴は巾着切に似たり。学者の宗師とすべき者にあらす」と。時人以て名言となす。
先生の日課は早起朝飯を喫し、園中の草木栽培及灌水の労を親らし、午前四つ時(今の十時)比より正午まで書を講じ、門人及子弟に教授す。二七の日は医書、三八の日は本草書、四九の日は経書、又毎月朔日(※)の夜は詩会を開き、十五日の夜は文会を催し朋友及門人子弟に随時題を課す。

※語註
束脩…入学金。あるいは広く授業料。
售…売る。あきなう。売り込む。
修身斉家…修身は身持ちを正す。斉家は一家を整える。
愧ず…ハズ。恥じる。
只管…ひたすら
拉ひ…ヒキイ。率い。
予て…アズケテ。物を持たせて
佩ぶる…オブル。身に着ける。
朔日…ツイタチ。月の初の日。

 前回は軽い話でしたが、今回は真面目な話で、文章も難しいかなと思いました。そんな中でちょっとおもしろかったのは、頼山陽について「文材を激賞せらるるも其風采を喜ばず」のところ。
頼 山陽(らい さんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日) - 天保3年9月23日(1832年10月16日))は、江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人。(中略)主著に『日本外史』があり、これは幕末の尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。
Wikipedia

 「山陽は結髪床の日手間取りに似たり」とありましたが、「結髪床」は床屋のことでしょう。
髪結い(かみゆい)は江戸時代から明治にかけての理髪業に従事する人を総称する言葉で、今の理容師のこと。

男性の髪を手がける男の髪結いで「髪結い床」という自分の店を持つものは床屋とも呼ばれた(略)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%AA%E7%B5%90%E3%81%84

 「日手間取り」に迷いましたが、「手間取り」なら手間賃をもらって雇われる人のことなので、日雇い労働者のことですかね? だとすれば、「山陽は床屋の日雇いのような容姿だ」ということでしょう。

 続いて浦上春琴が「巾着切に似たり」と言われていましたが、「巾着切」
は金品を盗む「スリ」の意味のようでさんざんな言い様です。
浦上春琴(うらがみ しゅんきん、安永8年(1779年) - 弘化3年5月23日(1846年6月16日))は、江戸時代後期の日本の文人画家。(中略)

遊歴を終え20代で京都に定住し、頼山陽や田能村竹田、岡田米山人、半江、篠崎小竹、貫名海屋、柏木如亭ら著名な文人との交わりを深める。(中略)

山水画、花鳥画に優れ精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作風であった。中林竹洞や山本梅逸らと名声を競った。当時は父玉堂の作品よりよく売れたという。また書道・詩文・平曲・七絃琴に優れ、器物、書画の鑑定にも秀でていた。紀春琴の名で画論『論画詩』を著している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E6%98%A5%E7%90%B4

 また、「学者の宗師とすべき者にあらす」の「宗師」は、「第一の師として尊敬すべき人」だそうです。

『山本亡羊先生小伝』7 亡羊と皇室

光格天皇の仙院(※)に在ます頃、朝廷復古のこと追々御再興の御内意あり。鷹司大閤楽山公(※)、先生を以て採薬使に補せんとするの議あり。事将に発せんとするに臨み、上皇御登遐(※)遊そばされ、鷹司公も尋で薨ぜられ(※)遂に止む。後、典薬寮三角典薬大允有裕具に当時の事を先生に語り、深く之を惜む。弘化元年三月摂州高槻藩主永井侯より先生を聘し臨時御用医となし俸禄若干を賜ふ。先生一月一度高槻に出張す。嘉永年間、幕府の医員曲直瀬養安院、先生を紹介し本草学を以て小野蘭山同様幕府へ辟るる(※)の内意あり。先生病気を申たて書を送り曲直瀬氏に謝す。先生の意は縦使(※)大禄を得るも幕府に仕ふるを屑とせざる(※)なり。先生立身行道断然自得する所あり。未嘗て傍人の容喙を許さず、知らざる者は頑固となす。蓋し道を見る明かなるを以て人言に惑はされざるなり。其齡七十歳に達する。中島来章をして肖像を描かしめ自ら其上に題して曰
  学宗程朱。罕言性理。行同邦俗。無慕禄仕。読書万卷。
  多識草木。齡繙八旬。優得五福。(七十の作なる故に繙八旬の句なり)
先生常に王室の式微(※)を歎じ幕府の僭横を慨す。故に幕命を辞し京都にあり。然れども平生慷慨(※)の言を出さず、但門人に経史を講ずる際大義名分を明かにし暗に勤王の意を含有し聞く者をして自から興起感奮せしめらる。先生、寛政十年九月邸中に植物園を開きしより年々奇樹珍草を採集し之を園中に培養す。文化十三年十月隣地を購求し、其園を拡張し園中植る所の草木数千種に至る(草木名簿家に存す)。

