2015/6/10:
●天皇陵は明治維新に明治政府が捏造したもの?
●次々と見つかった天皇陵…なぜか被差別部落ばかり
●天皇誕生の100年前に天皇陵完成のデタラメ…本物はごく僅か
●科学的学術的根拠なしなのに、明治政府以降の歴代政府は見直しを拒絶
2019/07/09:
●世界遺産になった大仙陵古墳が仁徳天皇陵だというのも捏造?
●研究すれば確実性が増すにも関わらず研究を拒絶する伝統
●次々と見つかった天皇陵…なぜか被差別部落ばかり
2015/6/10:最近、明治維新の捏造だとかいうわけのわからない宣伝をよく見かけるので、それにちなんだ話でも、と思い立ちました。陰謀論的な怪しい話でなくて実際に明治政府が捏造したものも、実はあります。ただ、そういう話は力雨入れて書かなくちゃいけませんので、たいへん。
とりあえず、今回は気楽に書けそうな話ないかなぁ?と検索。いかにも怪しそうな話がありました。掲示板で、『
創られた天皇制―近現代天皇政治心理史研究:戦争責任・A級戦犯・靖国神社
』を多数引用したものを見つけたのです。作者は裴富吉さんという方だとのこと。以下のような主張をしているそうです。
・近代天皇制国家を必要とした明治維新は、天皇陵に着目し、重要な役割を担わせることにした。
・天皇制を復活させるためには、日本の古墳を、万世一系の現人神の山陵として聖地に転換させる必要があった。それはまず、文久二(1861)年中に、「神武天王陵の創出」=「神武天王陵を築造しようという試み」によって、「改めて神武天皇陵を治定し、神武天皇の実在性を民衆に信じ込ませ、」「近代天皇制を作り上げる踏み台とする」作業から始められていた。
・部落解放運動史を書いた住井すゑは、明治政府が明治4(1871)年に一代神武天皇の陵墓を造築したのち、明治40(1907)年から明治45(1912)年にさらに陵墓をそろえようとした時期に関して、こう語っていた。
「また天皇陵がめっかったと、でまためっかったんだと、学校で噂出るわけです。それがどこも未解放部落なんです。つまりエタ部落でめっかった。エタ部落には粗末ながら、小さなながら、前方後円墳があったんです。
一番の疑問わね、自分のところはエタ部落であると、そこに御陵があると、昔天皇は部落に住んでいたのか」
・そもそも、皇位の唯一絶対の印とされた三種の神器(曲玉、鏡・剣)は大陸からの輸入品であり、昔から天皇家にかぎらず、当時の有力な長者などは、大陸伝来の宝として所持していた。それが証拠には大和や九州の古墳からはたくさんの「三種の神器」、それも天皇家と伝説鏡と同一様なものが発掘され、朝鮮各地からも同様なものが発掘されている。
(
国家「日本」の欺瞞 皇国史観の捏造 阿修羅♪ 投稿者 BRIAN ENO 日時 2012 年 12 月 12 日 12:47:03より)
●天皇陵は明治維新に明治政府が捏造したもの?
上記をを紹介した人は、これを受けて「天皇陵、三種の神器という物的証拠も明治維新前後に急ごしらえで捏造されたものらしい」としていました。
「天皇陵は明治維新に明治政府が捏造した」はさすがにそりゃないだろうという話ですが、実を言うと、天皇陵とされているものに怪しいところがいっぱいあるというのであれば、本当なんです。かなり適当に決められていました。
ただ、
天皇陵 - Wikipedia(最終更新 2015年6月4日 (木) 14:02)によれば、ほとんどは江戸時代に決められたものみたいですね。明治政府はあまり関係なさげ。あと、「かなり適当に決めていました」と書いちゃいましたが、当時としては精一杯だったと説明されています。
<山陵探索・治定>
・現在につながる天皇陵の探索および治定は、その
ほとんどが江戸時代に行われており、一部のものについては明治時代以降にまでずれこんだ。・江戸時代には、尊皇思想の勃興とともに、天皇陵探索の気運が高まり、松下見林、本居宣長、蒲生君平、北浦定政、谷森善臣、平塚瓢斎などが、陵墓の所在地を考証したり、現地に赴いたりしており、幕府による修陵もこうした動きと無関係ではない。
・
現在の学問的水準からみれば問題の多い江戸時代の治定作業ではあるが、それらは決していい加減なものではなく、天皇陵について記載された文献資料を集め、それと地名や土地の伝承などを照らし合わせることで行われており、当時としてはかなりの高水準のものであった。
●天皇誕生の100年前に天皇陵完成のデタラメ…本物はごく僅か
Wikipediaの続きを読んでみると、本当この天皇陵の話は悲惨だったということもわかります。例えば、奈良時代までの天皇陵で言うと、"現在の歴史学的・考古学的知見に基づき同意できるもの"は、"天智天皇陵、天武・持統天皇陵など
数か所程度"しかないと書かれています。あとは、全部根拠に乏しいようです。壊滅的ですね。
たとえば、"継体天皇陵として治定されている太田茶臼山古墳"は、"実際の築造時期は継体天皇の治世より約1世紀前にあたる、と推定されてい"ます。あり得ないものを継体天皇陵としてしまいました。
