「山伏集落800軒確認 国内最大規模、調査で初確認 九州の英彦山」という記事のタイトルを見て、衝撃を受けました。海外ならまだわかるものの、現代の日本で未接触部族?と思ったので、驚いたのです。ネットでも驚いている人が多数出現! ただ、実を言うと、私も含めて勘違いによる驚きでした。
また、舞台となった英彦山についてもおもしろい話が多いのでいっしょにまとめ。<佐々木小次郎は英彦山山伏の一族?宮本武蔵は黒幕大名の刺客>などの話をまとめています。
冒頭に追記
2022/07/19追記:
●佐々木小次郎は英彦山山伏の一族?宮本武蔵は黒幕大名の刺客
●佐々木小次郎は英彦山山伏の一族?宮本武蔵は黒幕大名の刺客
2022/07/19追記:英彦山(ひこさん)の
ウィキペディアでは、まだおもしろい話があります。前回の追記部でも出てきた細川氏に絡んで、なんと宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いの話が突然登場していたんですよ。大名の細川氏が黒幕だという説です。
なぜ佐々木小次郎が絡む説が出てくるのか理解するには、まず、英彦山(ひこさん)のあった豊前国の領有に関わる知識が必要になってきますので、その部分から引用しておきます。ここらへんの書かれた前半の説明は書物がある信頼できる話です。ただ、後半はトンデモっぽいものでした。
<この山を根拠とする豊前佐々木氏が領主であり、一族からは英彦山幸有僧という役職も出していたとの記録がある。英彦山はその後、秋月種実と軍事同盟を結んだため、天正9年(1581年)10月、敵対する大友義統の軍勢による焼き討ちを受け、1ヶ月あまり続いた戦闘によって多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失った。大友氏の衰退後は、新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、佐々木氏とともにさらにその勢力は衰退したという。
なお、豊前佐々木氏は添田の岩石城を居城としていた。豊臣秀吉による九州征伐の際には秋月氏方として香春岳城に続いて攻撃され、一日で攻め落とされたが滅ぼされず、細々と生き残っている。巌流島の決闘で有名な佐々木小次郎はこの豊前佐々木氏の出身であり、またその流派・巌流は英彦山山伏の武芸の流れをくむとする説がある。その説によれば、巌流島の決闘自体が、宮本武蔵を利用して当主である小次郎を殺害させることによる、細川氏の豊前佐々木氏弱体化工作であったという>
●日本の未接触部族?英彦山で山伏集落800軒確認!のニュースに衝撃
2015/11/22:海外での似たような話と言うと、最近は
未知の部族を発見:アマゾン流域 « WIRED.jp(2011.2.2 WED)が一番新しいんじゃないかと思います。このようなことが日本でも起きるなんて!と驚きでした。
<アマゾン流域のジャングルで、これまで見つかっていなかった部族が発見され、航空写真が公開された。(中略)
世界全体では、「未発見の部族」は100程度存在すると考えられている。もっとも最近の発見は2008年で、やはりアマゾン流域だった。この部族はブラジル西部、ペルーとの国境近くのエンビラ川流域に分散して住んでいた>
最初に「海外ならまだわかる」と書いたものの、実を言うと、上記のアマゾンの記事にも、胡散臭いと当時はかなり懐疑的な反応が多数。現代ではそうそう未接触部族を発見することはできなくなっているためです。 そして、正直に言うと、私が「山伏集落800軒確認」のニュースに興奮したのも一瞬だけでした。
海外ですらそのような状態であるのに、日本で誰にも見つかっていない集落が発見される可能性は相当低いですからね。冷静に考えると、「(現在も居住している)山伏集落800軒確認」ではなく、「山伏集落800軒(の跡)確認」ではないか?と気づきます。で、本文を読むと、残念なことに、実際そういう意味でした。勝手に勘違いしただけでしたわ…。
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山伏集落800軒確認 国内最大規模、調査で初確認 九州の英彦山 (西日本新聞) - Yahoo!ニュース 西日本新聞 11月22日(日)7時40分配信
<日本三大修験道場の一つ、福岡、大分県境の英彦山(1199メートル)に800軒超の建物跡があることを、福岡県添田町がレーザー測量で確認した。英彦山は江戸時代、「英彦山三千 八百坊」とうたわれるほど栄え、その数字は人口3千人、800坊を意味するとされてきたが、詳細は不明だった。今回の調査で国内最大規模の山伏集落の姿が初めて克明になった。
測量は山頂から中腹までの約6・9平方キロで実施。上空から40センチ四方ごとにレーザーを照射して地表の高低差を測定し、山伏が暮らした宿坊や仏堂などがあったとみられる平たん面を800余カ所確認した。集落に通じる古道や「窟」と呼ばれる修行場の岩穴も見つかった>
●ヤフーニュースは釣りタイトル?本来のタイトルはまともだった!
