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朝鮮半島の恨の文化 何年も人を恨むのは韓国人だけって本当?


 韓国の「恨(ハン)」と呼ばれる感情は、日本などの海外にはない韓国特有の文化だとされています。日本人も誰かのことを恨みに思うことはあるものの、韓国人のように何年も同じ人を恨みつづけるということは滅多にないとも言われていました。ただ、アンケート結果などを見ると、間違った説明のようです。

冒頭に追記
2022/03/02追記:
●一生恨むどころか死んでもなお許さない「末代まで祟ってやる」
●200年以上経ってもまだ恨んでいる!昭和10年になってもまだ祟り
2022/03/12追記:
●日本人の代表「天皇」すら「死んでも許さない」…日本三大怨霊に
●昭和天皇も崇徳天皇の恨みを気にしていた?昭和39年でも特別配慮
2022/03/19追記:
●復讐心強くいつまでも恨みを忘ない…関係者が明かす首相の素顔 【NEW】


●一生恨むどころか死んでもなお許さない「末代まで祟ってやる」

2022/03/02追記:この投稿を読み直していて思ったのが、むしろ日本が恨みが長く続くという文化を持っているのではないか?ということ。次から次とと思いつくことがあります。今回の追記は「末代まで祟る」という日本特有の言い回しの話。一生恨むどころか、死んでもなお許さないという恨みの強さです。

 「末代まで祟る」は創作でよく出てくるものですが、たとえ創作であったとしても「長く恨む」という概念が日本人に違和感のない馴染みあるものであるという証拠になっています。また、Wikipediaを見ていると、実在の人物が実際に「末代まで祟る」と言ったと信じられている例がいくつか見つかりました。

大竹与茂七 - Wikipedia
<大竹 与茂七(おおたけ よもしち、延宝4年(1676年) - 正徳3年6月2日(1713年7月23日))は越後国新発田藩領中之島村(旧新潟県南蒲原郡中之島町・現長岡市中之島)の名主(なぬし)である。子孫には政治家の大竹貫一、女優の大竹しのぶがいる>
<宝永元年(1704年)、刈谷田川の大洪水の時、中之島村の名主であった与茂七は村内の堤防決壊を防ぐため、緊急の措置として自分の山の木を切り出して堤防の補強を行った。そしてさらに足りない分を、藩有林を無断で伐ると極刑になることを承知の上で、藩有林と大庄屋星野儀兵衛の山の木を切って補った。村人は助かり、与茂七に感謝し喜び合った。
 しかし、影で農民達に人気のある与茂七に妬みを持つ大庄屋儀兵衛ら数名は、村人達を助けたことを逆恨みし、役人に密告した。数日後、役人に捕らわれ、新発田城下の白州に引き出され、藩有林を無断で伐採したことを咎められた。(中略)
 最後の裁判が開廷し、自分の意見を告げるがその甲斐なく、与茂七は縄で縛られ、口を無理に開けられ釘抜きで歯を抜かれた。すさまじい叫びと血が白州を赤く染めた。その時、与茂七は「役人や自分を罠に陥れた者に末代まで祟ってやる」と叫んだ>

革秀寺 - Wikipedia
<革秀寺(かくしゅうじ)は、青森県弘前市にある曹洞宗の寺院。(中略)本堂などは重要文化財に指定されている>
<もとは弘前藩祖津軽為信が慶長年間(17世紀初)、現在の藤崎町に創建したもので、為信が帰依した長勝寺8世の格翁舜逸が、自らの隠居所としたという(津軽一統志)。
 津軽為信が没した翌年の慶長13年(1608年)、弘前藩2代藩主津軽信枚が藤代村(現在の弘前市藤代)に移し、父・為信の菩提寺としたと伝える>
<高岡(鷹岡、後の弘前)からほど近い藤代にある館に、美人で名高い藤代御前と呼ばれる女主人がいた。津軽為信が側室にと呼び出したところ藤代御前は(為信に夫を殺されて恨んでいたともいわれ)これを拒否したので、為信は実力行使で従わせようと兵を差し向けた。藤代御前はそれでも断固拒否し、妹と家来達と共に館に立て篭もって戦いに及び「為信のみならず末代に至るまで祟ってやる」と言い遺して討ち死を遂げ、岩木川に面する土地に埋葬された>


