坂本龍馬の「北辰一刀流」の免状が本物と確認されたというニュースがありました。ただし、薙刀に関するものであり、剣術に関するものではありません。「やはり龍馬は強かった」と考えるのは、早合点です。一方で、坂本龍馬は結構強かった…と見ることができる材料もあり、そこらへんの話も見ています。
●北辰一刀流兵法流長刀目録は本物!やはり龍馬は強かった?
2015/11/9:坂本龍馬の「北辰一刀流」の免状が本物と確認されたというニュースがありました。「北辰一刀流」は、幕末江戸の三大道場のひとつであり、人気の道場。その免状をもらっていたとなると、坂本龍馬の剣術の腕は相当だった!と思うかもしれません。ただし、本物とされたのは薙刀(なぎなた)の免状なのです。
やはり龍馬は強かった 「北辰一刀流」免状、本物と確認:朝日新聞デジタル(佐藤剛志 2015年11月9日05時14分)によると、龍馬は故郷土佐で剣術修行後、数え19歳で江戸に出て、北辰一刀流の開祖、千葉周作の弟、定吉の道場でさらに剣術を学んだとされています。
そして、「北辰一刀流長刀(ほくしんいっとうりゅうちょうとう)兵法目録」は、坂本龍馬が青年時代、江戸で修行した道場から与えられたとされてきたなぎなたの免状だそうです。そして、これが今回本物であると確認されました。所有者らが発表しています。なぜ、本物だと言えるか?と言うと、以下のような理由。清河八郎も北辰一刀流だったんですね。清河八郎は新選組の前身組織を作った人です。
<京都国立博物館の宮川禎一(ていいち)・列品管理室長に調査を依頼。宮川さんは、同じく千葉一門の門弟だった清河(きよかわ)八郎の「北辰一刀流兵法免許」と北斗七星の図が酷似することなどから、本物と判断したという>
●本当に「やはり龍馬は強かった」と言える?いろいろ疑問だらけ
さて、気になったのが、宮川さんが「龍馬の長刀修行の成果を明確に示す資料と改めて検証できた。当時こうした免状が簡単に入手できたとは考えられず、やはり龍馬は強かったといえる」としていたことです。本当にこれは坂本龍馬が強かった証拠だと言えるのでしょうか。
実を言うと、私は子供の頃に坂本龍馬の剣術の腕は中の上程度だったという説を読んで、ショックを受けたことがあります。別に何事においても優れていなくちゃいけないわけではないんですが、当時は子供だったのでショックだったんですね。で、朝日新聞が「やはり龍馬は強かった」というタイトルのだったので、引っ掛かっていたのです。
ただ、最初にも書いたように、今回の話はそもそも薙刀であり、剣ではないんですよ。薙刀である程度強かったのは間違いないでしょうが、「剣豪」的なイメージとは違います。
坂本龍馬 - Wikipedia(最終更新 2015年11月7日 (土) 08:13)でも注意を促していました。さらに、免許皆伝とも違うよと書かれていますね。
<安政5年(1858年)1月、師匠の千葉定吉から「北辰一刀流長刀兵法目録」を授けられる。北辰一刀流免許皆伝と言われる事もあるが、発見、現存している目録は「北辰一刀流長刀兵法目録」を与えられた物である。一般にいう剣術では無く薙刀術であり、北辰一刀流「初目録」である>
●坂本龍馬の剣術の腕・強さの評価 同時代の人物の証言だと…
一方でWikipediaでは、高評価も紹介しています。まず、千葉道場で塾頭を務めたという事実がある時点で、腕前は相当のものであったでしょう。しっかりした証拠ではありませんが、「免許皆伝を伝授された」など様々な同時代の人物の証言もあるなど、優れた剣術家であったと考えられているようです。
子供の頃読んだ「剣術の腕は中の上」の根拠は、異なる流派の剣士同士の試合である他流試合の結果をもとにしていたと思うのですが、検索してみてもそれらしい話はありません。これも怪しい感じ。ちなみに江戸時代は、道場破りや流派破りがほとんどなかった一方、他流試合はよくあったそうです。
(
他流試合 - 北辰一刀流 本部 公式サイトより)
坂本龍馬は人気で美化されているとこも多いですから、逆に坂本龍馬に有利な創作も多いようで、注意が必要そうです。ただし、坂本龍馬はその後「小栗流和兵法事目録」も得ており、やっぱりかなり強かったのかなという感じはしますね。
●小栗流を学び「小栗流和兵法事目録」もゲットしていた坂本龍馬
2019/12/02:「小栗流」の補足。ちゃんと読んでみると、こちらもちょっと特殊だったみたいですね。
Wikipediaによると、小栗仁右衛門正信が開いた日本武術の一流派。信の弟子の朝比奈可朝が土佐藩主・山内家の家臣だったことにより、土佐藩に伝えられ同地で栄えたといいます。ただ、この土佐藩で栄えたというのは、「剣術」ではなく、「柔術」であったような書き方もしています。
これは、<小栗流は、正信の弟子の朝比奈可朝が土佐藩主・山内家の家臣だったことにより、土佐藩に伝えられ同地で栄え、土佐藩の柔術は幕末まで小栗流の勢力が大きかった>との記述です。<最初は和(柔術)を表であったが、幕末では剣術を表、和術(柔術)を裏としていた>という記述もあります。
坂本龍馬が学んだのは、日根野弁治(ひねの べんじ)の道場でした。彼もやはり土佐藩士。剣客とも説明されているものの、前述の通り、土佐で栄えたのは柔術であるような書き方をしており、剣術の占める割合がどの程度であったかについては、よくわかりませんでした。
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