戦時中は、竹鶴家のラジオのアンテナが暗号発信器ではないかと特高警察に調べられたりもしたそうな。当時のリタは本当に肩身の狭い思いをしたんじゃろうなぁ。わしは悲しいぞい。 #マッサン #リタ pic.twitter.com/UfxTQ7nclC
— ニッカウヰスキー【公式】 (@nikka_jp) 2015, 2月 19
#マッサン リタのスパイ容疑は終戦の日まで続き軟禁生活は続く。ニッカの中庭では軍人による国防婦人会の竹槍訓練が行われた。主婦達の態度にリタは「私は日本人なのに」と人間不信をに苦しむ。家の前でゴルフアプローチをして気を紛らせる事もあった pic.twitter.com/l87e796c6q
— VOYJER (@VOYJER_456476) 2015, 2月 14
@tanu3283 @mimi_laboheme さんへ 資料の「リタの鐘が鳴る」「竹鶴とリタの夢」竹鶴孝太郎「竹鶴威の回想録」を根拠としています
— VOYJER (@VOYJER_456476) 2015, 2月 15
「マッサン」の孫、NHK朝ドラの英断を語る | Books Review | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト 塚田 紀史 :東洋経済 記者 2014年11月23日
実際の祖母リタはもっとマイペースだったらしい。そうでなければ、やっていけなかったのだろう。
──戦中も帰国しませんでした。
外国人は出身国に引き揚げるのが当たり前だったが、このまま残ると。自宅にいただけでほとんど外には出られない。手紙は出せないし、逆にもらえもしない。隔離状態で、本を読むとか音楽を聞く、服を自分で仕立てるぐらいしかできなかった。ラジオを聞いていてもスパイ行為をしているのではないかといわれたらしい。祖父はどこかで何とか英語の本を見つけ一言メッセージを入れ、彼女に渡していたようだ。
──一緒だった8歳までで特に印象に残っていることは。
子供好きなリタは「コータロー!コータロー!」と初孫の私をかわいがってくれた。上背が167~168センチメートルで細身。自分の部屋から出るときは自宅でも基本的に正装していて、化粧しアクセサリーを着けていた。(中略)母についても洋服姿しか見たことはない。
来日した当初は浴衣や着物を着たことがあったようだ。これは想像だが、最初は日本人になり切ろうとしてそういう服装をしたのではないか。でも目が緑色で髪の毛が茶色だったから、逆に目立つだけ。どこかで割り切ったのではないかと思う。着物姿の写真は残っていない。
会社の人は怖かったかもしれないが、孫にはそういう記憶はない。60歳を過ぎて生まれた孫で、15歳まで一緒に住み、会社も安定していた時期だったから本人にも余裕がある。味覚や臭覚には天才的なものはない。すべて経験の積み重ねだと語ったりして、食べ物やものの考え方をぽつりぽつりと話してくれる楽しいおじいちゃんという感じだった。
祖父も、父にしても会社を継げとは1回も私に言わなかった。放任だったといっていい。私が大学を出たとき、当時の社長に勧められてニッカウヰスキーに入社したが、私自身に継がなければという意識はなく、ほぼ20年在籍した後、わが道を探すということで個人の会社を作り転身した。
家で食べている物が普通の日本人とはずいぶん違うことが、結婚してからわかった。家でローストビーフを普通に食べている家庭はなかなかない。朝食はスクランブルエッグかハムエッグ、自家製のジャムにトースト、飲み物はミルクティーだと言ったら、英国人に一緒だと言われたことがある。スコットランド仕込みは気がつかないところにあるのかもしれない。
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