●200年以上経ってもまだ恨んでいる!昭和10年になってもまだ祟り

 恨み文化というよりは祟り文化と言うべきなのですが、日本で特徴的だと言えそうなのが、亡くなった人の恨みが災厄として現れる…と強固に信じられてきたことです。こうした伝説については次回追記しようと思っていたのですが、実を言うと、上記2つの例がすでに死後の祟りと関連ある事例でした。

 これらは、死んでもなお恨むと考えられていた証拠としてわかりやすいもの。大竹与茂七の恨みの場合なんかは、なんと戦前の昭和10年まで続いていると考えられていました。なんと200年以上経っても、恨みが晴れていないと昭和の日本人は考えていたんですね。日本人が長く恨むと考えていたことがよくわかる話です。

<与茂七火事>
<与茂七が刑に処せられてまもなく、大庄屋や奉行所のこの件に関わった役人達は、次々と気がふれて狂い死に、続いて享保4年(1719年)、新発田城下の町の大半が焼けるという大火事に見舞われた。その大火のおり、町中を飛び回る青い火の玉があり、それが降りたところから火の手が上がるのを見たという人が大勢いた。人々は、「これは与茂七のたたりであるに違いない」と言い出し、この大火を与茂七火事と呼ぶようになった。
 それからというもの、新発田が大火事が起こると、すぐに与茂七火事が引き合いに出されるようになった。昭和10年(1935年)9月13日の新発田大火で、被災地域の中で一軒だけ焼け残った家があったが、その時なども、「与茂七が刑場に連れて行かれるときに、わらじをくれてやった家である」という話が、人々の間でまことしやかに語られるほどである>

<藤代御前>
<それから月日は流れ、津軽家は大名として徳川幕府からも認められ、藤代での出来事が誰の記憶からも薄れていた慶長12年12月(1608年1月)、京都に居た為信が没する。
 為信は死ぬ間際に「藤代御前の呪いを押さえつけるため、自分が死んだら骨を藤代御前の墓の上に葬れ」と遺言した。この遺骨を2代藩主・信枚が京から持ち帰り、格翁舜逸を導師として葬儀を行って藤代御前の墓に被せるように為信を葬った場所が、現在の境内の津軽為信霊屋がある場所と言われる。為信の供養のため革秀寺がここに移されて廟所とされ、以後、歴代藩主から帰依をうけることになった>


●日本人の代表「天皇」すら「死んでも許さない」…日本三大怨霊に

2022/03/12追記:前回も書いた「祟り文化」。当初紹介しようと思っていたのは、菅原道真・平将門と並ぶ日本三大怨霊のひとり、崇徳天皇(すとくてんのう、崇徳院)でした。「天皇」というある意味最も日本人を代表する人が、死後も恨み続けて祟りを起こすと考えられていたというのは、日本の例としてわかりやすいと思ったためです。

 朝日日本歴史人物事典によると、崇徳天皇は平安後期の天皇…なのですが、そもそも5歳で即位しており、もちろん実権はありませんでした。とはいえ、当時は庇護があったのでまだマシ。崇徳天皇を即位させた曾祖父・白河法皇が亡くなると、さらに立場が悪化してしまいます。

<大治4(1129)年法皇が崩じて鳥羽上皇の院政が始まると情勢は一変して厳しくなり,保延6(1140)年源雅定左大将着任をめぐって上皇と対立。翌永治1(1141)年鳥羽上皇の意思によりその寵妃美福門院所生の異母弟体仁親王(近衛天皇)に皇位を譲らざるを得なくなった。
 譲位後は新院と呼ばれ本院鳥羽との対立が激化,そのようななかで近衛天皇が久寿2(1155)年に17歳で急逝すると,崇徳上皇はわが子重仁親王の即位に望みをかけた。が,結局同母弟の雅仁親王(後白河天皇)が即位し,その子守仁親王が立太子するにおよんでその願いも空しく破れた>

