2019/03/25:
●昔は強いと思われなかった白鵬、モンゴル人で唯一部屋が決まらず
●お情けで入門 後の横綱としては異例の負け越しスタートで弱かった
●白鵬の師匠たちが弱すぎる…親方の条件はどうなってるの?
●横暴で威張ってるから弱い師匠は白鵬に何も言えない?
●白鵬と師匠の不思議な関係「いっぺんやってみたら」と軽い指導
2022/05/18追記:
●横綱・鶴竜も最初不合格 アマチュア実績皆無で体も小さかった 【NEW】
●昔は強いと思われなかった白鵬、モンゴル人で唯一部屋が決まらず
2019/03/25:白鵬は、身長192cm、体重158kg。力士の平均体重は160kg台だそうですが、平均身長は180cm台であり、白鵬は相撲取りの中でも大柄の部類。少なくとも小柄ではありません。ただ、中学校を卒業した頃はむしろ小柄であったんだそうな。しかも、相撲のプロから見ても、将来性がないと思われるほどだったといいます。意外ですね。
白鵬の父親はモンゴル相撲で5年連続6度の優勝をし、レスリングで銀メダルをとりモンゴル初の五輪メダリストとなった英雄。ただ、白鵬はモンゴル相撲の経験は遊び程度で、バスケットボールに夢中。その後、兄が柔道の教師になったものの、「柔道はイヤだ。どうしても相撲をやりたい」と今度は日本の相撲にご執心でした。
中学を卒業すると、大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。共に来日したモンゴルの仲間が次々と入門が決まるなか、小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後までなかったといいます。
当時日本語が分からなかったためか白鵬は、英語で"I don't want to go back..."と言って泣いたそうです。今の悪役的なイメージとは全然違いますね。(
白鵬翔 - Wikipediaより)
●お情けで入門 後の横綱としては異例の負け越しスタートで弱かった
もちろんここで終わると、今の白鵬はありません。失意の帰国前日12月24日になって、彼を哀れんだ旭鷲山が自らの師匠の大島(元大関・旭國)と会食中に相談。大島が友人であった宮城野(元幕内・竹葉山)に受け入れを申し入れて、やっと入門が決まります。お情けでの入門だったわけです。
父親の実績を知っていればまた違ったのかもしれませんが、このような経緯のため宮城野親方はそこらへんの話も知らなかった模様。その小柄な体から大きな期待はしていなかったといいます。実際、最初に番付に載ったときは3勝4敗の成績で、後の横綱としては異例である、序ノ口での負け越しを経験しています。
(2022/05/18追記:なお、白鵬の戦績を見ると、その後も苦戦しており、よくある傑出した力士のようなスピード出世はしていません。さらに幕内まで出世してもまださほど目立たず。にも関わらず、最終的には最高クラスの勝率だったことは、横綱になってから尋常ではない勝率であったことがわかります)
だからこそ将来性のなさそうな子でも引き受けてもらえた…ということかもしれませんけど、当時の宮城野部屋は文字通りの弱小部屋だったといいます。ただ、弱小部屋だったために厳しいしきたりも少なかったというのは長所。育ちの良い白鵬には伸び伸びとやれる環境で結果的に良かったのだとされています。
こうした経緯から宮城野が元十両の金親に代替わりしたのちも、熊ヶ谷を襲名して宮城野部屋付きとなった先代宮城野の指導を内弟子として受けたとされていました。なお、熊ヶ谷になった宮城野さんは、後に再度宮城野を襲名して名実ともに白鵬の師匠に復帰しています。ここらへんはややこしいです。
●白鵬の師匠たちが弱すぎる…親方の条件はどうなってるの?
