床屋に行く前に朝食兼昼食を食べようと決めていたお店やさんが、思ったよりも遅い開店の10時半でした。10時だと思っていたのに!
30分何もせずに待っているのはさすがに辛いので、先に後で寄ろうと思っていた図書館へ。店へ食べに行くには少し戻る形になるが仕方がありません。
もともと借りようと思っていた本はパソコンにメモしながら読みたかったので、暇潰しのために読める本を借りなくてはいけません。最初は好きな作家のところへ行きましたが、忙しい時期だったので夢中になって読んでしまうと、家に帰ってからたいへんです。
ただ、かと言って、わけのわからない本、つまらなすぎる本は読む気になれません。これだけでかなり迷って暇をつぶせましたが、そこで選んだのが森鴎外(本来は鷗外。鷗は機種依存文字)の『
雁
』でした。
(ブログの方針として、歴史上の人物の敬称は略させていただいています)
こういった形で選ばれたとあっては、森鴎外に失礼ですし、ファンの方も不愉快でしょう。森鴎外の名誉のために言っておくと、私が過去に読んだことがあって「夢中にはならいけどそこそこ」であったわけではありません。
読んだことがなかったものの、おそらく質が低いということではないだろうというのがひとつの理由です。これは良いことですね。もう一つは昔の話のために、適度に読みづらいのではないか?という予想です。
ということで何気なく選んだ『雁』でしたが、文末の近代文学研究者である稲垣達郎さんの解説によると、"鴎外の現代小説中、もっとも小説らしい作品だといわれる"そうです。どうも私は鴎外の作品としては、例外を選んでしまったようです。
稲垣達郎さんによれば、森鴎外は他の作品で既成の小説概念を打ち破ることを試みてきたそうです。端的に言うと、それは物語と情感の排除です。
「情感」というのは、おそらくこの場合、心に訴えるしみじみとした感じでしょう。小説のカバー裏には「哀愁溢れる中編」という売り文句が書かれていました。『雁』は確かに「情感」の排除とは程遠く、むしろそれが前面に押し出された「物語」でした。他の鴎外の小説とは異なるようです。
ここらであらすじも入れておきますかね。前半は
アマゾン
、後半が
Wikipediaです。私の感想もそうですが、当然ながらネタバレがあります。
内容紹介
貧窮のうちに無邪気に育ったお玉は、結婚に失敗して自殺をはかるが果さず、高利貸しの末造に望まれてその妾になる。女中と二人暮しのお玉は大学生の岡田を知り、しだいに思慕の情をつのらせるが、偶然の重なりから二人は結ばれずに終る……。極めて市井的な一女性の自我の目ざめとその挫折を岡田の友人である「僕」の回想形式をとり、一種のくすんだ哀愁味の中に描く名作である。
あらすじ
1880年(明治13年)高利貸しの妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱くも、結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。女性のはかない心理描写を描いた作品である。ただしそれを、岡田の友人が語り手となって書いており、かれらがその当時は知りえないような、お玉と夫との諍いなども描かれている。これは、語り手がその後お玉と知る機会を得て、状況を合わせ鏡のように知ったのだと、語り手の「僕」は作中で弁解している。
さて、「小説らしい小説」と表現した稲垣達郎さんですが、それでもやはり『雁』は既存の小説スタイルへの冒険であるとしていました。
私も一度章ごとに分類しようかな?と思っていましたが、やはり特徴的らしく解説でも言及されていました。それによると、序章にあたる一、終章にあたる二十二から二十四以外は、「僕」が枠割を放棄し、視点が混乱しているとのとこです。「僕」が語る形式にしているものの、途中部分はそういった要素はあまり感じさせず、様々な登場人物視点になっていると言って良いです。
なお、『雁』は"文芸雑誌『スバル』にて、1911年から1913年にかけて連載された"などとWikipediaでは説明されていましたが、実際には『スバル』の廃刊などもあって1年10ヶ月の中絶した期間があるそうです。また、他の連載を考えると、相当に断続的だといえるようです。
先の視点の混乱はそれによる部分もあるのかな?と思わせますが、稲垣さんはそう評価していません。視点の混乱があっても円滑であり、執筆の断絶があっても目立つ弛緩を見せず文学的持続性を持っているとしていました。どうもこの文学的持続性というのも、鴎外の特徴であるようです。
しかし、私は違和感を覚えた部分がありました。ですので、1年10ヶ月の中絶の後に二十二から二十四の三章を書き下ろして完結…という説明を見て、「ああ、やはり」という風に感じました。
あまりネガティブなこと書きたくないのですが、先ほどの「僕」視点の復活した終章とも言える二十二から二十四には、少し首を傾げました。残りのページ数からすると終わりが近いのはわかったものの、やや唐突な感じ、先を急いだ感じがありました。
最後に飽くまで「僕」視点にし、「妾・お玉」の気持ちを敢えて描写しなかったというのはわかります。その後お玉がどうなったのかを描かなかったことを加えて謎を残し、読者の想像に任せるといった形には、先ほど出た「情感」の表現という意味でも正しい選択だったと思います。
ただ、駆け足感が出てしまったために、余韻が弱かった気がします。尻切れトンボな印象を与え、十分に「情感」を味わえないような物足りなさを感じました。ここに至るまでの文章からすれば、もっと丁寧にできたのでは?というのがあったのです。
そのせいでさっきも書いたように、中断があったこと、最後が書き下ろしであったことを聞いて、「ああ、なるほど」と腑に落ちる思いがしました。
あと、「ネガティブなこと書きたくない」と言いつつもう一つ。"適度に読みづらい"本をという当初の目的と合致したのですが、この時期の小説にはやたらと外国語が出てきて読みづらいです。
『雁』の場合の外国はドイツ語です。作中の岡田もドイツ語が得意でドイツに留学するという話が出てきましたが、鴎外もドイツ留学していて、その上医者ですから、ドイツ語に親しいです。そのせいで出てくる外国語がドイツ語なのでしょう。
私は個人的に難しい言葉を使いたがったり、難しい漢字を使いたがったり、外国語を使いたがったり…というのが好かないんですよね。必然性のないこういった言葉の頻出には、顔をしかめてしまいます。
ただ、考えてみるとこれが日本の故事だったり、中国の故事だったりとなると、そんなことはないかもという気がしてきました。そういった故事の精通、知識の広さがたしなみとしてあるように、この場合も外国語の表現を入り混ぜるというたしなみがあるのかもしれません。
…うーん、でも、それが自己満足な感じで、高慢ちきで鼻につくんですよね。ここらへんは程度問題かも。目につかないように、さり気なくすっと入れると感心して、あからさまにやると嫌味に…といった具合。
悪い話はこれくらい。とは言っても、もうすぐ終わっちゃうのですが、再び稲垣達郎さんの解説から少し引用します。
『雁』はいくつもの偶然が出てきて、その偶然の重なりが登場人物の運命を決めます。これは私の非常に好むところでした。
ところが、稲垣さんによれば、高級小説学においてはこういった「偶然」を軽蔑するそうです。「偶然」は通俗小説における安易な技法であるか、古風小説における素朴な技法でしかないとされていたようです。森鴎外はその中で敢えて「偶然」を『雁』の中心に据えました。
この「偶然」の重用は、先の「視点の混乱」とともに「小説常識への逆説」であったようです。『雁』は森鴎外の例外とも言える最も小説らしい小説でありながら、やはり森鴎外らしい新たな小説への挑戦が多分に現れた作品と言えそうです。
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