評価が高い人物であるものの、国民的な人気はイマイチな大村益次郎さん。人間とは思えないほど、頭とおでこが大きすぎる肖像画がインパクトあるので、そちらなら覚えある人も多いでしょう。
この肖像画は当時写真がなくて、弟子が記憶で書いたものがベース。なので、ご本人とは全然違う…という説明なら納得なのですけど、実を言うと、彼を知る人たちには似てる!と大評判だったそうです。マジでこんな頭だったの!?と驚きますわ。(2018/02/05)
●大村益次郎の肖像画、写真がなくて記憶で書いたもの
2018/02/05:大村益次郎は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者。明治政府では近代軍隊の創設に力を注いだ方で、「軍事の天才」と言われる評価の高い人物。維新の十傑の一人に数えられています。ただ、一般人からの人気はイマイチな印象です。
で、そんな人でも前掲の肖像画は見覚えがあるでしょう。インパクトありすぎです。朝日新聞によると、肖像画の作者は、イタリア人の銅版画家エドアルド・キヨッソーネ。明治政府の招きで来日し、大蔵省紙幣寮(現在の国立印刷局)で紙幣や印紙、郵便切手などの原版を製作した方。ただ、絵の才能もあったようで、明治天皇や西郷隆盛、大久保利通らの肖像画も手がけたといいます。
昭和19(1944)年に刊行された「大村益次郎」には、肖像画作製の経緯が書かれています。明治2年に大村が暗殺されてしばらく経ってから、その功績をたたえようと、銅像を建てる話が持ち上がったそうです。ところが、生前の大村を収めた写真が見当たりませんでした。
そこで、大村の弟子が記憶に基づき描いた肖像のスケッチをキヨッソーネが手直し。できあがったのが、前掲の頭がでかすぎてあり得ない感じの肖像画でした。
●頭とおでこが大きすぎる肖像画、当時の評判は?
記憶頼りということで、「だから実物とぜんぜん違うんだ。こんな頭の人あり得ないよね?」となるとわかりやすかったのですけど、現実はそうではありませんでした。
キヨッソーネが修正したものを見た当時の人々は「非常によく似てゐるばかりか、先生の精神をもあらはしてゐる」と称賛。その後、大村によく似たと伝えられた肖像画や写真が現れたが疑わしいものばかりで、キヨッソーネの肖像画が決定版になってしまいました。
また、水戸藩士だった鈴木大は、「人となり、短軀黎面(たんくれいめん)にして、大頭・広額・長眼・大耳・鼻梁高く、双眉濃(こまや)かに、髻(もとどり)を頭頂に戴(いただ)き」としています。「大頭・広額」であったことは間違いないようです。
(
大村益次郎の「広すぎる」おでこ肖像画、描かれた経緯は:朝日新聞デジタル 成沢解語 2018年1月7日15時18分より)
ちなみにこの鈴木大さんは、
デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、「すずきはじめ」と読みます。会沢正志斎の門弟で本姓は森山。幕末の事件外国関係について丹念に記録し、自分の名前にかこつけた「鈴木大(だい)雑集」というものにまとめました。前述の話もそこからかもしれません。
また、修史館に勤務していました。修史館というのは、明治国家の正統性と権威を確立する立場から歴史編纂していたところ。要するに歴史の捏造なんですけど、そういう仕事をしていたそうです。
●砲台建設を酷評していた大村益次郎
ちょっと短いので、
大村益次郎 - Wikipediaからおもしろいところを。
舞鶴藩士・伊藤雋吉(のち海軍中将)が台場(海防の目的で要害の地につくった砲台)建設の命を受けて大村に相談したことがあります。近代軍隊の創設に力を注いだ人物ということで、「外国と戦うために設備増強を」と協力したのかと思いきや、大村は「小藩では台場を作っても役に立たぬ。絵に描いた餅すなわち画餅だ」と述べ全否定。
ついでに江川英龍が作った江戸湾の台場の欠点を挙げて、「あれはタクチック(戦術)だけでストラトギイ(戦略)ということを知らぬ人がこしらえたので、江川先生がこしらえたのはタクチックである。あれはすなわち画餅である。」と酷評したそうです。
戦術とは、戦略に基づく個々の具体的な場面における判断や闘争の技術のことを言います。国の防衛というものは、もっと広い視点で考えろってことなんでしょうね。
●好戦的で攻撃的…とは真逆の主張
また、他にも意外なエピソードがあります。長州戦争では「我が兵を損じざるようにいたし」と、あえて自分から攻撃を仕掛けることをせずに、幕府軍の使役に住民が離反して「内輪瓦解いたし候は必然」と相手の自滅を待つという戦略を持っていました。
さらに、彰義隊を夜間に奇襲する意見を討議した際にも、大村は夜襲に反対。理由の一つとして、夜襲の混乱で敵が火をつけて市内を混乱に陥る事態を避けたもののようです。加えて、作戦計画も「上野山中を戦闘の場所として敵を食い止める。そうしたならば市民に迷惑をかけまい」として、もしそれに失敗しても神田川を境として戦闘区域とするなど、一般市民への被害を最小限度に抑えるよう計算していたとのこと。
以上のように、好戦的で戦争大好き、崇高な目的のためには犠牲を払ってでも…って感じの人ではなかったようです。靖国神社に像がある人なんですけど、その後の政府の戦略や戦術はきっと彼にダメ出しされるような内容だったでしょうね。
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