2019/12/17:
●参勤交代は幕府が大名の経済力を削ぐ目的…は俗説 実際には?
●そもそも参勤交代に類似の制度は鎌倉時代からあった!
●財力を削るためではない理由、そもそも大名側が自発的にやっていた
●江戸幕府はむしろしつこく大名に節約するように求め続けていた
●なぜ大名は勝手に参勤交代に金をかけて自滅してしまったのか?
●そもそも参勤交代に類似の制度は鎌倉時代からあった!
2019/12/17:歴史で習っていた内容がきちんとした根拠あるものではなく、現在では違うとわかっているということがよくあります。参勤交代もかなり誤解が多かったようでおもしろいです。
私はこうした新たな知見をおもしろいと感じるのですけど、それを許せない!と批判する人も多いです。なぜか右派による「左翼の陰謀だ」という批判が特に多く、コメント欄をつけていた頃は対応に困りました。参勤交代はどう考えてもそうならないと思うのですけど、ひょっとしたらまた想像できない屁理屈をこねている人もいるかもしれません。
タイトルにした「参勤交代は幕府が大名の経済力を削ぐ目的…は俗説」という話に行く前に、まず参勤交代が江戸幕府独自のものではないという話から。江戸幕府が独自に一から作り出した制度というわけではなく、類似の制度は江戸時代より前からありました。
参勤交代 - Wikipediaによると、その最初はなんと鎌倉時代から。御家人が鎌倉に参勤する制度があり、三年に一度の参勤が行われていました。この時点で「制度」であり、年数も決められています。かなり参勤交代と似たものです。
また、室町時代にも、細川・畠山など以外の大名は京都に参勤。戦国時代でも、一部の戦国大名が服属した武士を城下に集めるようになり、織田信長は安土城で支配下に服した大名に屋敷を与えました。さらに、豊臣秀吉が大坂城・聚楽第・伏見城で屋敷に妻子をも住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがっています。
●参勤交代は幕府が大名の経済力を削ぐ目的…は俗説 実際には?
「参勤交代は幕府が大名の経済力を削ぐ目的」と確かに以前は言われていました。しかし、現在では結果的にそうなったに過ぎず、江戸幕府が求めたものではないとする説が有力です。Wikipediaでは、以下のような記述がありました。
<国元から江戸までの旅費だけでなく江戸の滞在費までも大名に負担させていたため、各藩に財政的負担を掛けると共に人質をも取る形となり、諸藩の軍事力を低下させる役割を果たした、と言われているが、これはあくまで副次的なものにすぎず、太平の世にある江戸時代に将軍と大名との主従関係を示すための軍事儀礼であった>
<この制度の目的は、諸大名に出費を強いて勢力を削ぐことにより謀反などを抑える効果、あるいは大名の後継ぎは制度上全員が江戸育ちとなることから、精神的に領地と結びつきにくくする効果があったともいわれるが、これらは結果論でしかなく、当初幕府にその意図はなかったという説が現在では有力である>
納得行かない人も多いかもしれませんが、この後見ていくとわかるように、従来の説明では矛盾する点が多いのです。
●財力を削るためではない理由、そもそも大名側が自発的にやっていた
まず、江戸時代の参勤交代が成立する経緯について。前述の通り、江戸時代より前から類似の制度、あるいは、類似の慣習がありました。
江戸幕府の場合は、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため江戸に参勤するようになったというのがあります。家康も秀吉の例に倣って江戸城下に屋敷を与えました。大名は忠誠を示すため、妻(正室)と子(男子であれば跡継ぎ)、有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせるようになりました。
ということで、最初の始まりは大名側による自発的なものであったんですね。この時点で、「大名の財力を削るため」という説明だとおかしくなっています。「大名の財力を削るため」であるのなら、幕府側から求めていなくては、話が通じません。
