日本三大仇討ちとは、曾我兄弟の仇討ち(1193年、『曽我物語』)、鍵屋の辻の決闘(1634年、伊賀越えの仇討ちとも)、元禄赤穂事件(1702年、『忠臣蔵』)だそうですが、私は最後の忠臣蔵しか聞いたことがありませんでした。
おそらく忠臣蔵は説明無用で、皆さんも「仇討ち」と聞いてパッと思い浮かぶのは、赤穂浪士が主君浅野内匠頭長矩の仇討ちで吉良上野介義央の屋敷へ討ち入りするという話でしょう。
ということで、他の話を調べてみます。
まず、曾我兄弟の仇討ち。
Wikipediaによると、
(1) 工藤祐経(すけつね)と叔父・伊東祐親(すけちか)で所領争いがあった。(Wikipediaは名前だけで説明していましたが、似ているので混乱してしまいました)
(2) 安元2年(1176年)10月、工藤祐経は郎党二人に伊東祐親を待ち伏せさせる。郎党らの放った矢は、工藤祐経の嫡男・河津祐泰に当たり死ぬ。郎党2人は暗殺実行後、すぐに伊東方の追討により殺される。
(3) 死んだ河津祐泰の妻は曾我祐信と再婚し、曾我姓となる。なお、伊東家は平家方につき没落し、工藤祐経は源頼朝に従って、頼朝の寵臣となった。
(4) 弟の箱王丸は、文治3年(1187年)、源頼朝が箱根権現に参拝した際、工藤祐経を見つけ、復讐しようと付け狙うが、逆に祐経に諭されて「赤木柄の短刀」を授けられる。
(5) 箱王丸は縁者にあたる北条時政を頼り、元服し、曾我五郎時致となる。その後、時政は曾我兄弟の最大の後援者となる。なお、兄は早くに家督を継いで、曾我十郎祐成と名乗っている。
(6) 曾我兄弟は、建久4年(1193年)5月、源頼朝が富士の裾野で盛大な巻狩を開催した際に、工藤祐経の寝所に押し入る。酒に酔って遊女と寝ていた祐経を起こして、討ち果たす。このとき、五郎時致は祐経から貰った「赤木柄の短刀」で止めをさした。
兄十郎は騒ぎを聞きつけて集まってきた武士たちに討たれ、弟の五郎は頼朝の館に押し入ったところを、取り押さえられ、後に斬首。
弟の五郎は頼朝の宿所を襲おうとしていますが、直接関係ないのに不思議な話です。それで、兄弟の後援者であった北条時政が黒幕となって頼朝を亡き者にしようとした、という暗殺未遂事件でもあったとの説があるようです。
次の話がおもしろかったので二つに分けますが、こちらは逆に少し短いです。
ですので、仇討ち(敵討ち、かたきうち)についての話を少し。
仇討ちは江戸時代に入って法制化されますが、おもしろいことに許可制です。(
敵討より)
無許可の場合だと認められず、ただの殺人とされてしまうこともあるそうです。
でも、成功するまで帰れないので、むしろ黙ってたほうが良かったなんて話も、聞いたことがあります。実際のところ、どうなんでしょう?
あと、妻が姦通した際に姦通相手と妻を殺害することを女敵討(めがたきうち)というのですが、これは武士にとっては義務であるものの、たとえ達成しても名誉にはならないため、表沙汰にせずに内々で示談にするケースもあったとのこと。
それから、妙な説として、正月の初夢に見ると縁起が良い夢である「一富士、二鷹、三なすび」が「三大仇討ち」にちなむというものがありました。
「曾我兄弟の仇討ち」(仇討ち場所が富士の裾野)、「赤穂浪士の討ち入り」(浅野家の家紋が「丸に違い鷹の羽」)、「伊賀越えの仇討ち」(伊賀国はなすびの産地)からという珍説です。
仇討ちが縁起いいのかというと疑問ですが、成功しているんですから、まあ、良いとも言えそうです。でも、随分と血生臭い初夢ですよね。
といった感じで、後半
日本三大仇討ち 鍵屋の辻の決闘(伊賀越えの仇討ち)へ。
関連
■
日本三大仇討ち 鍵屋の辻の決闘(伊賀越えの仇討ち) ■
その他の歴史について書いた記事 ■
士農工商とは ■
鎖国の良かった点、悪かった点 ■
もののふ診断、戦国武将占い ■
志筑忠雄(中野柳圃) 多くの重要な訳語を作った人
Appendix
広告
【過去の人気投稿】厳選300投稿からランダム表示
・
・
・
・
・
・
・
・
・
・
|