宮本武蔵で本当は別の話を書くつもりだったんですが、うまいことまとまらなかったのでこのようなテーマに。


●宮本武蔵の虚像を作り上げた吉川英治は罪深い?
"吉川英治の「宮本武蔵」の底本は「二天記」"だとされています。ところが、その"「二天記」は、武蔵の死後、百十年以上経ってから武蔵の縁者が舟島の船頭の子孫から聴いた話をまとめた物で、史実としての価値は低い"とされています。
しかし、このことを書いている郷土史家・柴川淳一さんの記事のタイトルは、
<逃亡した武蔵や小次郎がいない史実?>吉川英治の「宮本武蔵」は創作だからこそ面白い メディアゴン / 2015年7月24日 11時2分であるように、これをマイナスとは捉えていません。
吉川英治さん自身、以下のように断っていたそうです。
「私は一小説家です。歴史学者ではありません。『小説宮本武蔵』は取材、調査はしたけれども、あくまで私の描写による創作された人物です」
●吉岡一門との決闘も嘘?
上記も言い訳めいたものに聞こえるかもしれませんが、柴川淳一さんは「史実はひとつとは限らない」とも書かれています。これはわりと扱いに慎重にならなくちゃいけない言い方ではあります。
ただ、どれが「史実」なのかというのは、なかなか決められるものではありませんからね。下記の吉岡一門との決闘にように、記録は互いに自分たちに都合の良い形になるなど、異説が多くなりがちです。
小説に言う宮本武蔵と京都の吉岡憲法一門の一乗寺下り松の決闘を含め、武蔵は吉岡一門を皆殺しにした事になっているが、吉岡家は染色業として家系は残った。吉岡家伝来の古文書によると吉岡憲法が武蔵と立ち会ったのは事実だが、憲法は武蔵の額を割ったとしている。
武蔵は「今のは相討ちだ」と主張したけれど再試合を誓った約束の場所に二度と現れなかった。怖気づいて逃亡したと言うのである。吉岡家が剣術家を廃業したのは洛中騒乱の罪を被った為と言う。しかしこれは吉岡家の史実である。
●吉岡一門滅亡は嘘の可能性が高い
ただ、どっちもどっちと放棄しちゃうのもあれですね。
とりあえず、「吉岡一門を皆殺し」は明確に嘘でしょう。上記にあるように家系が残っているんですからね。(死後に養子縁組みたいなのがあれば可能でしょうか?)
Wikipediaでは、以下のように武蔵川の資料の問題を指摘していました。
宮本武蔵 - Wikipedia
武蔵の養子伊織が承応3年(1654年)に記した『小倉碑文』の記録を要約すると以下の通り。
(中略)
・吉岡の門弟は秘かに図り、兵術では武蔵に勝てないので、吉岡亦七郎と洛外下松で勝負をするということにして、門下生数百人に弓矢などを持たせ、武蔵を殺害しようとした。武蔵はそのことを知ったが、弟子に傍らから見ているように命じた後、一人で打ち破った。
(中略)
・この戦いにより、吉岡兵法家は滅び絶えた。
宮本伊織が残した『小倉碑文』などの記録は、他の史料と比べて事実誤認や武蔵顕彰の為の脚色も多く見られる。吉岡家の記述に限定すれば、武蔵に完敗し引退した清十郎、死亡した伝七郎、洛外下松の事件の記録は他の史料になく、創作の可能性がある。また、兵仗弓箭[27] で武装した数百人の武人を相手に一人で勝利するなどの記述は現実離れしている。
●『吉岡伝』の方も創作くさい
一方で、吉岡側の記述も大いに問題があります。
福住道祐[28] が貞永元年(1684年)に著した『吉岡伝』に武蔵と吉岡の対決の異説が記されている。(中略)
これは宮本武蔵と吉岡家が試合をし引き分けたという内容の最初の史料である。 ただし、『吉岡伝』は朝山三徳・鹿島林斎という原史料不明の武芸者と同列に宮本武蔵が語られ、前述のようにその肩書きは二刀を使うことを除き現実から乖離しており、創作の可能性がある。
●「生涯六十戦余りで無敗」も捏造か?
最初の記事でおもしろかったのは、"史料価値の高いとされる「五輪の書」にしてからが「生涯六十戦余りで無敗」と記録されていて疑問視する史家がいる"あたりの話。(ただ、検索すると「五輪書」は他にも怪しい点が多く、本当に史料価値が高いのかは不明。「二天記」がひどすぎなので、それよりマシという感じでしょうか)
これ、単に無敗がおかしいというのだったらあれなんですが、なるほど!という指摘が以下の部分。
武蔵が戦ったのは十三歳以降十五年間ほどであるから、ほぼ三ヶ月に一度ずつ真剣勝負を行い相手を倒していたことになる。異常な勝負強さ、無敵の剣術家と言う他ない。それなのに「五輪の書」には命懸けの果たし合いをした相手の名は「有馬喜兵衛」と「秋山某」の二名しか書かれていない。
本当だ、不自然ですね。「秋山某」ってのはたぶん「秋山何だかさん」という意味なので、名前まで書いている人に限って言えば、1人だけ。詳しい話が語られていません。
ただ、先述の吉岡一門については、武蔵も弟子たちに勝ったと言っていたようです。(以下、再びWikipediaから)
『武公伝』に角左衛門の説話として、御謡初の夜の席での雑談で、志水伯耆から武蔵が先に清十郎から打たれたという話があるが本当か[30]、と武蔵が訊ねられ武蔵が否定する話が記述されている。『武公伝』の話に従えば、晩年の武蔵は弟子等に盛んに吉岡に勝利したことを語っていたが、武蔵の生前に巷間に「吉岡が勝利した」という異説があったと考えることができる。
ちなみに「秋山某」は2人目。唯一名前のある「有馬喜兵衛」は1人目です。
『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利、16歳で但馬国の秋山という強力の兵法者に勝利、以来29歳までに60余回の勝負を行い、すべてに勝利したと記述される。
吉岡一門を破っていればセールスポイントとしては大きいので変な気がしますが、『五輪書』だと最初だけ書いて後は全部省略しちゃった感じになっています。
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