 その後、仇敵の鳥羽法皇が亡くなり、チャンスとばかりに他の阻害されていたメンバーと挙兵(保元の乱)。しかし、どこまでもうまくいかない崇徳院(崇徳天皇)は天皇側に敗れ、讃岐に配流されてそこで失意のまま死ぬ…という歴代の天皇でも最高クラスの悲惨な最期を遂げました。(以下は、Wikipediaより)

<天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇の淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだった。その後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。一説には、京からの刺客である三木近安によって暗殺されたともされ、その地に柳田(大正10年1月府中村建立地図)として石碑が立っている>
<国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子の師長が後白河院の側近になっても変わることはなかった>


●昭和天皇も崇徳天皇の恨みを気にしていた?昭和39年でも特別配慮

 ただし、本人が配流先で残した和歌を見ると、悲嘆の感情はうかがえても怨念を抱いていた様子はないとWikipediaでは書いていました。一方で、当時の日本人は「恨んでいた」と信じていたようで、日本最強クラスの怨霊伝説が誕生。また、昭和になっても天皇家が崇徳院の恨みを気にする対応をしており、これもまた日本人の代表である天皇すら長く恨むと考えていた…と言えるかもしれません。

<崇徳院の怨霊についても意識されることはなかった。
 ところが安元3年(1177年)になると状況は一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。(中略)安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去している。後白河や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる>
<明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建した。
 昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている>


●復讐心強くいつまでも恨みを忘ない…関係者が明かす首相の素顔

2022/03/19追記:インドのモディ首相の投稿を読み直していると、インドのモディ首相で「恨みを忘れない」というエピソードがあったのでこちらでも紹介。モディ首相はインドで主流であるヒンズー至上主義者で、反イスラム主義者でもあり、日本で言う民族主義的右派なタイプの人です。

 <〔焦点〕次期インド首相候補として頭角現すグジャラート州首相、過去の宗教暴動で傷も>(2012年 10月 30日 17:09(Matthias Williams、Annie Banerji 記者;翻訳 長谷部正敬 ロイター)によると、政権の当局者や現地の企業関係者は、まず、モディ首相を記憶力が優れているなどと褒めていといいます。
http://jp.reuters.com/article/domesticEquities4/idJPTK822543820121030

 一方で、<復讐心が強く、いつまでも恨みを忘れず、反対派を容赦しない人物だ>という一面にも。そんな独裁者タイプの人なので、当然、実名では言えません。匿名を条件にインタビューに応じたある政府関係者は「もしあなたがモディ首相から嫌われていれば、あなたの未来はないだろう」と語ったそうです。


●何年も同じ人を恨むのは韓国人だけ 日本にはない恨(ハン)の文化

2015/12/22:冒頭で書いたように、韓国には日本にはない恨(ハン)の文化があり、何年も同じ人を恨むのは韓国人だけと私は聞いたんですよね。Wikipediaにもこの恨(ハン)に関する項目がありました。こちらだとどのように書いているでしょう? <この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分>という信頼性の低い記事ですが、読んでみます。

<ハンは、朝鮮文化における思考様式の一つで、感情的なしこりや、痛恨、悲哀、無常観をさす朝鮮語の概念。歴史学者古田博司は朝鮮文化における恨を「伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望」と説明している>(恨 - Wikipedia 最終更新 2015年4月7日 (火) 12:39より)

 上記のように初っ端から難しくてよくわからん説明でした。その後、朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれや妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれるとも書かれています。


●侵略や支配者からの弾圧…恨の文化は、朝鮮半島の過酷な歴史と関係

 恨の文化は、朝鮮半島の過酷な歴史とも関係あるとのこと。代々の王権や両班による苛斂誅求を極めた階級的支配に対する民衆の抵抗意識と、漢代の昔より幾度となく半島を襲った中国からの異民族(漢族・モンゴル族・女真族ほか)による侵略・征服で永続的な服従を余儀なくされた国辱を引きずっているとされていました。

