マッキンリー山・デナリ山の話をまとめ。<マッキンリー山をデナリ山に 大統領選挙の宣伝で改名というトンデモ歴史>などをまとめています。
2023/07/27:
一部見直し
●マッキンリー山をデナリ山に 大統領選挙の宣伝で改名というトンデモ歴史
2015/8/31:NHKによると、アラスカ州にある標高6194メートルの北アメリカ大陸最高峰、マッキンリーの名称は、1896年、現地を探検していた男性がつけたもの。なんと共和党の大統領候補だったウィリアム・マッキンリーさんへの支持を表明するために名付けたという理由でした。
ただ、何しろ北アメリカ大陸最高峰という目立つ山ですから、それ以前の名前もあります。地元からは先住民族の古くからの呼称で「偉大なもの」といった意味がある「デナリ」に変更するべきだという意見が根強く出ていました。
<北米最高峰マッキンリー「デナリ」に名称変更へ>(NHKニュース 8月31日 11時09分)によると、ついにホワイトハウスは、山の名称を「デナリ」に変更すると発表。ホワイトハウスは「アラスカ先住民族にとってのデナリの神聖な地位を認めるものだ」としていました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150831/k10010210331000.html
政治家を応援するために山の名前を変えちゃう…というのはトンデモすぎで、ちょっと信じられません。ただ、別記事
オバマ大統領、全米最高峰「マッキンリー山」の名称を「デナリ山」に改名 - BusinessNewsline(by Bruce Ford)なんかでは「応援するために」とはっきり書いています。
<McKinleyの名称は元々は、Denaliだったが、1896年に地元の金採掘業者が大統領選に出馬したWilliam McKinley(ウィリアム・マッキンリー)候補を応援するために、McKinleyと呼ぶように呼びかけ、その後、実際にWilliam McKinleyが第25代大統領に選出されたことから、この呼び名が定着していた。>
朝日新聞の
北米大陸最高峰マッキンリーを「デナリ」に改称 米政府:朝日新聞デジタル ワシントン=峯村健司 2015年8月31日10時55分)によると、改名の要望は最近の話ではなく、かなり長らく放置されていたようです。アラスカ州政府はなんと1975年から、デナリを公式に使うよう連邦政府に要求していたとのこと。先のBusinessNewslineでは、以下のような説明です。
<地元のアラスカ州では戦後になってからMcKinleyの名称をDenaliに戻す運動が盛り上がりを見せていたが、William McKinley大統領の地元となるオハイオ州の反対を受けてDenaliへの改名は米議会の承認を得ることはできない状態が続いていた>
●悪い意味で名を残してしまったマッキンリー大統領 何をした人?
歴代アメリカの大統領の話は過去にシリーズになっているのを読みましたが、マッキンリー大統領のことは全く記憶に残っていません。
ウィリアム・マッキンリー - Wikipediaから主だったところを抜き出すと、こんな感じです。
<ウィリアム・マッキンリー(William McKinley, 1843年1月29日 - 1901年9月14日)は、第25代アメリカ合衆国大統領。最後の南北戦争従軍経験者の大統領であり、19世紀最後かつ20世紀最初の大統領。
1880年代までにマッキンリーは共和党の全国的指導者であった。彼の選挙戦のテーマは、1890年のマッキンリー関税に代表されるような、繁栄のための公式として高率輸入関税を導入することであった。(中略)彼の選挙戦はマーク・ハンナによって指揮され、新たな選挙戦の広告スタイルを導入し、キャンペーン技術は最大のライバルであるウィリアム・ジェニングス・ブライアンを打ち破った。(中略)
