琉球王国の話をまとめ。<中国に対しては皇帝の臣下なのに、国内では天子として振る舞う>、<日本は沖縄を侵略してた?琉球王国と薩摩藩島津氏・中国との関係>、<ロシアのウクライナ侵攻正当化ロジックを琉球侵略との類似性>などをまとめています。
2023/01/12追記:
●ロシアのウクライナ侵攻正当化ロジックを琉球侵略との類似性 【NEW】
●三山統一し琉球王国成立の尚巴志王、本当の名前はわかっていない
2022/09/28:琉球の歴史を最初からやると当然長くなります。どこからやるか?と悩みました。節目の一つは三山統一による琉球王国成立だろうな…ということでここから。
琉球王国 - Wikipediaによると、1429年(宣徳4年・永享元年)、第一尚氏王統の尚巴志王の三山統一によって琉球王国が成立したと考えられています。
この時点でいろいろと用語が出てきますね。尚巴志王は「しょう はしおう」と読み、「尚」が姓。名前的には王を抜いた「尚巴志」であるようです。ただし、
尚巴志王 - Wikipediaによると、研究者の間では、「尚巴志」は当て字であるとの考えが共通認識。正しい読み方は諸説あり、定説といえるものはまだないといいます。
・琉球文学研究者の池宮正治などによる「しゅあじ(小按司)」説や、おもろさうしに出てくる「ちやうはち(チョーハチ)」説
・球歴史研究者の上里隆史などによる「さばち」説や「しょうあじ(小按司)」説
・漢文学者の石井望による、『皇明實録』所載の蘇惹爬燕之、師惹、思紹とともに山南領域の「すざ(べじ)」(兄、王)とする説
・尚巴志王の童名とされる「さはち」説
また、「第一尚氏」(だいいちしょうし)は普通なら単に「尚氏」と言うところなのですが、後に別の「尚氏」が出てくるため、「第一尚氏」「第二尚氏」と区別するそうです。それから、「三山統一」というのは、
三山時代 - Wikipediaの以下のような説明を見るとわかるでしょう。
<沖縄本島では14世紀に入ると、各地で城(グスク)を構えていた按司(引用者注:あじ、あんじ、称号および位階の一つ)を束ねる強力な王が現れ、14世紀には三つの国にまとまった。南部の南山(山南)、中部の中山、北部の北山(山北)である。三山統が鼎立する時代が約100年続いた。いずれも朝鮮と中国に朝貢し交流を深めたが、中山の佐敷(引用者注:さしき、沖縄本島南部の地名)按司が勢力を増し、1405年に中山を、1416年に北山を、1429年に南山を滅ぼして、初めて琉球を統一した。
中国の『明実録』、『明史』といった史料にあるように、正式な国名は中山、山南、山北であったが、後に『中山世譜』などで中山の表記に合わせて南山、北山と書かれるようになったことから、山南(南山)、山北(北山)と双方の名称が混在するようになった。どちらを使用しても間違いにはならない>
●日本・中国・朝鮮だけでなく、ジャワやマラッカとも貿易し繁栄
2022/10/17追記:尚巴志王の三山統一によって誕生した琉球王国は、大和(日本本土)や中国(明)・朝鮮半島(李朝)はもとよりジャワやマラッカなどとの交易を積極的に拡大。第一尚氏王統、第6代の尚泰久王(1415年 - 1460年6月23日)は、万国津梁の鐘を鋳造せしめ、海洋国家としての繁栄を謳歌したといいます。
このように書かれていると第一尚氏王朝は盤石のように見えますが、
琉球王国 - Wikipediaでは「一方で第一尚氏の権力基盤は不安定であった」とも書かれており、わかりづらいです。業績は好調な一方で、社内の権力闘争が激しく創業者一族ですら安泰ではない会社ってイメージですかね。
ウィキペディアによると、第一尚氏王統では、三山統一後も依然として地方の諸按司や豪族の勢力が強く、王府が有効な中央集権化政策を実施できなかったとのこと。まず、前述の第6代の尚泰久王は、そもそも王位継承権争いの両者が滅んだため即位した…という特殊な継承の仕方でした。これは第一尚氏一族内での権力闘争です。
<志魯・布里の乱(しろ・ふりのらん)は、1453年に琉球王国第一尚氏王統・第5代尚金福王の死後、王位をめぐって王世子・志魯と王弟・布里が起こした争い。の乱で当時の首里城は焼失し、志魯は死に、布里は首里を追われた。(中略)乱後、王位は尚忠王・尚金福王・布里らの弟にあたる尚泰久が継ぐこととなった>(