この自発的な参勤交代が、次第に制度として定着。元和三年(1617年)以降には東国と西国の大名がほぼ隔年で参勤している状態となりました。そして、ついに寛永12年(1635年)三代将軍徳川家光の時代に『武家諸法度』が改定され(寛永令)、第二条で「大名小名在江戸交替相定也、毎歳夏四月中可参勤」と規定されたことによって、制度としての参勤交代が明文化されました。
なお、先程参勤交代は「将軍と大名との主従関係を示すための軍事儀礼」が目的とありましたが、それ以上の詳しい説明はありませんでした。なので、想像してみると、おそらく大名側が幕府への忠誠心の高さを示すために、妻子や有力家臣の子弟を人質として江戸に住まわせた上、自身も一定期間江戸で暮らした…ということなのだと思われます。
この効果は、幕末からも確かめられます。文久2年(1862年)8月に参勤交代を緩和した他、大名の嫡子・妻子についても帰国を認めました。これは日本全体としての軍備増強と全国の海岸警備を目的としていたのですが、結果として徳川幕府の力を弱めることとなってしまい、幕府崩壊に繋がることになります。
●江戸幕府はむしろしつこく大名に節約するように求め続けていた
上記とは別な意味でも、「大名の経済力を削ぐため」という説明がおかしくなるところがあります。以下のように江戸幕府はむしろ大名らの経済力が減ることを危惧し、節約することを繰り返し求めていました。全く逆なんですね。
<『御触書寛保集成』によると「従来の員数近来甚だ多し。且つは国郡の費、且つは人民の労なり。向後その相応を以てこれを減少すべし。」とあり、
幕府はむしろ大名の参勤交代の際の支出を節減するように求めている>
<(引用者注:徳川家光の武家諸法度の寛永令)『大名や小名は自分の領地と江戸との交代勤務を定める。毎年4月に参勤すること。
供の数が最近非常に多く、領地や領民の負担である。今後はふさわしい人数に減らすこと。ただし上洛の際は定めの通り、役目は身分にふさわしいものにすること。』>
<
そもそも藩財政が破綻して軍役が不可能となっては本末転倒であることから、「大名行列は身分相応に行うべき」と通達を行なっていることが当時の幕府の文書から読み取れる。>
最後の「大名が破綻してしまうと幕府も困る」という説明が最も本質的ですね。上記以外にも、大名行列で使う道具について具体的に「豪華な~を使ってはならない」という通達が出ており、なおかつ大名側が豪華なものを使おうと許可を願って断られる…といった記録が残っています。大名側がむしろどんどん財力を削ってまで、大名行列を豪華にしようとしていたこと、それを幕府が防ごうとしたことがわかります。
●なぜ大名は勝手に参勤交代に金をかけて自滅してしまったのか?
こうしたエピソードで、今度は別の疑問が出てくるでしょう。なぜ大名たちは、自らの経済力を削ってまで、大名行列を豪華にしようとしたのでしょうか? 実というとWikipediaではこの理由について詳しく書いていなかったものの、他を読むと大名側のメンツの問題ではないかと想像できます。他の大名から見劣りしないように…とするうちに、過度に豪華になってしまったようです。
実は参勤交代の参加者もほとんどが臨時労働者であり、常勤の家来ではありませんでした。これは荷物運びなど必要な人員もいたわけですが、メンツの関係で膨れ上がった面もあります。
また、殿様があれこれ口出して豪華にしようとして、実務や財政を担当する武士らが四苦八苦していた…といった記録も残っていました。ここらへんはサラリーマンの悲哀に通じるものがありますが、江戸幕府が財力を削ろうとしたのではなく、大名側が勝手に疲弊していった様子のわかる逸話でもあるでしょう。
その他、我々の想像するような大名行列が常にゆっくり行軍していたか?というとそうではなく、飽くまで見ている人が多いところだけ…という話も。道中のほとんどである人が少ないところでは、行列の人数を減らしてばらばらにし、移動スピードを優先していたそうです。これもやはり見た目を非常に気にしていたことを示すエピソードと言えそうでした。
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