2014/8/20:
●陸軍幹部・瀬島龍三氏、シベリア抑留で強制労働
●中曽根政権で活躍も密約説で他の抑留者から非難
●瀬島龍三氏には共産主義者・ソ連のスパイ疑惑も
●瀬島龍三氏が密約を結んだ…はデマか?
●シベリア抑留に日本の密約はあった?賠償としての捕虜提供の用意
●婦女子を大量殺人…日本人はソ連軍以外にも多数殺されていた
●陸軍幹部・瀬島龍三氏、シベリア抑留で強制労働
2014/8/20:シベリア抑留犠牲者たちの話…なのですが、その前に瀬島龍三さんの話を。
Wikipediaによると、伊藤忠商事会長なのですが、それは戦後のこと。
戦前は?と言うと、陸軍軍人で陸軍士官学校第44期次席、陸軍大学校第51期首席。大本営作戦参謀などを歴任しました。このときに捕虜となり、シベリア抑留を経験しているのです。
瀬島さんはソ連のシベリアへ11年間抑留されました。このとき本来捕虜としての労働の義務のない将校であるにもかかわらず強制労働を強いられ、建築作業に従事させられています。後にこのときのことを諧謔(かいぎゃく、冗談)として「佐官が左官になった」と述懐していました。
また、シベリア抑留について、「日本の軍人や民間人の帰国を規定したポツダム宣言(9条)違反であり、日ソ中立条約を破っての対日参戦とともに、スターリンの犯罪であった」とも述べています。
●中曽根政権で活躍も密約説で他の抑留者から非難
今回ベースとする
遠くシベリアの地に眠る国家に見捨てられたひとびとの墓(橘玲×ZAi ONLINE海外投資の歩き方 | ザイオンライン 2013年8月8)によると、瀬島龍三さんは戦後賠償や自衛隊への航空機納入などさまざまなビジネスで辣腕をふるいました。さらに"中曽根政権で第二臨時行政調査会の委員として国鉄や電電公社の民営化に尽力"したそうです。
しかし、"瀬島に対しては、抑留者のあいだで毀誉褒貶が半ばしている"ともあります。敗戦時、関東軍の参謀として、参謀長秦彦三郎とともにワシレフスキー元帥との「停戦交渉」に臨んだのですが、このとき日本兵の抑留と使役に同意したのではないかという“密約説”を一部の抑留者が唱えたためです。
(保坂正康『
瀬島龍三―参謀の昭和史
』(文春文庫)、共同通信社会部編『
沈黙のファイル 「瀬島龍三」とは何だったのか
』(新潮文庫)が参考文献だとのこと)
●瀬島龍三氏には共産主義者・ソ連のスパイ疑惑も
Wikipediaでは、次のような記載もありました。
<ソ連工作員疑惑>
・1954年のラストボロフ事件において、ソビエト連邦代表部二等書記官だったユーリー・ラストヴォロフが、亡命先のアメリカにおいて、瀬島を含む11人に「厳格にチェックされた共産主義者の軍人を教育した」「これらの人物は共産主義革命のため、モンゴルのウランバートルに存在した第7006俘虜所において特殊工作員として訓練された」と証言した(ほかには朝枝繁春、志位正二、種村佐孝、平沢道則などの名前が挙げられた)。このラストヴォロフの証言はアメリカやイギリスなどでも報道され、日本でもこの事件以降、瀬島をかくれ共産主義者で、ソ連工作員とみなす論がある(共同通信社社会部「沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか 」新潮社、中川八洋 『亡国の「東アジア共同体」』など)。
・また、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコは「シベリア抑留中の瀬島龍三が日本人抑留者を前にして『天皇制打倒!日本共産党万歳!』と拳を突き上げながら絶叫していた」 と証言し、「瀬島氏はソ連のスパイではないのか」との問いには「それはトップシークレット」とのみ回答している。
・國民新聞社の山田惠久は1979年10月にレフチェンコ事件に関する記事によれば、レフチェンコはコード名「クラスノフ」の瀬島龍三と直接コンタクトを取ったことはないとしながらも、ソ連の対日工作責任者であったイワン・コワレンコと瀬島が深い仲だと証言 なお、ワールド・インテリジェンス誌の黒井文太郎は、コードネーム「クラスノフ」はKGB正式エージェントであるとしている。
●瀬島龍三氏が密約を結んだ…はデマか?
