産経が朝刊一面で堂々と歴史捏造! これ朝日の吉田証言なみのスキャンダルだぞ、これ。 pic.twitter.com/L9MmfgkUNA
— 山本弘 (@hirorin0015) 2015, 2月 14
【歴史戦第9部 南京攻略戦 兵士たちの証言(1)】「城内空っぽ。誰もいなかった」「虐殺あるはずない…」(1/7ページ) - 産経ニュース 2015.2.15 15:12
「城内は空っぽでした。兵隊どころか、住民も、誰もおらんでした」
南京攻略戦に参加し、昭和12年12月13日の陥落後に南京城に中華門から入城した元陸軍第6師団歩兵第47連隊の獣医務曹長、城光宣(じょうこうせん)(98)=熊本県山鹿市=の目の前には、無人の市街地が広がっていた。
少し前まで、門をめぐって日中両軍の激しい攻防戦が繰り広げられていたが、壊滅状態になった中国軍兵士が城外へ一斉に逃げ、城内は一転して静寂に包まれていた。(中略)
南京城の広さは約40平方キロメートル、JR山手線が囲む面積の3分の2程度だ。城内には、れんが造りの平屋の民家が多かったが、どれも無人だった。住民らは城内に非武装中立地帯として設けられた「安全区」に逃げ込んでいた。
「無抵抗の民間人を殺すのが虐殺。だが、人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」と城は断言する。(中略)
「城内では遺体も見とらんです」
上海から南京に進軍する途中では、中国人の遺体を目撃している。塹壕(ざんごう)で何十人の中国兵が死んでいることもあった。
「そりゃ、敵と交戦しながら進むけん。こっちもあっちにも遺体はありましたが、女や子供、年寄りの遺体は見たことはなかです」
(中略)夜間に敵と交戦した後、同じ連隊の兵士が「多くの敵を斬った」と話しているのを聞いたこともあった。1週間ほど滞在した南京でも何かあれば仲間内で当然耳に入るはずだが、虐殺は一切聞いていない。
産経が1面トップで「歴史戦兵士たちの証言」をスタート。南京陥落後に入場した兵士の生存者(98)に「虐殺を見ていない」と語らせている。3方から入場した日本軍で虐殺を見たのは北と真ん中。南から入った兵隊は確かに見ていない。案の上この生存者は南から。産経報道は「歴史捏造」に等しいよね。
— 柳原滋雄 (@yanagihara1965) 2015, 2月 14
@yanagihara1965 南京城に入る門が幾つもあって、南方から入った日本軍が虐殺に接してないことは関係者の間では常識的な事柄。産経は意図的に南門から入った兵隊にだけ「都合のいい事実」を語らせている。「報道機関」なら北門から入った生存者にも聞かないと、フェアじゃないでしょ。
— 柳原滋雄 (@yanagihara1965) 2015, 2月 14
谷寿夫 - Wikipedia 最終更新 2015年2月12日 (木) 07:26
南京軍事法廷(裁判長石美瑜)と谷寿夫元第6師団長
(中略)
・谷寿夫元第6師団長の弁明
「(一)(谷の)部隊は入城後、中華門一帯に駐屯し、十二月二十一日にすべて蕪湖に移動した。当時中華門一帯は激戦によって住民はすべて避難しており、虐殺の対象となるような者はいなかった。そのうえ被害者はみな、日本軍の部隊番号を指摘できていない。ゆえに虐殺事件は中島・末松およびその他の部隊が責任を負っているのである。犯罪行為調査表にも「中島」の字句が多く載せられているのは、被告と関係がないことを示している。
( 二 ) (谷の)所属部隊は軍規厳正でいまだ一人も殺害していないことを保証できる」。(中略)「被告所属の参謀長下野一霍・旅団長坂井徳太郎・柳川部隊参謀長田辺盛武・高級参謀藤本鉄熊などの召喚訊問を要請したい。そうすれば明瞭となろう。
( 三 ) 本事件の証拠はすべて偽造であり、罪を論ずる根拠となすには不十分である」
南京軍事法廷は判決文で、南京事件で発生したすべての結果は、松井・中島・牛島・末松・柳川の各軍事指導者、すなわち軍司令官と師団長が共同で責任を負うべきだとした。谷が証人として出廷許可を求めた下野一霍参謀長らも共犯容疑者とした。
だが実際には、生存していた牛島貞雄師団長、および下野一霍参謀長らは、南京軍事法廷へ訴追されなかった。
第16師団長中島今朝吾中将の上官であり、南京事件の原因をつくった疑いのある朝香宮鳩彦王中将は、南京軍事法廷でも全く名前が上がらず、不問とされた。その理由は、GHQは皇族の訴追をおこなわない方針だったからであったという。
南京事件の責任を負うべき谷の直接の上官、第10軍司令官柳川平助(騎兵科)中将と、南京事件を引き起こした者だと谷が主張した第16師団長中島今朝吾(砲兵科)中将は、ともに1945年死去していた。(中略)
一説に、師団長のうち谷だけが生存していたから南京事件の責任を一手に負わされたのだ、というものがある。だが南京軍事法廷で南京事件の共同責任者、および関与者とされた第18師団長牛島貞雄と第114師団長末松茂治も生存していたにもかかわらず訴追されなかった。
結局、誰を訴追するかは、日本本土で逮捕権のあったGHQの、訴追可能の決定によるものであったと考えられる。
・谷寿夫元第6師団長の弁明
「(一)(中略)虐殺事件は中島・末松およびその他の部隊が責任を負っているのである。(中略)」
谷は、南京事件は、(一)のように、中島今朝吾 師団長の部隊が起こしたものだとし、第6師団の関与を否定した。但し、谷は南京事件があったことそのものは否定しなかった。
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