※語註
仙院…太上天皇の御所
鷹司大閤楽山公…鷹司政煕(1761~1841)。大閤は太閤。楽山は法名。
登遐…天子の死
尋で薨ぜられ…まもなく亡くなられ。
辟るる…メサルル。召される。
縦使…たとい。仮に。もし。
屑とせざる…イサギヨシトセザル。潔しとしない。
式微…国家の勢いが衰える。
慷慨…感情が高まって嘆く。

 山本亡羊は京都の人というのもあるのか、幕命(幕府の命令)を病気を理由に固辞して、幕府に仕えることを潔しとしなかったというほどですので相当なものですが、もともと儒学を学ぶ人は天皇家を敬う傾向があります。
尊王論(そんのうろん)とは、王者を尊ぶ思想のこと。もとは中国の儒教に由来し、日本にも一定の変容を遂げたうえで持ち込まれた。

 概要

尊王論は、武力(覇道)をもって支配する「覇」(覇者)に対し、徳(王道)をもって支配する「王」(王者)を尊ぶことを説く。中国においては「王」のモデルは古代周王朝の王であったことからもともと「尊王」と書いた。日本では当初鎌倉時代から南北朝時代にかけて尊王論が受容され、天皇を「王」、武家政権(幕府)を「覇」とみなし後者を否定する文脈で用いられて、鎌倉幕府の滅亡・建武の新政への原動力となった。(中略)

幕末には、平田国学や水戸学等ナショナリズムとして絶対化され、仏教を排斥する廃仏毀釈としても現れる。幕府が諸外国と条約を結び、鎖国体制を解いて開国を行うと、攘夷論と結合して尊王攘夷(尊攘)となり、幕政批判や討幕運動等へと展開していく素地のひとつとなり、明治以降の国体論や国家神道へも影響する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8A%E7%8E%8B%E8%AB%96

 水戸学という言葉が出ていますが、幕府サイドに属しているように見える人間でも強い尊王思想を思っている人がいました。水戸は水戸黄門の徳川光圀(水戸光圀)の影響が強かったせいです。
水戸学(みとがく)は、日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された学問である。全国の藩校で水戸学は教えられ、多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。

 概要

一般に日本古来の伝統を追求する学問と考えられており、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた歴史書『大日本史』の編纂を中心としていた前期水戸学(ぜんきみとがく)と、第9代水戸藩主の徳川斉昭が設置した藩校・弘道館を舞台とした後期水戸学(こうきみとがく)とに分かれるとされる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%88%B8%E5%AD%A6

 同じ時代の犬将軍こと徳川綱吉も尊王思考が強い人でした。
儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍としても知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額して献上し、また大和国と河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額な資金をかけて計66陵を修復させた。公家達の所領についてもおおむね綱吉時代に倍増している。

また、のちに赤穂藩主・浅野長矩を大名としては異例の即日切腹に処したのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな原因であったようである。綱吉のこうした儒学を重んじる姿勢は、新井白石・室鳩巣・荻生徂徠・雨森芳洲・山鹿素行らの学者を輩出するきっかけにもなり、この時代に儒学が隆盛を極めた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E7%B6%B1%E5%90%89

 「尊王論」のWikipediaでは、"幕府は朱子学を支配原理として採用し"たものの、"朱子学による幕府の正統化の論理は、最初から矛盾をはらんでいた"との指摘がありました。確かにこれは失敗でしたね。