 この「国辱」は与えた国家にはもちろん日本も含まれており、<日本(大日本帝国)による併合に、後々長い抑圧と屈辱の歴史から生まれたという反日教育もと、内外の圧倒的な力に依存性せざるを得なかった朝鮮半島独特の文化である>との記述。前述の通り、参考文献不十分の信頼性の低いページなんですが、さらに以下のように書かれていました。

<朝鮮の独立が民族運動として失敗して弾圧され、自らの力でなく第二次世界大戦の講和交渉として、頭ごなしに連合軍の力によって達成されたことは、後の世代の「恨」となった。また韓国について言えば、独立後の外圧によって成立した李承晩政権の腐敗した独裁政治、朴正煕の鉄拳統治、さらにそれ以後の軍事政権・光州事件など、内なる弾圧の歴史も「恨」となっている。それで今日得られなかった勝利の代替物として、あるいは抵抗精神の表れとして、例えばスポーツなどにおける日韓戦に必要以上に熱狂したり、与野党の争いや労働組合の労使紛争において激しく激昂して極端に過激な行動をとったりするのである>


●朝鮮半島の恨の文化 何年も人を恨むのは韓国人だけって本当?

 Wikipediaでは、「ルサンチマン」も関連項目で出ていました。うまく書けなかった投稿ですが、以前ルサンチマン(奴隷道徳)とは?で書いています。ルサンチマンというのは、ダメな人の典型みたいな感じですね。

 私は2ちゃんねるやまとめサイトの住人らに、このルサンチマン的なところを感じています。ただ、「恨」のWikipediaの説明を見た感じでは、こちらはもっと幅広い概念な気もしますね。最初に書いたような「何年も同じ人を恨むのは韓国人だけ」みたいな俗な説明はなく、この説明は相当怪しい感じでした。

 ただ、私が気になったのは、こっちの相当怪しい俗な説明の方です。実はもともと紹介したかったのは、日本人の恨みに関するアンケート結果だったんですよ。でも、それだけだと興味を持たれないかと思って、ネットで関心の高い韓国の話とセットにしてみた…という経緯です。

 紹介したかった記事は、「許せない人でもいつかは許す…アリかナシか」という調査をしたもの。「いつかは許す」が「アリ」で、「いつになっても許せない」が「ナシ」。NewsCafeユーザーだけに聞いたという偏りがあるアンケートですが、ほとんどの日本人が全然許さないという結果に。何年も人を恨むのは韓国人だけってのは、嘘なんだと思われます。

【アリ…28.5%】
【ナシ…71.5%】
(恨みはらさでおくべきか!? 7割が「いつまでも許さない!」 NewsCafe / 2015年10月20日 12時0分 [文・能井丸鴻]より)


●人を許さなくて何が悪い?許すか許さないかは被害者が決めること

 記事ではコメントも出ていました。いくつか紹介しておきます。
 
【ナシ…71.5%】
・きっと許せない。それだけの事があったから。
・私は神様でも聖人君子でもないです。
・好きな人を嫌いになっても嫌いな人を好きになるのはあまりない。
・たとえば身内を殺された場合、あなた許せますか!?
・そういう人とは二度と関わらないか、無視して抹消する。
・許せない野郎は死ぬまで憎む、何時かは許すなら始めから憎まない。
・絶対許さん(怒)。

【アリ…28.5%】
・許せないと思う人も、離れて時が経ったら忘れる。その方が幸せ。
・結局疲れちゃうから持続できない
・「許す」と云うより、いつの間にかどーでもよくなっていた…。
・いつまでも執念深く許さないのはかえってシンドイよ。
・他人に嫌な事をする人には各々かわいそうな理由があると思います。
・謝ればね。謝んないだろうね。悪いと思ってないだろうから。

