●政治に翻弄された菅原道真…は本当か?意外に野心家で苛烈な性格も
2023/09/17:
一部見直し
2015/4/11:菅原道真と言うと、望まない権力闘争に巻き込まれて、政治に翻弄された悲劇の詩人という印象があります。これは太宰府へ左遷されてそこで没した…というのが大きいでしょうね。悲劇的だったのは間違いなく、
菅原道真 - Wikipedia(最終更新 2015年1月27日 (火) 14:23)では、以下のように簡単に説明しています。
<菅原 道眞(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。(中略)
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ権帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。>
ただ、意外なことに菅原道真は性格に傲慢さの見えるところがあったり、政治に影響を及ぼしたいという野心が見受けられたり…といったところがあるんですよ。権力闘争に敗れて左遷され失意の内に死亡というのはやはり悲劇なのですが、道真自身にもそういったところに結びつく要素を持っていたように思います。
こう書いてしまうと、道真を批判しているようですが、そういうわけでもありません。偉人についてネガティブなことを書くといちいち反発してくる人がいて困ります。でも、そういう風に神格化せず一見悪く思える話まで含めて受け入れられた方が深い愛だと言えるでしょう。
菅原道真の場合は文字通り神様になっているわけで、まさに「神格化」されています。ただ、何でもかんでも美化せずに等身大の道真を見ると、意外に人間臭いんだなという新たな魅力が見えてくるかもしれません。神様ではない菅原道真の魅力というのも感じてほしいところです。
前置きが長くなってきました。本題です。菅原道真では、
◆山陰亭◆ ~菅原道真で遊ぼう!~という老舗ファンサイトが好きでした。こちらによると、当時はまだ政治と文学が遠くはなれていなかったと指摘されており、まずこれに驚き。
◆漢詩和歌快説講座◆詩情怨(◆山陰亭◆)では、以下のように書いています。
<今でこそ政治と文学は相反するものですが、律令制にとって文学は政治に不可欠な存在でした。古代中国では、文学は政治の良し悪しを反映し、儒教に則って国を治める政治家は同時に優れた文学者でなければならないとされており、日本でもこの路線を踏襲したからです。>
政治家=文学者の「最盛期は平安初期の嵯峨天皇の時代」だと言います。しかし、次第に紀伝道(きでんどう。日本律令制の大学寮において、主に中国史などの歴史を教えた学科)出身者の地位が低下、"やがて詩は無用の長物と見なされるように”なったいいます。
道真はこの傾向に対して、快く思っていなかった模様。実は、道真の祖父清公は政治家=文学者の最盛期の主要メンバーの一人だでした。道真は自分の血脈に関して並々ならぬこだわりとプライドがあり、"儒者と詩人が分裂して対立する構図に対し、道真は紀伝道の嫡流として両者を兼ね備えた存在であろうとし"たそうです。
"道真の一生は、政治において文学が果たす重要性を主張し続け"ました。しかし、結局、否定されてしまったというのが、道真の人生だと作者は書きます。
私はこの記述を読んでいたので、詩人・学者だった道真が望まぬ政治の世界の闘争に巻き込まれた悲劇の人…という評価はおかしいんじゃないか?と感じていたんですよ。まあ、これは作者の見解であり、本当かどうかはもう少し調べなくちゃいけないんですけどね…。
また、道真の人間臭さ、性格のわかる話もあります。
◆漢詩和歌快説講座◆博士難(◆山陰亭◆)では、以下のような話がありました。
<道真は文章博士に就任してから慎重に行動してきたと言いますが、同じ年、文章得業生であった紀長谷雄に宛てた詩(『菅家文草』02:094「詩を吟ずることを勧め、紀秀才に寄す」)を読むと、本当にそうなのかと疑問が沸いてきます。
