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芥川賞事件 太宰治の芥川龍之介賞に対する強すぎる執着心で騒動




●太宰治が佐藤春夫に宛てて書いた手紙が3通見つかる

2015/9/8:太宰治さんが芥川賞を望む手紙が、新たに見つかったというニュースがありました。太宰治が芥川賞懇願する手紙見つかる NHKニュース(9月7日 12時03分)というものです。

 記事によれば、若き日の、作家、太宰治が文壇の重鎮、佐藤春夫に宛てて書いた手紙が新たに見つかりました。分の作品を芥川賞に選ぶよう懇願するなどの内容で、当時の心境を物語る資料として注目されているとのこと。この書き方だけだと問題を感じないかもしれませんが、内容がすごいんですよ。まず、以下はまだ問題ない部分の話。

<見つかったのは、昭和10年からよくとしにかけて、20代半ばだった太宰治が文壇の重鎮で芥川賞の選考委員も務める佐藤春夫に宛てて書いた3通の手紙です。実践女子大学の河野龍也准教授が、佐藤の遺族が保管していた資料の中から発見しました。
このうち、昭和10年6月の日付があるものは初めて送った手紙とみられ、佐藤から作品の評価を伝え聞いた太宰は「うつかり気をゆるめたらバンザイが口から出さうで、たまらないのです」と喜びをつづっています>

●「見殺しにしないで下さい」審査委員に自分を選ぶように働きかけ

 問題は、昭和11年1月の手紙は長さ4メートル余りの巻紙にしたためられているという長い手紙。芥川賞に選ぶようにかなり強く働きかけています。「選んでくれないと自殺するぞ」と言っているようにも読め、脅迫的な感じもありますね。やりすぎですわ。

<前の年に行われた芥川賞の最初の選考会で作品が候補になったものの選ばれず、手紙には「こんどの芥川賞も私のまへを素通りするやうでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよはなければなりません」「私を忘れないで下さい」「いのちをおまかせ申しあげます」と自分の作品を選ぶよう懇願する内容になっています>

 なぜかこの手紙に好感を持っている人もいたんですけど、これは本来不公正な行いだと考えられます。同日に女子学生に司法試験の問題漏洩で告発 青柳幸一明治大教授の経歴などというのを書いていますが、これを擁護する人はいないでしょう。

 芥川賞は試験ではありませんが、審査委員に自分を選ぶように働きかけるだなんて、非難されることはあっても褒められることはない行為です。最近のもっとわかりやすい例だと、佐野研二郎さんと五輪エンブレムの審査委員との関係で考えると良いかもしれませんね。もしこちらで同様のことが判明したなら、非難轟々だったことでしょう。

<昭和11年1月の手紙は26歳だった太宰が長さ4メートル余りの巻紙につづりました。前の年、主人公がみずからの半生を振り返る太宰の作品、『逆行』が芥川賞の最初の選考会で候補になりましたが、受賞を逃しました。これを受けて手紙では「芥川賞は、この1年、私を引きずり廻し、私の生活のほとんど全部を覆つてしまひました」「こんどの芥川賞も私のまへを素通りするやうでございましたなら、私は再び五里霧中にさまよはなければなりません。佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい。いまは、いのちをおまかせ申しあげます」とつづり、受賞を懇願しています>


●佐藤春夫は太宰治の師匠?無名だった太宰にいち早く注目し激励

 また、佐藤春夫とは師弟関係にあったとも言われています。太宰「芥川賞、私に」 佐藤春夫に懇願の新たな手紙発見:朝日新聞デジタル(板垣麻衣子 2015年9月7日21時04分)という記事で以下のような記述があった他、Wikipediaでも言及がありました。
 2人は、佐藤が無名だった太宰の才能にいち早く注目し激励の手紙を送ったのを機に師弟関係になった。(中略)

 4メートル超の和紙の巻紙に毛筆でしたためられた手紙(1936年1月28日付)では「芥川賞は、この一年、私を引きずり廻(まわ)し、私の生活のほとんど全部を覆つてしまひました」と切り出し、「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます。私は、きつと、佳(よ)い作家に成れます。御恩は忘却いたしませぬ」と畳みかけるように頼んでいる。

 太宰は当時26歳。前年に創設された第1回芥川賞の候補になりながら落選。私生活でも鎮痛剤への中毒症状に悩むなど失意の中にあり、敬愛する芥川龍之介の名を冠するこの賞に執着心を強めていた。

