「人は簡単に『忘れてはいけない』という。でもね......」外国人歴史家が体験した3.11 投稿日: 2015年03月12日 07時23分 JST 伊藤大地
■「日本人的な美徳」の嘘
――この震災を経験して、日本という国に対して、日本人に対して感じたことはありますか。
私はそういう考え方を否定する。結果としてそう言わないと説明できないものもあるだろうけど。戦国時代の日本人と今の日本人は同じ気質ですか?
――違いますね。
(中略)東北の農民の古き良き伝統みたいにトイレットペーパーをやめてお尻を縄でふきますか? 「日本人の気質」と言われるものは、その時々の社会的状況に過ぎないんです。自分の知っている過去20年間くらいのものを、都合よく気質と言っているだけ。
避難所の中で日本人がとても行儀よく、慌てず、パニック起こさず、と言われましたが、アメリカを直撃したハリケーン・カトリーナの後に運動場に集まった人たちも同じでした。被災後に多くの人たちは実は非常に秩序正しく行動するというのが災害研究の常識です。じゃあ、そういう社会規律が崩れる条件はなんだろうか。極限状態だったならば、みんな立派にしていただろうか?
実際には、盗難、略奪、いろいろあったんです。避難所の中で子供の泣き声が気になって、お年寄りが刃物を振り回したとか。私も覚えています。避難所に入ったときの、ものすごい緊張感。もう、爆発寸前の火山です。そんな、清き正しき律儀な日本人、なんて状況じゃない。ギリギリのところで規律を保っていたんです。
外国人に関して言えば、尖閣諸島と竹島問題とかが、あの時点で今の状況になっていたら、どうなったものか。実際、当時だってデマがTwitterで流布していました。仙台でも摩擦が生じたけど、爆発点に達する前に解消されて大事に至らなかったことがあった。だから、日本人の気質とか、自分にとって都合のいいものを繋いで美化しても意味がないと思います。
関東大震災 - Wikipedia 最終更新 2015年3月3日 (火) 11:52
流言による殺傷事件
震災発生後、混乱に乗じた朝鮮人による凶悪犯罪、暴動などのデマが行政機関や新聞、民衆を通して広まり、民衆、警察、軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷されるという被害が発生した。最終的に日本政府は朝鮮人犯罪を一切報道しない報道規制をおこなうまでになった。
――地域との結びつきがあれば、正しい行動をする?
そんな単純なものじゃない。仙台では留学生が小さな地元の町内会の避難所に密集したとか。中国人研修生が30人いるところで夜通し泣いてたから迷惑だと。そういうことが起こった時に対処する能力があるかどうかです。中国人研修生の場合は、避難所として指定された場所に、中国からの物資が入って、研修生たちだけで食べきれないので、近くの人たちに配った。そこで、「悪い人たち」が「良き人たち」に転換した。
腹が立ったことがあってね。たとえば、ここのマンションに住んでいるかなりの人たちはどこかに脱出していたんです。ここにいてどうするんだと。水もないし電気もない。身を寄せる親戚が外にいる人は、ほとんど離脱しました。それは悪いことじゃない。外に居場所がある人はいないほうが助かるんです。食べ物も水もないから。
残っている人は行く場所がないからとか、何らかの理由があって残ってるんですね。
外国人がそれをやると国賊、裏切り者みたいに書かれているのを見てね、それが許せなかった。日本人も同じだったよ。当たり前じゃないか。それはなんでわかるかというと、マンションの駐車場がガラ空きだったから。あと、ガスが復旧するときに、元栓を閉めてないと爆発に繋がる恐れがあったんです。だから、マンションの中を一戸一戸回って、人がいれば断って閉める。いない場合には勝手に閉めて回ったんだけど、かなりの数、いなかったから。
自分の身を守るために移動する。それは何も悪いことじゃない。今でも思い出しますね。
(PDF)3・11私たちも共に震災を乗り越えた 「外国人」県民の視点から震災後の宮城と日本の多文化共生を問う
日時 2011年12月17日 於 宮城学院女子大学
○モリス 日本を捨てて逃げ出したと報道された外国人は、日本に生活の基盤を持たない、あるいはそれが脆弱な旅行者、観光客や留学生が大部分でありました。
逆に日本に生活の基盤を置くより多くの外国人は日本に残って、地域社会の一員として災害を皆と一緒に乗り越えようとしているのです。このことが日本のメディアで一人一人については報道されてはいますが、震災直後の「みんな逃げていったんだよ」というヒステリー報道を訂正した記事は私は目にしたことはありません。
○マーティ 支援物資は多分2週間目ぐらいから入ってくるようになったんですけれども、服とか食べ物、毛布を分けたりして、その時期は私にとって外国人としてではなく、私はただ普通の町民でした。
(中略)初めて私が外国人扱いされるようになったのは、マスコミが入ってくるようになった時です。すごい数の新聞記者が来るようになって、外国人がいるということを聞くとみんな集まるんですよ。私はそれがすごく嫌でした。記者の中で、書く記事は、書く前から決まっているんですよ。若い女性の外国人が、つらいのに被災地で日本人のために頑張っているという記事を書こうと私のところに来るんですけれども、本当は私はただバケツとか運んだり、食べ物を配ったりしているだけでした。もっとすごいことしている人たちがいっぱいいるのに、何で私のところに来るかって、すごく恥ずかしいというか、いらいらまでします。
来るたびに何でここに残ったんですか、何で逃げなかったんですかと言われて、その扱いが嫌だったし、今も嫌です。私が避難所で暮らしていた頃は、私はただの被災者でした。外国人の被災者ではなく、特につらかったわけでもなく、逆に私は家はまだあるので恵まれた方だと思いますし、私よりも家を流された避難者の誰でもいいから、その人たちに注目してほしかったんです。マスコミはどうせそういうものだと私は思いました。
七ヶ浜町の町民から、なぜ帰らなかったんですかと聞かれたことは一回もないです。今もないです。残ってくれてありがとうとも言われません。「大変でしたね、家大丈夫でしたか」と言われるぐらいですけれども、特別扱いされないし、私はそれでいいんです。それが私の中での理想の日本の形だと思います
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