「数年前から、知識人は公私を問わず議論を好むようになったが、基本がしっかりしていないから馬鹿としか言いようがない。それ以外の者は酒に酔って大騒ぎし、人を罵倒するばかりだ。そこでこの詩一篇を作り、詩を詠むよう君に勧める。」
(中略)さらに詩においても、口先で空論に明け暮れるか、世間に背を向けて大騒ぎするだけの知識人に対して、彼は痛烈な批判を浴びせています。「王道政治に資する詩を詠みなさい」、これが長谷雄に向けたメッセージの本質ですが、一方で他者に向けた歯に衣着せぬ言葉を聞く時、是善は息子の性格を良く見抜いていたと気づかされるのです。 >
最後の「是善は息子の性格を良く見抜いていたと気づかされるのです」というのは、父是善が「自分がこの世を去った時、我が子を守り、支える人間はいるのだろうか?」という危惧を持っていたと作者が見ているため。是善は道真とかなり性格が異なるようで、"温厚な性格でもって当代の学者や文人と交友関係を結び、穏便に事に当たる策を取"っていたそうです。
いきなり話がぶっ飛びますが、三国志の諸葛瑾(諸葛亮(諸葛孔明)の兄)・諸葛恪親子を思い出させる逸話です。私はこのダメっ子な諸葛恪が好きなんですけどね。
諸葛恪 - Wikipedia(最終更新 2015年2月18日 (水) 18:14)では、以下のような話が出てきます。
<若い頃から機知と才気に長け、その才能を発揮していた。一方で性格は父・諸葛瑾や叔父の諸葛亮とは正反対と言っても良く、思慮深いとは言えず、いい加減で、野心家であり、弁論でも他人をやりこめるのが得意であり、才能をひけらかすのが好きだった。(中略)
その才能に見合わぬ性格の問題から、諸葛瑾は常に「息子は頭が良過ぎる。家を栄えさせるのもこの子なら、潰すのもまたこの子だろう」と嘆いていた。>
道真の性格、それから、先ほど少し書いた自らの家柄に対する強烈な自負心が見える、もう一つ印象的な逸話があります。以下は、"元慶3(879)年、少壮の文章博士《もんじょうはかせ》であった道真が、授業の後、文章生《もんじょうしょう》に向けて書いた詩"の解説です。
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◆漢詩和歌快説講座◆講書之後、戯寄諸進士 ◆山陰亭◆
<ところで、学生相手に「私は猛勉強してこの職に就いたのだから、君達も頑張りなさい」と励ますのは良いのですが、紀伝道を菅原家の「家風」「祖業」と言い、その仕事を「疇官(代々世襲する官職)」と言い切ってしまって良いのでしょうか? 相手は学問で身を立てようとする中下級官吏の子息達です。父祖が紀伝道出身でなくても不思議ではありませんし、繰り返し受験するうちに30代・40代に達することさえあります(「絶句十首、諸進士の及第を賀す(1) 」を参照)。この文章生の中には紀長谷雄《きのはせお》もいますが、彼の祖父は医者、父は法律関係の役人で、年齢は道真と同じ35歳でした。
学者の家系として、菅原家は三代続けて文章博士や式部省の次官を輩出しました。道真が若くしてこの2つの職についたのも、ひとえに英才教育の賜物です。しかし同時に祖父は公卿で父は殿上人《でんじょうびと》でもありました。つまりは中級貴族の子孫だと言うことです。長谷雄も含め、貴族とは名ばかりの地下人《じげびと》の出身で、学習環境にもなかなか恵まれない人間が生徒の中にいることを考慮すると、家柄を誇示し、世襲を前提とした発言をするのは、あまり適切ではないように思います。強固な家意識がはしたなくも露呈したとも言えますね。>
上記で出てくる紀長谷雄(きのはせお)は、道真の数少ない友人であり、貴重な理解者。しかし、その貴重な友人にもこういう残酷なことを言ってしまうのですから、血統へのこだわりは相当なものだったと想像されます。
理解者が少なかったというのはこういった苛烈な性格ゆえなのかな?とも感じさせますが、逆に言うと、そんな道真を最後まで裏切らなかった紀長谷雄はすごいですね。ちなみに紀長谷雄は竹取物語の作者候補の一人です。
Wikipediaが非常に簡潔なように有名ではないのですが、彼も魅力的な人物だと感じます。
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