ザイオンラインでの停戦交渉に関しても、"ソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)らにより主張された"とWikipediaにはありました。
ただ、この停戦交渉に関しては誤解のようです。以下はザイ・オンラインから。
誤解は、日本側がワシレフスキー元帥との会見を一貫して「停戦交渉」と記したことから生じている。たしかに「交渉」であれば、双方が意見を述べ合い妥協や合意に至ることになる。
だがソ連側からすれば、無条件降伏した日本軍にはそもそも交渉の余地はない。ワシレフスキー元帥は日本側に「命令」しただけであり、それに対して秦参謀長がいくつかの要望(お願い)を伝えたのが実態だった。“密約”も同じことで、相手が約束する以上、なんらかの対価を差し出さなければならない。だがソ連は一方的に好きなものを奪うことができたのだから、そもそも約束の必要すらないのだ。
シベリア抑留の正式決定は8月23日にスターリンが署名した「50万人の日本軍軍事捕虜の受け入れ、配置、労働使役について」と題された国家防衛委員会決定No.9898(極秘)によるが、それ以前から日本への宣戦布告と日本人捕虜の抑留が既定の事実だったことはさまざまな証言から明らかになっている。たとえば、日本人捕虜への民主化教育(共産主義の洗脳)を担当したイワン・コワレンコ(元共産党中央委員会国際部副部長)が「日本新聞」(日本人捕虜の宣伝工作のために発行され、収容所内で閲覧された日本語新聞)の編集長を命じられたのは7月末で、まだ日本とソ連とのあいだに戦争は始まっていなかった。
Wikipediaでも"瀬島は、停戦協定の際の極東ソ連軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーと関東軍総参謀長秦彦三郎にはこのような密約を結ぶ権限がなかった"という反論を載せています。さらに"またロシア側資料からそのような密約を証明できる証拠はペレストロイカの情報開示後も全く発見されてはいない"ともありました。
ということで、瀬島龍三さんらの日本兵の抑留と使役の同意という“密約説”は、濡れ衣でした。
●シベリア抑留に日本の密約はあった?賠償としての捕虜提供の用意
しかし、瀬島龍三さんよりもっと上部、日本側全体として、「日本兵の抑留と使役」に同意する気など微塵もなかったか?と言うと、そういうわけではなかったという証拠があるようなのです。
戦況が悪化した昭和20(1945)年6月から、日本政府は中立条約を結んでいるソ連の仲介でアメリカとの戦争終結を模索しはじめる。鈴木貫太郎首相らは、天皇側近であった近衛文麿元首相を特使としてソ連に派遣し、ソ連首脳と終戦交渉の条件を決め、天皇の裁可を仰ごうとした。
だが敗戦必至の状況で、対等の交渉は望むべくもない。そこでソ連に対する譲歩案として、『対ソ和平交渉の要綱(案)』が極秘裏につくられた。
外務省の『終戦史録』にも掲載されている要綱(案)の第3項「陸海軍軍備」ロの項は、次のように書かれている。
「海外にある軍隊は現地に於て復員し、内地に帰還せしむることに努むるも、止むを得ざれば、当分その若干を現地に残留せしむことに同意す」
さらには第4項「賠償及其他」のイ項は次のように書く。
「賠償として一部の労力を提供することには同意す」
敗戦間際の日本政府は、“国体護持”と引き換えに日本兵をスターリンの奴隷にすることになんの躊躇もなかった。
(引用者注::"国体(こくたい)とは、その国の基礎的な政治の原則を指し、日本語の文脈で使用される際、通常は「天皇を中心とした秩序(政体)」を意味する語となっている。"
Wikipedia)
空気感としては、捕虜としての提供やむなしといった感じだったようです。ひょっとしたらこれには異論があるのではないかな?とWikipediaの
シベリア抑留を読んでみたものの、記載自体がありませんでした。
●婦女子を大量殺人…日本人はソ連軍以外にも多数殺されていた
話が変わるものの、シベリア抑留の実態について。日本軍に対して無条件降伏を求めたポツダム宣言第9項には、「日本軍は武装解除された後、各自の家庭に帰り平和・生産的に生活出来る」とあります。
しかし、ソ連での日本兵の扱いは極めて悪いものでした。シベリア抑留の犠牲者は5万5000人とされているが、『スターリンの捕虜たち』でヴィクトル・カルポフは、新たに公開された公文書をもとに、ソ連領外の満州、北朝鮮、遼東半島の収容所を加えれば死者の総数は9万2000人を超えると述べています。
また、捕虜にならずに死を選んだ日本人もたくさんいたといいます。これについては、日本軍の撤退で起きた悲惨な出来事はすでに多くの手記や回顧録で語られているとのこと。記事では、ソ連崩壊後に公開された赤軍の報告書から、以下のような話を引用していました。
日本軍が退却の際、大量に日本人婦女子を射殺した例をいくつも赤軍司令部はあげている。鶏寧-林口への道で、銃で撃たれ刀で斬られた日本人婦女子の集団がいくつか発見された。その最初の集団はオクシ市の南10キロの鉄道用地で発見され、自動車の中に250人いた。彼らは自動火器で射殺されていたが、一部の者は刀で腹を斬られていた。日本人に銃刀で殺された150人からなる第二の集団が適道駅付近で発見された。このようにして殺された日本人婦女子はすべて顔に白い布がかけられ、頭を東に向けられていた。
(中略)
捕虜になった日本人は、この殺人は日本人が無条件降伏を受け入れる前に行われたとソ連兵に説明した。軍事捕虜が言うには、ソ連軍の急速な侵攻が婦女子大量殺人の理由である。結果的に、避難する日本人住民は関東軍の退却路で停滞した。関東軍は避難民を保護することも、円丘(小山)へ連れて行くこともできなかった。捕虜が言うには、婦女子の射殺は本人の同意の下に行われていた。ともかく日本人にとって、それが誰であれ、捕虜になることは恥なのだ。(ヴィクトル・カルポフ『ソ連機密資料が語る全容 スターリンの捕虜たち』〈北海道新聞社〉)
目を背けたくなる話で「北海道新聞社なんて左翼の出版物が信じられるか」というメールが来そうですが、ソ連時代にそういう報告書があったそうです。前述の通り、多くの手記があるとのことで、そちらにも同様のことが書かれているのかもしれません。
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