ロベルト・カルヴィ(Roberto Calvi、1920年4月13日 – 1982年6月17日(遺体発見日))は、イタリアの銀行家。バチカンの資金管理を行う銀行であったアンブロシアーノ銀行の頭取であったことから、「教皇の銀行家」と呼ばれていた。(中略)
1969年には、ネオ・ファシストの極右政党であるMSIやCIAと深い関係を持っていたリーチオ・ジェッリが代表を務めるフリーメイソンの「ロッジP2(Propaganda Due)」の会員となり、ジェッリを通じて、バチカン銀行の財政顧問も務めた弁護士で、自らが経営するミラノのプライベートバンクを通じてマフィアのマネーロンダリングを行っていたミケーレ・シンドーナとの関係を結んだ。
なおシンドーナは、第二次世界大戦後から、ラッキー・ルチアーノやジョー・アドニス、ヴィト・ジェノヴェーゼらのアメリカのイタリア系マフィアや、サルヴァトーレ・リイナなどのシシリア系マフィアなどのマネーロンダリングを手掛けていたことで知られていた他、これらの「裏世界」の人間だけではなく、バチカン銀行総裁でアメリカのシカゴ出身のポール・マルチンクス大司教や、さらにマルチンクス大司教と昵懇の仲で、マフィアと関係の深かったジョン・F・ケネディとも親しく、さらにリチャード・ニクソン政権の財務長官を務めた銀行家のデヴィッド・M・ケネディなどの「表」の人物とも深い関係にあった。
ミケーレ・シンドーナ(Michele Sindona、1920年5月8日 - 1986年3月22日)は、イタリアの弁護士で銀行家。マフィアのマネーロンダリングや金融捜査官の暗殺を行い有罪判決を受け、刑務所内で不審死をとげた。
マルチンクス大司教と昵懇の仲のアメリカ人銀行家で、リチャード・ニクソン政権の財務長官を務めたデヴィッド・M・ケネディが頭取を務めるコンチネンタル・イリノイ銀行も、プリバータ・フィナンツァリア銀行の残りの多くの株を所有することとなった。
第二次世界大戦下における連合国軍のイタリア(シチリア島)上陸を支援したイタリア系アメリカ人のマフィアであるラッキー・ルチアーノと知り合い、イタリアを占領下に置いたアメリカ軍の物資の横流しなどを行うマフィアの手助けを行う。大戦終結後の1946年にはミラノに移り、マフィアがこれらの違法行為で稼いだ資金の海外移転やマネーロンダリングなどを行う傍ら、後にローマ教皇パウロ6世となるジョバン ニ・バッティスタ・モンティニ大司教との関係を結んだ。
マクレラン委員会
ケネディは組織犯罪と労働組合の腐敗を追及する「上院マクレラン委員会」(ジョン・マクレランが委員長を務めた。旧称「バラキ公聴会」)の委員として名を連ねていた。実弟で後の司法長官ロバート・ケネディはこの委員会の首席顧問として司法省から派遣され検事役を務めた。この委員会の最大の功績は、アメリカ一の組合員数を誇ったトラック運転手組合の「チームスター組合」とマフィアとのつながりを明らかにしたことである。また、「マクレラン委員会」はバティスタ政権下のキューバからアメリカに密輸されるヘロインの中継基地が、南部の港湾都市で港湾労働者組合をマフィアが掌握していたニューオリンズであると特定した。
これによりチームスター組合のジミー・ホッファとケネディとの対立が始まった。この委員会の活動によりケネディ兄弟は知名度を高めた。
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結局暗殺犯とされたオズワルドは、警察の尋問に対し一貫して「はめられた」と主張するのみで、事件の2日後の11月24日の午前中にダラス市警察本部から郡拘置所に移送途上に市警本部の地下通路で、市内のナイトクラブ経営者でマフィアと(そして、ダラス市警察の幹部の多くとも)関係が深いジャック・ルビーに射殺された。この射殺事件にもケネディの暗殺事件の真相の隠蔽行為(口封じ)であるとする意見がある。
それと同時に、妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードとその親友のフランク・シナトラを通じて、サム・ジアンカーナやジョニー・ロセリなどのマフィアとの関係を構築していった。
義弟ピーター・ローフォードの協力を受けて、ハリウッド俳優や歌手などの芸能人による選挙協力を受けた。ローフォードの友人でマフィアとの関係も深いフランク・シナトラやサミー・デイヴィスJr.などが、カリフォルニア州やネバダ州、ハワイ州で行われた選挙資金調達パーティーに出演するなど、ケネディの予備選勝利に向けて協力を行った。
さらに1960年7月10日の民主党大会の初日前夜に、ビバリーヒルズのビバリー・ヒルトン・ホテルで開かれた資金調達パーティーでは、シナトラやローフォード、デイヴィスのほかにも、ジュディ・ガーランドやトニー・カーティスが出席し、シナトラはアメリカ国歌を斉唱したばかりか、会場をまわり代議員へのケネディへの投票を呼びかけた。