マッキンリーは大不況 (1873年-1896年)特に1893年恐慌後、回復に向けて国を率い、金本位制を導入した。彼はスペインに対し、キューバでの蛮行を止めるように要求した。アメリカ合衆国の世論はスペインに対する憤慨で沸き立っていた。そして1898年、米西戦争が勃発した。戦争はアメリカの勝利で終わった。(中略)1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれた。(中略)マッキンリーはまた、1898年にハワイ共和国を併合、同国の全ての居住者がアメリカ国民となった。マッキンリーは1900年の大統領選で再びウィリアム・ジェニングス・ブライアンと争った。ブライアンは外交政策と繁栄の復帰に焦点を合わせた激しい選挙戦を展開したが、マッキンリーは再選を成し遂げた。マッキンリーは1901年、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュによって暗殺された。彼の後任は副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継いだ>
●植村直己氏でも知られていたマッキンリー
あと、デナリ(マッキンリー)については、「世界的な冒険家の植村直己さんが1984年に消息を絶った場所としても知られています」(NHK)など、各社植村直己さんの名前を出していました。うちでも昔
植村直己1 ~臆病な冒険家~や
植村直己2 ~その人柄と名言~で書いた方です。
同じくWikipediaから抜き出そうと思いましたが、「冒険スタイル」などの部分の方が良いと思ったので
植村直己 - Wikipediaからそこらへんを中心に引用します。
<植村 直己(うえむら なおみ、1941年(昭和16年)2月12日 - 1984年(昭和59年)2月13日頃)は、日本の登山家、冒険家。兵庫県出身>
冒険スタイル
<単独行に傾倒した以降の植村は、アマゾン川単独河下り、北極点単独犬ぞり到達、グリーンランド単独犬ぞり縦断など数々の有名な冒険を達成している。ここでの植村の特徴は、例えば登山における高度順化といった度合いを超えて、冒険する現地で長期間を過ごして言わば生活順化することから始めるという点にあった。特に犬ぞり行に先立つ約五ヶ月は単身グリーンランドのエスキモー宅に寄宿し、衣食住や狩・釣り・犬ぞりの技術に至るまで、極地に暮らす人々から直に学ぶことに努めた。従ってアマゾン行では主な食料源は釣りとバナナに頼り、犬ぞり行では釣りと狩猟で得られる生肉と脂を中心に、持参の紅茶とビスケットで補完するといった食生活だった。俗にアザラシの漬物と言われるキビヤックはその特異な製法と強烈な異臭で知られているが、植村はこれが大好物だったという話は有名である。これらの挿話は、先進国の機材や物資を大量に持ち込んで言わば西欧文明流の力押しで自然を制覇するという近代以降の冒険流儀を一概によしとしなかった植村の思想性を表している。
ただし盲目的に現地の流儀にこだわったわけではない。植村の犬ぞりは現地の伝統的な構造と製法に則りつつ、構造材としては繊維強化プラスチックを利用した例があった。極地用のテントは自ら考案したものを使用した。冬山登山などでは、1964年11月モンブランでクレバスに落ちながらアイゼンと荷物が引っかかり九死に一生を得た経験から、何本もの竹竿をストッパーとして身体にくくり付けていた。植村が行方不明となった最後のマッキンリー行においても、肩に竹竿をくくりつけて登攀して行く姿が見られた>
エピソード
<(中略)生前に「冒険で死んではいけない。生きて戻ってくるのが絶対、何よりの前提である」という言葉を残していたが、上記の通り最期は冒険の下山中に行方不明となってしまった。夫の消息不明・生存の可能性ゼロの為捜索活動打ち切りとなった報道に関して、妻の公子は「夫は『必ず生きて帰る事が本当の冒険だ』といつも偉そうに言ってたくせに…ちょっとだらしないんじゃないの?と言ってやりたい気持ちです」と、記者陣に対して悲しみを堪えつつも気丈に答えていた。
行方不明後にキャンプで発見された日記には登頂アタック前の最後の日付で「何が何でもマッキンリー、登るぞ」と書かれていた。これについて野口健は従来の植村の発言とは完全に矛盾していると疑問を呈している>
【本文中でリンクした投稿】
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植村直己1 ~臆病な冒険家~ ■
植村直己2 ~その人柄と名言~【関連投稿】
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