2019/02/24:
●明治天皇は北朝なのに、南朝正統説を支持していた明治維新の志士たち
●今の天皇は偽物?戦前は北朝の天皇に向かって「正統は南朝だ」と言っていた
●南朝正統説決定の余波? 我こそは正当な天皇という人、続々現れる
●明治天皇は北朝なのに、南朝正統説を支持していた明治維新の志士たち
2019/02/24:保守派の雑誌SAPIO2019年4月号で、右派がよく引用する現代史の研究者秦郁彦さんと、中世史の専門家・本郷和人さんとの対談が載っていました。
タイトルは、
天皇は「玉」 明治維新志士は天皇をいかに利用するか考えた NEWSポストセブン / 2019年2月23日 7時0分というもの。このタイトルに関係する部分は、
秦郁彦、天皇は明治維新の志士にとって政治利用の手駒に過ぎなかったと指摘で紹介しています。今回は天皇陛下を敬っていなかった関連で、南朝正統説についてです。
明治維新の志士たちが忠誠を誓った明治天皇は北朝の子孫。では、彼らが明治天皇の属する北朝を正当としていたのか?と言うと、なんと違います! 本郷和人さんによると、倒幕を果たした西郷隆盛らの根幹にあった水戸学では、南朝が正統であるなど、南朝正当派が多かったようです。不思議ですね。
秦郁彦さんによると、明治維新の志士たちは、楠木正成に自らの立場を重ねて賞賛していました。楠木正成というのは、建武の中興で功績のあった人。そして、建武の中興というのは、後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して京都に還幸し、天皇親政を復活したというもの。そして、後醍醐天皇というのは、南朝の初代天皇でした。やはり、南朝を支持していたという逸話です。
●今の天皇は偽物?戦前は北朝の天皇に向かって「正統は南朝だ」と言っていた
秦郁彦さんは、北朝の子孫である明治大帝を前にして南朝正統を主張するのは、「おまえさんは妾の子だよ」というようなもの、という言い方もしていました。先頭に立ったのが山縣有朋ということで、やはり明治維新の有力な志士です。
なんと南朝の正統性を国家として認めた枢密院会議というものまであったので、ガチで南朝派だったとわかります。明治天皇をバカにしていますね。『明治天皇紀』には、枢密院会議に「明治天皇ご欠席」と書いてあるとのこと。秦郁彦さんは、「明治天皇なりの抵抗だったのでしょう」と見ています。
先の楠木正成は戦中も称賛されていた人であり、明治維新から流れが続いていたのでしょう。戦前に東京帝大教授だった平泉澄さんも、北朝の流れを汲む昭和天皇に対し、建武の中興で功績のあった楠木正成を褒め称えたとのこと。昭和天皇は「後醍醐天皇にも失政があったのではないか」と言ったそうで、頭にくるものがあったのかもしれません。
●南朝正統説決定の余波? 我こそは正当な天皇という人、続々現れる
南朝の正統性を国家として認めたことは、別の問題も引き起こしたかもしれません。
後南朝 - Wikipediaには、以下のような記述があります。
<太平洋戦争後には西陣南帝の子孫を称する「熊沢天皇」こと熊沢寛道など、自らを正統な天皇の継承者と称する自称天皇たちが現れたとき、その多くは1911年(明治44年)に明治天皇の裁断によって
南朝が正統とされたことを受けて、後南朝の子孫と主張していた>
第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」が数多く出ました。「熊沢天皇」はその最も有名な「自称天皇」。
彼のWikipediaにも、当然南朝のことが触れられていました。
"熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする"
「天皇は裁判権に服さない」という理由で棄却されましたが、熊沢天皇は、東京地方裁判所に「天皇裕仁(昭和天皇)は正統な南朝天皇から不法に帝位を奪い国民を欺いているのであるから天皇に不適格である」と訴えたこともあったそうです。
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