●芥川賞事件 太宰治の芥川龍之介賞に対する強すぎる執着心で騒動

 この太宰の強すぎるとも言える執着心が、トラブルを生んでいたと、朝日新聞では書いていました。願いもむなしくその後も受賞できなかった太宰は、佐藤が賞を確約したかのように記した暴露文を発表。これに対し、佐藤が実名小説「芥川賞」で反論するなど一連の事態は「芥川賞事件」と呼ばれているそうです。

 この芥川賞の確約(?)暴露でトラブルとなったというのは、私の不公正さが疑われて当然という考えを補完しています。当然問題となるべきものです。あと、この手紙が見つかっていなかったことで、佐藤春夫は捏造も疑われていたようです。この後の話でも、佐藤春夫は太宰に引っ張り回されて苦労していた感じが見えます。

<佐藤は小説の中で、「伏して懇願」という文面を引用していたが、実物が見つからないことから、研究者の間では佐藤の創作ではないかとされてきた。それを覆す発見となったことについて、河野准教授は「2人の関係を再考するきっかけになる。ここぞというときに使う毛筆からも、自己演出を意識していた太宰ならではの気迫を感じさせる」と話している>


●憤怒に燃えた太宰治、佐藤春夫に対して「刺す」と書く

 さて、気になったのは、この芥川賞事件です。芥川龍之介賞 - Wikipedia(最終更新 2015年8月17日 (月) 14:10)では、以下のような話もありました。
第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し[19]、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した[注釈 2]。
私は憤怒に燃えた。幾夜も寝苦しい思ひをした。小鳥を飼ひ、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか。刺す。さうも思つた。大悪党だと思つた。そのうちに、ふとあなたの私に対するネルリのやうな、ひねこびた熱い強烈な愛情をずつと奥底に感じた。ちがふ。ちがふと首をふつたが、その、冷く装うてはゐるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなたの愛情が私のからだをかつかつとほてらせた。さうして、それはあなたにはなんにも気づかぬことだ。ただ私は残念なのだ。川端康成のさりげなささうに装つて、装ひ切れなかつた嘘が、残念でならないのだ。

— 太宰治「川端康成へ」[21]

●川端康成への愛憎入りじ混じった様子や薬物中毒による錯乱を疑わせる文章

 ただし、「芥川賞事件」について - 文芸的な、あまりに文芸的な(2012-02-07、lombardia)では、「冷く装うてはいるが、ドストエフスキイふうのはげしく錯乱したあなた(川端)の愛情が私のからだをかっかっとほてらせた」と書いていることに着目しています。

 "川端を単に攻撃しているだけのものでは"なく、"愛憎交々のアンビバレントな感情が表れていると読める"としていました。ただし、悪く解釈した場合は、"薬物中毒による錯乱を思わせる文章"とも評しています。

 芥川賞をめぐるトラブルは、強すぎる執着心だけでなく、薬物中毒の可能性もあるかもしれません。この後もそれを疑わせるエピソードがいくつかありました。

(引用したブログ「文芸的な、あまりに文芸的な」は、芥川賞作品の感想ブログだそうです。「文芸的な、あまりに文芸的な」というタイトルも芥川龍之介の連載した文学評論からの引用だと思われます)


●川端康成の反論と太宰治の思い込み 佐藤春夫が確約も思い込みか?

 一方、川端康成は、これに対して以下のように反論したと、Wikipediaでは書いています。

<この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし[22]、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べている[22]>

 どうも太宰自身は、何かもう賞を取った気になっていたみたいですね。これが果たしてまともな精神状態なのか?と思う話ですし、先の佐藤春夫が確約したというのも、太宰の思い込みの可能性を思わせます。

<この背景には、太宰治の友人・檀一雄が『道化の華』を推していて、川端ならきっと理解してくれると話していたため、審査過程で何か要らぬ力や圧力が作用したと太宰が考え、「お互ひに下手な嘘はつかないことにしよう」と言い、川端や、その背後にいる人たちを批判しているとされる[20]>

 なお、「文芸的な、あまりに文芸的な」では、川端が「『生活に嫌な雲云々』も不遜の暴言であるならば、潔く取り消す」とも書いていたことに言及しています。そして、「とりあえずこれで一段落」という見方もしていました。(ただし、太宰はなおも恨んでいた可能性があります。これは後述します)


●「賞金の500円はやがて君のものとなる」と佐藤春夫

 「文芸的な、あまりに文芸的な」では、"第二回は、太宰は候補にも上らず、賞自体当選者が出なかった"としていました。Wikipediaによれば、当選者が出なかったのは、"二・二六事件のため審査中止"だったためだそうです。また、同ブログは、芥川龍之介への心酔の他に、"薬物代にあてた借金を抱えており、なおも薬物を必要としていた"ため、"賞金の500円が魅力的だったこと"も大きな要因だろうとしていました。