志魯・布里の乱 - Wikipediaより)
即位後も、有力な按司の阿麻和利(あまわり)や、同じく有力な按司の護佐丸の乱が起き、これを平定。このことは三山統一後も豪族の力が非常に強かったことを示しているとのこと。さらに、尚泰久が抜擢した重臣・金丸(尚円王)のクーデター(1469年)により、後継の尚徳王が殺されて、第一尚氏王統は63年間で終わってしまいま
す。
●中国に対しては皇帝の臣下なのに、国内では天子として振る舞う
2022/11/09追記:前回の最後で書いたように、海洋国家としての繁栄を謳歌していた時期の第一尚氏王統、第6代の尚泰久王が抜擢した重臣・金丸は、次の王である尚徳王を殺すクーデターを起こしてしまいました。そして、この金丸が位を継承。これが、前々回書いた「第二尚氏王統」となったそうです。
<1469年(成化5年・文明元年)、尚泰久王の重臣であった金丸 (後の尚円王)が、尚徳王の薨去後、王位を継承し、第二尚氏王統が成立した。王位継承に関しては、正史では重臣たちの推挙によって即位したと記されているが、尚徳王の世子は殺害されており、クーデターによる即位であったと考えられている>
金丸がクーデターを起こしたように、第一尚氏王朝は極めて不安定でした。一方、第二尚氏王統は、初代国王尚円王(金丸)の子で第3代国王である尚真王の時代(在位1477年(成化13年) - 1527年(嘉靖5年))に地方の諸按司を首里に移住・集住させ、中央集権化に成功。領土的にもこのときが最大であったようです。
<彼の治世において、対外的には1500年(弘治13年・明応9年)には石垣島に侵攻してオヤケアカハチの乱(八重山征服戦争)を制し、さらに1522年(嘉靖元年・大永2年)には与那国島に侵攻して鬼虎の乱(与那国島征服戦争)を鎮圧、先島諸島全域を支配下に治めた。1571年(隆慶5年・元亀2年)には奄美群島北部まで征服し、最大版図を築いた>
琉球王は、明国に対しては冊封国として、中国皇帝の臣下とされていました。一方で、国内では、時に琉球王を天子・皇帝になぞらえるなど、独自の天下観を見せた可能性が指摘されています。実を言うと、これは当時よくあった形で、昔の日本自体が中国の臣下となりつつ、国内では「天子」(天皇)という形をとっていました。
<このような姿勢は、漢族や非漢族による、中国地域に成立したいわゆる『中原王朝』に(中原王朝から見て)朝貢していた時代の日本、越南、朝鮮、その他諸国に広くみられる態度である。前近代においては、自国および他国の国家の元首の格付けを、対象とする地域や相手によって、都合よく操作することはよくあることである>
●日本は沖縄を侵略してた?琉球王国と薩摩藩島津氏・中国との関係
2022/12/01追記:前回の小見出しを<中国に対しては皇帝の臣下なのに、国内では天子として振る舞う>としたように、琉球王国は中国皇帝の臣下となりつつも、琉球国内では「皇帝」のようにふるまいます。それから、これまた前回書いたように、第一尚氏時代と違い、第二尚氏王朝は安定していたのが特徴でした。
ところが、この第二尚氏王朝にも危機が訪れます。敵は琉球国内ではなく、当時中国を支配していた明国でもありません。日本です。きっかけと言えそうなのが豊臣秀吉の悪名高き朝鮮出兵で、琉球王国に助力を求めたものの、前述の通り、明の冊封国であるなどといった事情から十分に協力しなかったことでした。
<16世紀後半、時の大和天下人・豊臣秀吉が明とその進路にある李氏朝鮮を征服しようとし、琉球王国に助勢するよう薩摩の島津氏を通じて直接これを恫喝したが、王府の財政事情や明の冊封国である事から、要求の兵糧米の半分を差し出すに留まり、残りの兵糧と軍役は薩摩藩が負担した>
朝鮮出兵は豊臣家の衰退につながったことが指摘されており、豊臣家は秀吉の次の代で滅亡。ただ、薩摩藩は琉球王国が協力せずに負担させられたのを取り返そうとしたのか、もともと琉球支配を狙っていたのか、琉球に侵攻。琉球は古来島津氏の附庸国だとも主張しており、今で言うロシアのウクライナ侵攻みたいなロジックですね。