私がこれらの話を知ったのは、師匠の宮城野さんの白鵬に関する話し方を聞いて気になって検索したためでした。師匠なのに、なんか他人事というか、指導はあまりしていない感じの話し方で、白鵬がどういう考えで相撲を取っているのかよく知らない感じでした。
師匠の宮城野さんは、現役時代は竹葉山という名前。最高位は東前頭13枚目と強くありませんでした。引退後は年寄・中川を襲名していたものの、すぐに師匠である9代宮城野親方(元・廣川)が急逝したため、急遽10代宮城野を襲名して宮城野部屋を継承したという経緯です。また、一時的に名義上の師匠であった11代宮城野(金親)の最高位はさらに低く、東十両2枚目でした。(
竹葉山真邦 - Wikipediaより)
これだけ弱くても親方になれるの?と不思議だったのですけど、
年寄名跡 - Wikipediaによると、以下のような条件であり、問題ない模様。金親の場合は、最後の最後にある例外規定であり、史上初の適用だったそうです。
1.相撲部屋を新設して師匠になるための条件。以下の条件のいずれかを満たすことが必要。
1.横綱もしくは大関経験者
2.三役(関脇・小結)通算25場所以上
3.幕内通算60場所以上(番付制限なし)
2.一般的な襲名の条件。新規部屋の師匠としての独立は認められない。以下の条件のいずれかを満たすことが必要。
1.最高位が小結以上
2.幕内在位通算20場所以上
3.十両以上(関取)在位を通算30場所以上
(関取在位通算28場所以上なら、名跡の前保有者と師匠、保証人の親方の願書があれば、理事会でその是非を決定する)
3.既存の相撲部屋継承者として承認された場合には、次のいずれかの条件に緩和される。
1.幕内在位通算12場所以上
2.十両以上(関取)在位を通算20場所以上、番付制限なし
●横暴で威張ってるから弱い師匠は白鵬に何も言えない?
先程の白鵬の指導の話。ここらへんの現役時代の弱さもあって、史上最強クラスで強い白鵬に対して強いことが言えないのかな?と思ったのですけど、前述の通り、当初からゆるいところがあったとわかりました。白鵬嫌いの人は、気性の荒い白鵬が怖くて何も言えないのだと言っていたものの、どうやらそうではなさそうです。
ただし、完全な放任主義ということでもなさげ。入門当初は、小柄で期待できないと思いつつも、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、特別な指導をしていました。入門してからの2か月間は稽古をさせず、食べることに専念させて体を大きくするという方針を取ったそうです。
また、白鵬が幕下時代に朝帰りをし、土下座し謝り許しを得ようとしたときには、激怒した師匠が破門を切り出したことがあったそうな。このときに部屋付きの親方衆や兄弟子たちが師匠を諫めていなかったら、白鵬は引退に追い込まれ、後の横綱・白鵬は出現しなかったとも言われているとのことでした。
●白鵬と師匠の不思議な関係「いっぺんやってみたら」と軽い指導
上記の話までで最初終わっていたものの、長いWikipediaのページから師匠が絡む話を全部探してみることに。すると、すでに横綱となっていた2017年に、宮城野さんから「いっぺんやってみたら」とこれまで主義として行わなかった筋力トレーニングによる強化を提案されやってみた…という話も出てきました。これは一応指導ですけど、ゆるいというか軽いですね。白鵬は筋トレを激しくやり、「死ぬかと思った。こんなにきついのは大関に上がる時以来だった」と宮城野さんに言ったそうです。
それから、アナウンサーが熊ヶ谷親方時代の師匠のことを「白鵬の師匠の宮城野親方」と言い間違えたり、別のアナウンサーが「白鵬と同じ熊ヶ谷部屋で指導する」と言い間違えたこともあるのは、「それだけ師弟の関係が深いといえる」とWikipediaでは表現していました。