★2014/4/19 山本亡羊先生小傳(中島民之介) 医学・儒学・本草学の門人多数

 メールでいただいた「山本亡羊先生小傳(中島民之介)」のものは、これで最後です。
『山本亡羊先生小伝』8講堂書庫の設置と資料収集

文政二年五月、邸中に講堂を建つ。天保六年書庫を築く。先生本草学の用に供するため四男章夫をして森徹山、蒲生竹山に就て写生画を学ばしむ。章夫の手写する禽獣(※)虫魚草木の図数千枚あり。又介類(※)石類標本を諸国より蒐集し千を以て数ふ。皆家に蔵せり。

※語註
禽獣…禽は鳥類。鳥獣。
介類…貝等の甲殻をもつもの

 息子たちも皆学者という話は既に出ていましたが、四男章夫が登場。以前も思ったんですが、とても昭和臭のするお名前です。

 山本亡羊については、儒者であったり、医者であったり、本草学の学者だったりといろいろな書き方をしていますが、医学と本草学はこの時代だと(というか、今本草学はないですが)セットなのかな?とWikipediaを見ると、そうでもない書き方をしていました。
本草学(ほんぞうがく)は、中国で発達した医薬に関する学問である。

 概要

秦漢以後、六朝にかけて、神仙思想が発達して方術が盛んになると、神仙家の薬と医家の薬とを区分する必要性が生まれた。その頃に、方術の薬を指すものとして、「本草」という用語が生まれたとされる。その意は、「草石の性に本づくもの」であるという。よって、単に薬草のみを指して本草という訳ではない。

 ここを読むと、本草学は「医家の薬」ではなく、むしろ「神仙家の薬」です。一方で、私は「本草学」=「日本の博物学」というイメージがありました。

 実際、Wikipediaには、博物学の項目に「日本と博物学」「本草学」という見出しがあります。
 本草学

日本では奈良時代以来、本草学に関する書物が読まれており、10世紀には『本草和名』という、本草の和名を漢名と対比した書物が編纂された。江戸時代には1607年の『本草綱目』の輸入をきっかけに本格的な本草学研究が興った。

(中略)博物学的知識は実用可能である上に、当時の幕府が危険視するような思想的背景が薄いため、かなり早くから流入し、本草学にも影響を与えている。

 おもしろいのは"林羅山は1612年に『多識篇』を著わし、『本草綱目』を抄出した"など、やはり儒者と関係あることですね。儒者・医者・本草学者はいっしょに学ぶ人が多かったのかもしれません。

 …てなことを書いていたら、次の話では「典薬寮医師の過半は皆先生の門下」「門人のうち儒学の薫陶を受たる人と本草学を修めたる人と両者あり」とありました。普通の人はセットではないのか。亡羊などが特殊だったようです。
『山本亡羊先生小伝』9亡羊周辺の人々