<1609年(万暦37年・慶長14年)、島津氏の渡航朱印状を帯びない船舶の取締りや、徳川への謝恩使の再三の要求に最後通牒を突き付けられてもなお応じず黙殺したため、家康・秀忠の許しにより、薩摩藩は琉球侵攻に乗り出した。島津氏は3000名の兵を率いて3月4日に薩摩を出発、3月8日に奄美大島に進軍。3月26日には沖縄本島に上陸し、4月1日には首里城にまで進軍した。島津軍に対して、琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて抗したが敵せず敗れた。4月5日には尚寧王が和睦を申し入れて首里城は開城した。
これ以降、王国代々の王と三司官は「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文の薩摩藩への提出を命じられ、「掟十五条」を認めさせられるなど、琉球王国は薩摩藩の付庸国となり、同藩の間接支配下に入る事になる。薩摩藩への貢納、中城王子(王世子)の藩への上国を義務付けられ、謝恩使・慶賀使の江戸上りで幕府に使節を派遣した>
これを理由に今の中国による沖縄支配を正当化されちゃうと困るのですが、当時めちゃくちゃなことをやっていたのは事実。また、ややこしいのが、この薩摩藩による侵攻後もなお、琉球王国は中国皇帝の配下でもあり続けた…ということ。依然として相手によって立場を使い分けているという複雑なふるまいをしていました。
<その後、明に代わって中国大陸を統治するようになった満州族の王朝である清の冊封下でもあり続け、薩摩藩と清への両属という体制をとりながらも、琉球王国は国としての体裁を保ち、独自の文化を維持した。琉球が征服してから年月の浅かった奄美群島は薩摩藩直轄地となり王府から分離されたが、表面上は琉球王国の領土とされ、中国や朝鮮からの難破船などに対応するため引き続き王府の役人が派遣されていた。>
●ロシアのウクライナ侵攻正当化ロジックを琉球侵略との類似性
2023/01/12追記:前回、<日本は沖縄を侵略してた?琉球王国と薩摩藩島津氏・中国との関係>のところで薩摩藩の琉球侵攻について、「琉球は古来島津氏の附庸国だとも主張しており、今で言うロシアのウクライナ侵攻みたいなロジック」と書いていました。このロシアのロジックについて、知らない人は知らないと思うので補足しておきます。
プーチン大統領は、2021年7月12日に『ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について』という論文を発表。タイトルで大体わかるように、「ロシア人とウクライナ人は歴史的には同じ民族」と主張。ロシアのウクライナ侵攻も「他国への侵攻ではなく、単に危険組織を排除するだけ」といったロジックになっています。
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ロシア人とウクライナ人の歴史的一体性について - Wikipedia<論文の中で、プーチンは、ロシア人とウクライナ人は、ベラルーシ人と共に、歴史的に三位一体のロシア民族として知られている民族の一つであると主張している[3]。この主張を補強するために、プーチンはロシアとウクライナの歴史についての自身の見解を詳細に説明し[4]、ロシア人とウクライナ人は共通の遺産と運命を共有していると結論付けている[5]。
この論文は、独立国家としてのウクライナの存在を否定している[6]。ウクライナには多数のロシア人がいることに着目し、プーチンは「ロシアに対して攻撃的な、民族的に純粋なウクライナ国家の形成」をロシア人に対する大量破壊兵器の使用と比較している[7]。
プーチンは、ウクライナの現代の国境の正当性に公然と疑問を投げかけている[8]。プーチンによれば、現代のウクライナは歴史的なロシアの土地を占領しており[8]、17世紀以来の、外部の力によって計画された「反ロシアプロジェクト」であり、ソビエト連邦の間に行われた行政的および政治的決定である>
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