さらに、この「熊ヶ谷」時代の話もあるだろうと検索。横綱土俵入りは熊ヶ谷親方の推薦もあり、親方の入門時の師匠である元横綱・吉葉山と同じ不知火型を選択したという話が見つかりました。
師匠との関係は以上ですけど、「宮城野」の名前で検索していると、以下のようなエピソードがあったのでついでに紹介。最初の方で書いたのと同じで、悪役白鵬のイメージに合わないエピソードがまた出てきてしまいました。
"2010年1月場所後の2月4日、第68代横綱・朝青龍が度重なるトラブルに責任を取る形で、突如現役引退。一人横綱となった白鵬は、宮城野部屋の緊急記者会見で「事実ですけど信じたくない。同じモンゴル出身の目標であり、自分を引っ張ってくれる横綱だった。まだやり残した事が有るんじゃないか」と絶句。また2008年5月場所千秋楽結びの一番で、朝青龍と睨み合う事件を起こした時を聞かれた際「自分が悪かったと思う…」と声を震わせるなど、ライバルの引退表明にショックを隠せず、終始大粒の涙を拭っていた"
●横綱・鶴竜も最初不合格 アマチュア実績皆無で体も小さかった
2022/05/18追記:元関脇で15代井筒親方の
逆鉾昭廣 - Wikipediaを読んでいて、白鵬とは別のモンゴル人横綱も実はそれほど期待されていなかったようだ…というエピソードを見つけました。ちなみに逆鉾は相撲一家としても知られ、父はやはり元関脇で14代井筒親方の鶴ヶ嶺、兄は鶴嶺山(元十両)、弟は寺尾(元関脇)です。
<現役引退後は年寄・14代春日山を襲名して井筒部屋付きとなり、師匠の停年(定年)退職後は井筒に名跡変更して部屋を継承した。(中略)部屋の師匠としては、直弟子である鶴竜を横綱まで育て上げるなど手腕を発揮した。アマチュア相撲の実績もなく、選抜テストを勝ち抜いた訳でもなかった鶴竜を横綱に育て上げたことは井筒の特筆すべき功績だと言われる>
「選抜テストを勝ち抜いた訳でもなかった」とあった「選抜テスト」を検索してみたものの、よくわかりません。で、出典の
相撲巧者の情熱家 ~角界に愛された井筒親方を偲んで | VICTORYを読むと、モンゴル出身力士と言えば、選抜テストを勝ち抜いたり、日本の強豪校に相撲留学したりして部屋にスカウトされることが多いと説明がありました。
また、
鶴竜力三郎 - Wikipediaのページも見てみました。こちらでは「選抜テスト」の話はなかったものの、別の「期待されていなかった」話が出ていました。たぶんアマチュア経験すらなく、相撲を始めたのも遅かったってのもあるんでしょうね。計算してみると、入門時は16歳のようです。
<大学教授一家の裕福な家庭に生まれ、幼少時にはテニス・バスケットボールなど、当時の庶民の子弟には高嶺の花と言えるスポーツに親しむことができ、レスリングにも励んだ。親の影響で勉学にも励む優等生であった。
裕福な家庭環境から自宅でNHKの相撲中継を視聴することができたため、当時興っていたモンゴル国内における「相撲ブーム」に接して、同郷の旭鷲山などの活躍に憧れて力士を志した。花籠部屋の選考会に参加したが、一旦は不合格となった。
しかし諦めきれず、雑誌「グラフNHK」の広告で相撲愛好会(日本相撲振興会)の存在を知り、父が勤務する大学で日本語を教えていた同僚に頼んで自身の決意文を和訳してもらい、それを同振興会の会長・時田一弘宛に入門希望の手紙として送った。これを受領した時田会長は、同志の鈴木賢一と相談の上、15代井筒(関脇・逆鉾)に諮って井筒部屋に入門させ、2001年9月に来日、同年11月場所に初土俵を踏むに至った>
<井筒部屋に入門した2001年9月の時点では65kgしかなく、15代井筒は最初「床山にでもするか」と思ったという。だが3ヶ月で82キロまで増やし、新弟子検査に合格した鶴竜の笑顔を見て15代井筒は「こいつを育てなきゃ可哀想だ」と感じた>
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