京都人にして蘭山翁の薫陶を受け本草学を修めたるものは百々俊道、平井宗七郎、山科亨庵、上田元孝、福井棣園、水野皓山、内藤剛甫、物部寿斎等なり。此中の数人、蘭山翁歿後は何れも先生の門に出入し益を請へり。美濃大垣の植物学者飯沼慾斎氏は先生と同門なり。蘭山翁歿後先生に就き植物の疑義を質問し、歳時金帛を贈り先生に師事す。其草木図説を著すとき自ら稿本を携へ上京して先生の質正を請ふ。同書の序は先生の選文也。先生の門人、先進後進を合すれば千数百人の多きに至る。典薬寮医師の過半は皆先生の門下にあり、又諸藩の医師も藩主の命を以て先生の家に寄宿するもの陸続絶へず。門人のうち儒学の薫陶を受たる人と本草学を修めたる人と両者あり。儒学の教訓を受けたる中、神山四郎(鳳陽)多田好問(東蕪)西尾為忠(鹿峰)野口左門、田中河内介(綏猷)伊勢の人家里松島(新太郎)長州の人長松文助(幹)(故貴族院議員)等皆世に知らる。多田、西尾、長松の三氏は維新前国事に尽力し明治の初より官途に就き、野口、神山の二氏は文学を以て名あり。家里は維新前横死す。就中田中河?(※)(国臣)初め諸有志に交り諸藩に遊説す。先生同人に添書を与へ九州の門人に紹介して便宜を得せしめたり。河内介の子瑳磨介(嘉猷)は先生の二男錫夫、三男秀夫に従ひ学を励み又先生の四男章夫に就き画を学び居りしが、文久二年島津三郎久光公上京の時伏見寺田屋騒動一件、河内介父子激徒の巨擘となり、事志しと違い遂に薩藩の手に縛せられ、日向洋にて殺さる。明治維新後河内介は正四位、瑳磨介は正五位を追贈せらる。其他先生の門下にして勤王愛国の士若干名あれども其姓名を略しぬ。
先生の門人にして本草学を以て世に聞へたるものは伊勢の西村広休、岡安定、松浦四郎(故開拓判官)美濃の江馬春齢、長崎の野田青霞、大阪の岩永文?(※)、阿波の長井琳泉、豊前の伊藤浚明、周防の松永周輔、土佐の今井貞吉、薩摩の松岡十太夫、豊前の賀来飛霞、京都の百々三郎、田中宣之、梯晋造、吉川丈五郎等なり。
先生の朋友中尤も親善なりしは岩垣龍渓、岩垣月洲、佐野少進、猪飼彦博(敬所)三角典薬大允(有裕)福井丹波守(榕亭)福井近江守(棣園)摩島松南(助太郎)中山安碩(松陰)若槻幾斎(菊太郎)百々漢陰(内蔵太)百々一郎(綯)鈴木遺音(恕平)宇津木太一郎(崑台)辻忠良兵衛(慶儀)岸越前守(岱)中島棕隠(文吉)貫名海屋(泰次郎)梅辻春樵、小田海仙、近藤顧一郎、中村内記、中村安右衛門、熊谷直恭(鳩居堂先代)北小路大学助(竹窓)脇屋二郎(恕亭)中村新斎等なり。
一条忠香公は今の皇后陛下(※)の御実父にして本草学は特に御熱心なり。時々侍臣を先生の許(※)に遣はされ御直書を以て御質問あり。先生も亦屡参殿す。格別御優遇遊ばされ、時として御側にて酒饌を賜はらる。御近侍荘林弾正(維新氏の養父)曽て云「先生に酒饌を賜るとき今の皇后陛下御幼年の時にて御配膳遊ばされたることもありし」と。先生還暦及古稀の賀宴、御自筆の画又御詠歌を賜はりたり。先生病篤きとき、公深く之を憂ひ毎日侍臣を遣はして病況を尋ねさせられ、先生の逝去せらるるや御哀悼浅からず、鄭重なる御賻儀を賜はり、一周年祭の節は如在の二字を絖本(※)に大書して扁額となし、霊壇に供へられ先生没後は長男錫夫を召し猶同学を御研究ありき。

※語註
?…文字化け。後述。
今の皇后陛下…昭憲皇太后。
許…もと。
絖本…書画用の光沢のある絹地

 「?」のところは文字化けです。

 2つ目の文字化け「大阪の岩永文?」は大阪で本草家ですので、「岩永文楨(ぶんてい)」で間違いないと思います。
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

岩永文楨 いわなが-ぶんてい

1802-1866 江戸時代後期の医師,本草家。
享和2年生まれ。大坂道修町で開業のかたわら,本草学を山本亡羊にまなぶ。天保(てんぽう)6年大坂では戸田旭山(きょくざん)以来七十余年ぶりに物産会を再開した。慶応2年6月15日死去。65歳。京都出身。名は之房。号は鐘奇斎,藿斎,玄昌堂。著作に「鐘奇斎随筆」など。
コトバンク

 問題は「就中田中河?(※)(国臣)初め諸有志に交り諸藩に遊説す」ですね。これは文字化けが非常に長かったですし、おそらく最低でも数文字分は文字化けしていると思います。

 「就中」は漢文由来の言葉で「なかんずく」。「特に、とりわけ」の意味で、その次からが名前です。これは前後に名前が見えていますので、「田中河内介」と考えてよいでしょう。

 その後に「(国臣)」とあるものの、河内介の別名が「国臣」というのは確認取れませんでしたので、おそらく別人の名前などが文字化け部分に入っていると想像できます。

 情報が少ないのに憶測しすぎですが、河内介の同士に平野国臣という方がいるので、「平野次郎(国臣)」みたいな形で書かれていたのではないかと思います。
田中河内介 【たなか・かわちのすけ】

