聖書箇所:マタイの福音書6章1-4節/[新改訳] マタイの福音書
6:1 人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。
6:2 だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。6:3 あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。
6:4 あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
[新共同訳] マタイによる福音書
6:1 「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。
6:2 だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。
6:3 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。
6:4 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」
Japanese Baptist Church, Raleigh
ユダヤ教で善行といわれるものに代表的なものが三つありました。それは、貧しい人たちへの施し、祈り、断食です。これらの善行を、偽善者たちは、人に見せるため、誉められるために行っていました。真心からの行為からではありませんでした。そこでイエス様は、唯一の神である天の父に認められるように、隠れてこの三つを行うようにと、人々に教えられました。
施しをするということは、良いこととして奨励されます。しかし、だからこそ逆に、それが落とし穴となるのです。(中略)
もし私たちが施しを出来て、それをしたとします。人々は、私たちの施しを見て、あの人達は何て善い人なのだろうか、と誉めるかも知れません。けれども、その誉め言葉が私たちの報いになり、天の御国には私たちが受け取れる神からの報いは残されていないのです。私たちの肉(生まれながらの性質)は、人に認められること、誉められる事が大好きです。けれども、もしその誉め言葉を自分のものとするなら、天に報いは残っていないと言われたのです。
横浜指路教会 www.yokohamashiloh.or.jp ■2010年7月11日・夕礼拝説教
「善行」そのもの、良い行いそのものは勧められることです。けれどもそれを「見てもらうと」人の前で行なうことになると、果たしてそれは本当に善行をしていることになるのでしょうか。人間は、他人の目がとても気になります。他人の目、他人からの評価がとても気になります。自分が良い評価を得たいからだということです。他人に自分の善行を見せびらかすのは、自分を善人として印象づけるためであり、清く正しい義人として評価されるために他なりません。他者の目を気にするということは、その本質において自分へのこだわりと言えるのではないでしょうか。
(中略)人の前で善行をするということは、いかに自分が善行、善い業を行う人間であるということを見せることです。そして自分が信仰深いということを示すものになっていきました。それは単なるデモンストレーションになってしまうのです。自分の力を示す行為になってしまうのです。(中略)
本当の動機とは何でしょうか。どこにあるのでしょうか。その人のためにしたように見えていて、本当はそれによって、自分が人からよく思われたい。人に評価されたい、褒められたいとどこかで思っているのではないでしょうか。
Laudate | シスター今道瑤子の聖書講座 聖パウロ女子修道会会員 シスター 今道瑤子
第15回 マタイ6章1-18 優れた善行の実践について
罪深いわたしたち人間はよくよく心しないと、それ自身良い行いである慈善、その他の善行をさえ虚栄心などの愚かな動機で行い、結局は的はずれの行為に終わり、父である神のみ前に何の価値もないものにしてしまう危険があります。
(中略)施しをするとき、富や豊かさは自分だけのものではなく、それらを享受していない兄弟姉妹と分かち合うために、神からお預かりしているものであることをわきまえ、神への感謝と同胞愛に促されて慎ましく行うべきことを、マタイ福音書は繰り返し想起させてくれます。(中略)
聖書を読む場合いつも留意する必要がありますが、たとえば「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」などといういう一句だけを切り離して、文字どおりに解釈し、「右の手のすることを左の手にさえ知らせるな」とあるからには、難民救援を仲間に呼びかけるのも遠慮しなければ、などということはありません。
イエスのお言葉を、福音書全体の一部として読むことも大切です。マタイ5章14節には「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない」とありましたし、いずれ読む25章には、主からいただいたタレントや富は活用しなければならないことがきびしく語られています(25.14-30)。
要はイエスにならい、すべてにおいて御父のお望みを行うことを第一の目標とするということが大切でしょう。どれほど歳末助け合い募金に応じても、敬虔に祈りをささげても、断食をしても、神を賛美し、その憐れみと慈しみが世に輝くためにという第一のことを忘れ、自己顕示が主になってしまえば、それらいっさいの行為は神のみ前ではむなしいということです。
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