選挙不正とマフィアとの関係
父親のジョセフ・ケネディ・シニアは禁酒法時代に密造酒の生産・販売を行っておりマフィアと関係を持っていた。大統領選挙においてジョセフの依頼でマフィアやマフィアと関係の深い労働組合、非合法組織により、買収や不正な資金調達、複数の州における二重投票など大規模な選挙不正が行われた。
またケネディは、予備選挙中にフランク・シナトラから紹介されたシナトラの元恋人で、その後愛人関係を持つことになったジュディス・キャンベルを経由して、マフィアの大ボスのサム・ジアンカーナを紹介してもらい(キャンベルはジアンカーナの元愛人でもあった)、ウェスト・ヴァージニア州における選挙への協力を直接要請した。
さらにシナトラが同州のマフィアからケネディのために寄付金を募り、ケネディの選対関係者にばらまいたこともFBIの盗聴により明らかになっている。
選挙終盤にケネディ陣営の大掛かりな不正に気づいたニクソン陣営は正式に告発を行おうとしたが、アイゼンハワーから「告発を行い、泥仕合になると国家の名誉を汚すことになる」と説得されて告発を取りやめている。
ウォーターゲート事件により1974年に辞職に追い込まれ、任期中に辞任した唯一のアメリカ大統領となった。(中略)
1972年6月17日に、ワシントンD.C.のウォーターゲート・ビル内にある民主党全国委員会オフィスへの不法侵入と盗聴器の設置容疑で逮捕された5人のうちの1人であるジェームズ・W・マッコード・ジュニアの所持品から、ニクソン大統領再選委員会のスタッフであるエドワード・ハワード・ハントのホワイトハウス内の連絡先電話番号が見つかった。(中略)当初ニクソンとホワイトハウスのスタッフは「民主党全国委員会オフィスへの侵入事件と政権とは無関係」との立場を取り続け、1972年秋の大統領選挙には全く影響は無かった。しかし2期目の大統領に就任後の1973年春にホワイトハウスのスタッフが関与していることが次第に明らかになり、政権の屋台骨を揺さぶるスキャンダルに発展した。
ニクソン本人がこの「盗聴」に関わっていたということは必ずしも事実とは言えない。問題は侵入事件後のかなり早い時期にニクソンが知って「もみ消し」に関わっていたかが焦点となった。そして事件調査の過程で、大統領執務室内の会話が録音されていることが発覚して(パターフィールド証言。但しこれはニクソン以前にケネディも行っていた)、その会話テープの提出を求められて、事件の調査はホワイトハウス内でどのような会話がされていたのかに焦点が当てられた。最初は会話テープの提出を拒み、やがて一部提出されたテープには18分も消去された部分があって、謎が深まった。そして1973年秋にニクソン自身がこの事件調査のため任命したコックス特別検察官を突然解任する事態(土曜夜の大虐殺)となり、国民にも「大統領はもみ消しに関わっていた」という疑惑が拡大し、これで議会が大統領弾劾に動き、辞任に追い込まれる結果となった。
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1950年代後半から、妹パトリシアの夫でハリウッド俳優のピーター・ローフォードから紹介された映画女優のマリリン・モンローとの不倫関係を持ち、就任後に至るまで不倫の関係にあったことが、ローフォードやモンローの家の家政婦のレナ・ペピートーンなどにより証言されている。
さらに大統領予備選挙前の1960年2月には、シカゴのマフィア「シカゴ・アウトフィット」のボスのサム・ジアンカーナの指示を受けたフランク・シナトラから、シナトラの元恋人のジュディス・キャンベル(英語版)(ジアンカーナの愛人でもあった)を紹介され、その後の大統領予備選挙時においてモンローと並行して不倫関係を持っていただけでなく、その後もたびたび会っていたことが明らかになっている。 ホワイトハウスでのキャンベルとの通話記録は70回を数え、2人っきりの食事が20回はあったという。
なお、モンローとの関係は、ケネディがマフィアと関係の深いシナトラを介してモンローと知り合った上に、ジアンカーナらのマフィアが2人の関係を知っており、このことをマフィアの取り締まりを強化しようとしていたケネディ政権に対する取引に使おうとしていたことを憂慮したFBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーが、司法長官を務めるロバートに強く忠告したことで終焉を迎えた。同じくキャンベルとの関係も間もなく終焉を迎えることになった。
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