朝日日本歴史人物事典の解説 

幕末の尊攘派志士。名は綏猷,号は恭堂,臥竜。但馬国(兵庫県)出石の医者小森正造の子に生まれる。天保11(1840)年上京して中山忠能に仕え,同家諸大夫田中近江介の養子となる。忠能の子忠愛・忠光・慶子および祐宮(明治天皇)を教育。諸国の尊攘派志士と交際を広め,そのことで主家に累がおよぶのを恐れて文久1(1861)年辞職。柴山愛次郎,平野国臣,小河一敏,清河八郎らと,同2年の島津久光上洛を機に挙兵を企てたが,寺田屋の変で弾圧。海路薩摩に護送される途中,斬殺された。
(三井美恵子)


平野国臣 【ひらの・くにおみ】

朝日日本歴史人物事典の解説

幕末の筑前福岡藩士,尊攘派志士。通称次郎。同藩足軽平野吉郎右衛門の次男。江戸屋敷普請方,長崎屋敷諸用聞次定役を勤める。かねて国学,和歌,雅楽を学んでいたが,会沢正志斎の『新論』に感化を受け,また有職故実を修めたこともあって,烏帽子直垂の王朝風俗を愛好し,王政復古を志すようになる。
(三井美恵子)

 田中河内介の説明で出てきた中山忠能(ただやす)は、尊攘派・公武合体派の大物の公家です。一旦は失脚しますが、復帰して活躍します。明治天皇の祖父でもあるそうです。

 『山本亡羊先生小傳』では人物名がたくさん出ていましたが、今回は特にすごかったですね。


 関連
  ■宮本武蔵卑怯者説は真実?巌流島の決闘で約束を破って集団リンチ
  ■坂本龍馬が引き抜いた高千穂峰の天の逆鉾 今は本物でなくレプリカ
  ■生類憐れみの令の勘違い 捨て子や病人も対象・厳罰ではなかった?
  ■山本亡羊読書室で岩倉具視暗号表 菅原道真直筆写経 日本最古の新聞など発見
  ■山本亡羊先生小傳(中島民之介) 医学・儒学・本草学の門人多数
  ■その他の歴史・考古学について書いた記事

Appendix

広告

ブログ内 ウェブ全体
【過去の人気投稿】厳選300投稿からランダム表示









Appendix

最新投稿

広告

定番記事

世界一スポーツ選手の平均年収が高いのはサッカーでも野球でもない
チャッカマンは商標・商品名 じゃあ正式名称・一般名称は何?
ジャムおじさんの本名は?若い頃の名前は?バタコさんとの関係は?
ワタミの宅食はブラックじゃなくて超ホワイト?週5月収10万円
朝日あげの播磨屋、右翼疑惑を否定 むしろ右翼に睨まれている?
レーシック難民は嘘くさいしデマ?アメリカの調査では驚きの結果に
赤ピーマンと赤黄色オレンジのパプリカの緑黄色野菜・淡色野菜の分類
アマゾンロッカーってそんなにすごい?日本のコンビニ受け取りは?
就職率100%国際教養大(AIU)の悪い評判 企業は「使いにくい」
ミント・ハッカでゴキブリ対策のはずがシバンムシ大発生 名前の由来はかっこいい「死番虫」
移動スーパーの何がすごいのかわからない 「とくし丸」は全国で約100台
ビジネスの棲み分け・差別化の具体例 異業種対策には棲み分けがおすすめ
主な緑黄色野菜一覧 と 実は緑黄色野菜じゃない淡色野菜の種類
タコイカはタコ?イカ?イカの足の数10本・タコの足8本は本当か?
トンネルのシールドマシンは使い捨て…自らの墓穴を掘っている?
ユリゲラーのポケモンユンゲラー裁判、任天堂が勝てた意外な理由
好待遇・高待遇・厚待遇…正しいのはどれ?間違っているのはどれ?
コメダ珈琲は外資系(韓国系)ファンドが買収したって本当? MBKパートナーズとは?
大塚家具がやばい 転職社員を通報、「匠大塚はすぐ倒産」とネガキャン
不人気予想を覆したアメリカのドラえもん、人気の意外な理由は?

ランダムリンク
厳選200記事からランダムで









アーカイブ

説明

書いた人:千柿キロ(管理人)
サイト説明
ハンドルネームの由来

FC2カウンター

2010年3月から
それ以前が不明の理由