 さらに、「文芸的な、あまりに文芸的な」によると、"佐藤春夫から太宰に当てたハガキには、「賞金の500円はやがて君のものとなる」との文面があ"ったそうです。確かにこれは勘違いさせる内容です。ただ、ブログ作者は"佐藤は中毒に悩む太宰を励ます為に書いた"と解釈していました。こういった解釈をすることは理解できます。

 というのも、それ以前には、最初の方で引用したように、「佐藤さん、私を忘れないで下さい。私を見殺しにしないで下さい。いまは、いのちをおまかせ申しあげます」のような、自殺をほのめかしながら芥川賞を要求すると解釈できる文面もあるためです。

 かなり精神状態が危ない時期があったのでしょう。御存知の通り、太宰治の自殺未遂を繰り返した末に、実際に入水自殺で亡くなっている方であり、周囲の人が危惧を抱きながら接していたとしても、不思議ではありません。


●しつこい懇請が完全に裏目!第三回で候補にすらならなかった理由

 「文芸的な、あまりに文芸的な」では、その後、以下のように書いていました。

<八月の第三回の詮衡会が迫ると、太宰は連日連夜佐藤に手紙・ハガキを送り、三日を置かずに佐藤に会いに行く。あまりのしつこさに佐藤にあきれられ、ついに反感を買ってしまう。「晩年」は候補にすらならなかったのだ。常軌を逸したしつこい懇請が完全に裏目に出ていた>

 とはいえ、Wikipediaでは、以下のように候補とならなかった理由が異なります。太宰もこのことを知らなかったのかもしれません。

<その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり[23]、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった[20]>

 なお、ここでは恨みのあった川端にも懇願していますが、川端は太宰に有利な発言もしています。"前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としない"という規定決定時に川端は欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としていたそうです。


●逆恨みしまくりの太宰治 川端康成や師匠・佐藤春夫を罵倒・批判

 一方、太宰の川端への恨みは続いていたのかもしれません。落選は1935年ですので、10年以上の後の話になるのですが、太宰治 - Wikipediaでは、以下のような記述がありました。

<『社会』1948年4月号の志賀直哉、廣津和郎との「文藝鼎談」での川端の発言に対して『新潮』1948年6月号掲載の「如是我聞(三)」で太宰は、「なお、その老人に茶坊主の如く阿諛追従して、まったく左様でゴゼエマス、大衆小説みたいですね、と言っている卑しく痩やせた俗物作家、これは論外。」と罵倒した>

 また、芥川賞事件のせいで、佐藤春夫と疎遠になったことも、同じページには記載がありました。

<太宰が落選すると、太宰は短篇「創世記」を書いて佐藤を批判。これに対して佐藤は小説「芥川賞」を書き、太宰の非常識な行動を暴露し報復した。これ以降、太宰は佐藤と疎遠になったが、太宰の才能を認めていた佐藤はそのことを多少遺憾に思っていたという>


●芥川賞を異常なほど熱望しながら「辞退した」と発表

 「文芸的な、あまりに文芸的な」は、もう一つ、太宰の混乱ぶりを伺わせる逸話を書いています。
 九月、太宰は新潮十月号に発表される小説「創生記」に「山上通信」という追加原稿を送る。そこには、太宰が佐藤春夫に呼び出され、「晩年」が芥川賞の候補作になっていて皆が推していると伝えられた、と書かれていた。さらに(佐藤)「いちおうお断りして置いたが、おまえほしいか」(太宰)「もし不自然でなかったらもらってください」というやり取りがあったとされていた。同月の文芸時評ですぐ中条(宮本)百合子が「封建的な徒弟気質」と太宰を非難した。そして太宰は十月東京武蔵野病院に入院する。同病院は脳病院、つまり精神科の病院である(一ヵ月後退院)。

 佐藤春夫は十一月、「改造」「芥川賞―憤怒こそ愛の極点(太宰治)」という文章を載せた。それによると、当然太宰が書いたようなやり取りは存在しない。佐藤が太宰を呼んだのは、太宰が一旦預けた原稿を偽りの手段で取りもどして他の雑誌に持って行こうとしたことをたしなめるためだった。太宰も呼ばれる理由を十分承知していて「ハナシアルスグコイ」という電報に「ハイスグマイリマスシカツテハナラヌ」と返信してよこした、という。

 これらの逸話も含めて太宰治の魅力とすることはできます。才能ある作家が高潔な人格である必要はなく、むしろ欠点があった方が親しみが増すということも、よくあることです。ただ、一般論として、太宰のやったことには問題を感じますね。そこらへんは切り分けてください。


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