ただ、勘違いしてしまったのは私だけではありません。
はてなブックマークでも誤解する人が続出していました。
“見出し見て現在まで800世帯以上の山伏が世を忍んで修行しているんかと勘違いしてだいぶびっくりした。”(tsumakazu 2015/11/22)
“一瞬、現代の話かと思った。”(sumida 2015/11/22)
“ひっそりと暮らしていた山伏が今発見されたのかと一瞬思った。”(aceraceae 2015/11/22)
“なんだよ、現代日本にまだ発見されてない部族が存在したのかと思っただろ。”(t_yano 2015/11/22)
“今も集落が現役で存在するのかと思った”(kalmalogy 2015/11/22)
“私も見出しで今の話かと思ってびびった。都市伝説系オカルトサイトで見る、現代社会と隔離された地図に載っていない村落があって、近寄ると昔の格好をした住民に追い返されるみたいな。”(chico_chica 2015/11/22)
はてなブックマークでは、他に、“「山伏集落800軒」をちゃんと「山伏集落”跡”800軒」としなかったのはPV狙いなのか、単にみすなのか”(theatrical 2015/11/22)というコメントがありました。私もアクセス狙いだった可能性はあると思います。
私がアクセス狙いの釣りタイトルにわざとしたのでは?と思ったのは、ヤフーニュース版ではなく、西日本新聞版では
山伏集落800軒確認 英彦山、江戸期の繁栄裏付け 福岡・添田町 - 西日本新聞(015年11月21日 23時00分)となっていて、タイトルが違っていたためです。
西日本新でも「跡」という言葉がないものの、「江戸期の繁栄裏付け」があるため、過去の話だとわかります。誤解する人は少なかったでしょう。ヤフーニュースと他でタイトルが異なることはたまにあります。ヤフー側で勝手につけているかどうかはわかりませんけど、まんまと一杯食わされたのかもしれません。
●武家と結び宗教独立国家として栄えた英彦山 衰退の理由も実は…
2018/09/09:英彦山(ひこさん)の山伏について、
Wikipediaから補足。英彦山は羽黒山(山形県)・熊野大峰山(奈良県)とともに「日本三大修験山」に数えられ、山伏の坊舎跡など往時をしのぶ史跡が残るそうです。
山伏の修験道場として古くから武芸の鍛錬に力を入れ、最盛期には数千名の僧兵を擁し、大名に匹敵する兵力を保持していたとのこと。自己責任で登るロッククライミングの名所となっているのすけど、これも本来山伏の修行場であったそうです。
また、
英彦山(ひこさん)七年戦争 大友義統の侵略を撃退した霊山 ( 歴史 ) - 鳳山雑記帳 - Yahoo!ブログというブログさんによると、英彦山の鎌倉時代の初代座主長助法親王は光巌天皇の弟で、代々その子孫が座主を受け継いでいました。同時に、歴代座主は武家と結ぶことで権力の基盤としました。戦国時代には三千の僧徒と八百の坊を誇る一種の宗教独立国家を成し、英彦山の力は宗教界ばかりではなく世俗にも強い影響力を持っていたといいます。
ところが、この武家と結んだことは、衰退のきっかけにもなっていたんですね。再びWikipediaによると、秋月種実と軍事同盟を結んだがために、天正9年(1581年)10月、敵対する大友義統の軍勢による焼き討ちを受けます。1ヶ月あまり続いた戦闘によって多くの坊舎が焼け落ち、多数の死者を出して大きく勢力を失いました。
その後、英彦山を焼き討ちした大友氏も衰退しましたが、英彦山復活…とはならず。新領主として豊前に入った細川忠興が強力な領国経営を推し進めたため、さらに衰退したという説明でした。
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