さらに驚くのが、平安時代~室町時代の天皇陵の説明。時代が後になれば正確性が増しそうなものですが、実際にはそうではないことに驚きます。
平安時代~室町時代のものは、薄葬によって位置を特定することが困難なものや陵が置かれた寺院が廃滅したことによって所在が不明になってしまったものなどが多いとのことで、実際には、"
ますます歴史学的・考古学的信頼度は低下する"という摩訶不思議なことになっています。
後白河天皇の法住寺陵、後醍醐天皇の塔尾陵などのように近世にいたるまで管理され、伝えられたものはむしろ少数派とのことで、この時代の天皇陵も怪しいものばかりだそうです。
●科学的学術的根拠なしなのに、明治政府以降の歴代政府は見直しを拒絶
ここまでの話は主に江戸時代の研究者たちの問題なんですが、実は明治政府やそれ以降の政府にも非常に悪い点があります。天皇陵の見直しを拒否しているのです。
これは結局、捏造と言われてしまっても仕方ないでしょうね。科学系の話が私は一番気にかかるんですが、なぜか政府らは学術的に根拠のないものを一生懸命守ろうとする傾向があります。
宮内庁は学術的信頼度については「
たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」というめちゃくちゃなことを言って、治定見直しを拒絶。さらに宮内庁は、「皇室の陵墓はあくまでも祭祀の対象であるため、一般の古墳や墓所とは性格が異なる」とも言って、
天皇陵を始めとする陵墓の治定見直しならびに指定の変更を拒絶しているそうです。
実を言うと、
この方針は、戦前の旧神祇省・旧宮内省から引き継がれたもの。陵墓及び陵墓参考地の指定変更が行われる場合についても、「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などのやむをえない事情によってのみ行われることを明らかにしているそうです。
可能性としては、学術的な調査の受け入れによって逆に確実性が増す天皇陵もあるでしょうしかし、それよりも一つでも見直すものが出てしまうことをきっと恐れているんでしょうね…。こういう真実から目を背けようという行為は理解できません。
なお、元ネタであった三種の神器に関しては、
三種の神器は明治維新に明治政府が捏造したもの? 誰も見たことがない三種の神器で書いています。
●世界遺産になった大仙陵古墳が仁徳天皇陵だというのも捏造?
2019/07/09:仁徳天皇陵と呼ばれる大仙陵古墳などが世界遺産になりました。誰の天皇陵であるかどうかは世界遺産と関係ないっちゃないのですけど、実は仁徳天皇陵も怪しいようです。
『記紀』『延喜式』などの記述によれば、百舌鳥の地には仁徳天皇だけでなく、反正天皇、履中天皇の3陵が築造されたことになっています。しかし、それぞれの3陵として現在宮内庁が治定している古墳は、考古学的には履中天皇陵(上石津ミサンザイ古墳)→仁徳天皇陵(大仙陵古墳)→反正天皇陵(田出井山古墳)の順で築造されたと想定されており、大きく矛盾が生じているとされていました。
これは
Wikipediaの書き方そのままで何が矛盾しているのかわかりづらいのですけど、おそらく作られた順番が書物の記述と異なっているということでしょう。
このことから、百舌鳥の巨大古墳の中で最も古く位置づけられる伝履中天皇陵を伝仁徳天皇陵にあてる見解もあるとのこと。つまり、この説なら大仙陵古墳は仁徳天皇陵ではないということです。
ただ、これはこれで『延喜式』の別の記述と大きく食い違ってきてしまうという問題が発生。 『延喜式』には、「兆域東西八町。南北八町。」という敷地が他の陵墓と比較すると群を抜いて広大であることから大仙陵古墳を指すと考えられており、履中天皇陵を仁徳天皇陵をしてしまうと矛盾が生じてきます。
●研究すれば確実性が増すにも関わらず研究を拒絶する伝統
ということで、大仙陵古墳が仁徳天皇陵である可能性はゼロではなく、結構ありそうな気がするのですけど、書物の記述と一部整合しない部分があり、怪しいところがあって研究待ちということのようです。ただ、その研究について政府が非協力的だということで、進展は見込めないかもしれません。
Wikipediaでは、私が最初に書いた「研究によって確実性が増すこともあるのに、研究を拒否しているせいで余計不確実になっている」といった話も載せていました。前述の通り、これは戦前からの伝統なのですが、こういう悪いしきたりだけは熱心に守ってしまうことが多いです。困ったものですね。
<考古学上は仁徳天皇の陵であるとすることに否定的な見解が唱えられているが、築造時期が5世紀前半~中頃との見方が確定することによって、文献史学上で想定される仁徳天皇の活動時期に近づくとする見解もある。ただし、宮内庁が調査のための発掘を認めていない現状において、学術上ここが仁徳天皇陵であると確定することは不可能となっていることから、現在では、教科書などを含めて「大仙陵古墳」とされており、「仁徳天皇陵」の名称は用いられなくなっている>
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