 「疲れちゃうから持続できない」とあったように、一般的に怒り・恨みは持続しづらいと専門家の方がおっしゃっていました。ただ、ひょっとしたらそうでもないのかな?という結果です。また、最後に「謝ればね」というものがありましたが、「謝ったんだから許せよ。何で許さないんだよ」と逆切れするパターンもあります。この話題は韓国・中国絡みだとタブーですけどね。

 とりあえず、一般的には、許すか許さないかは被害者の方が決めることであって、加害者が側が決めることではないというのは正論でしょう。子供のいじめでの加害者や加害者の家族が「謝ったのに!」と憤っている様子を思い浮かべるとわかりやすいです。「許さない方が悪い」って言う主張は、これに加担するものでしょう。

 実を言うと、私も許せないタイプなんですよね。許せる人の方が美しいんでしょうが、なかなかそうはいきません。私のような許せない人たちの心が痛む名言も記事では、掲載していました。例えば、「弱い者ほど相手を許すことができない。許すということは、強さの証だ」(マハトマ・ガンジー)というものです。

 これは誠にその通りだなとは思います。ただ、おもしろいのが、なんと「絶対許すな!」という格言もあること。この相手を許さないという格言は、「悪人を許すことは善人を害するに等しい」というものでした。韓国のことわざでも北朝鮮のことわざでもなく、イギリスのことわざだそうです。イギリス人が一番すごそうですね。


●「選挙の恨みは三代まで」と言われ、恨みを忘れない国とはどこ?

2022/02/02追記:<林芳正氏と安倍晋三氏の対立 地元下関ではタクシーや料亭も両陣営に色分け>(NEWSポストセブン / 2022年1月18日 7時15分)を読んでいて、この投稿のことを思い出す話が出てきました。林芳正議員の林家と安倍晋三元首相の安倍家は3代にわたって地元で政治的ライバル関係にあるというテーマの話です。

「下関は料亭や喫茶店、理髪店、タクシーまで両陣営に色分けされていた。駅前のタクシー乗り場で安倍事務所の秘書と待っているとき、タクシーが来たのに乗らない。『林のところのタクシーには乗れん』と言う。(中略)
 利用する喫茶店や料亭まで別の店で、安倍陣営の会合があるときは女将が気を利かせて林陣営のお客さんは入れないほど徹底していた」(安倍陣営の選挙スタッフを務めた人物)

「安倍陣営は林家の地盤を切り崩すために選挙になると強引なこともやっていた。たとえば“放送局”という方法。秘書が後援会の婦人部隊に林陣営のネガティブ情報を吹き込んで流させる。
 一方の林家は地元で事業をしているから、関連企業の組織力があるかわりに、あまり強引なことをやると評判が下がって商売に影響が出るからやり返せない。忸怩たる思いだったでしょう。『選挙の恨みは三代まで』と言われるが、芳正さんも子供の頃からそういうことを見て育ったから複雑な思いがあるのでは」(安倍晋太郎氏直系の山口県議だった古賀敬章・元民主党代議士)

 ただ、「選挙の恨みは三代まで」を検索してもこの記事以外出てこないので、このことわざ(?)も恨の文化の説明と同じで信頼性は低めです。あと、おもしろかったのが、どちらかと言うと安倍元首相側にネガティブな内容なのに、暴露しているのが全部安倍元首相側の人だということ。味方からも恨みを買っていたんでしょうか…。


●何年経ってもこの恨みは忘れない!有名企業が絶対取引しない銀行

2022/02/24追記:韓国人だけが長く恨むというのは誤解だとわかりそうな逸話をもう一つ。日本最高の企業と言って良く、日本の代表的な企業としてふさわしいトヨタ自動車というのが長く恨む企業なんですよ。うちでは、何年経ってもこの恨みは忘れない!トヨタ自動車と住友銀行の因縁という話をやっていました。

 トヨタは東海銀と旧三井銀行(現三井住友銀行)の2行を優遇した一方、住友銀行とは絶対に取引をしなかったそうです。なぜか?と言うと、住友銀行に恨みがあったためだとのこと。一部ではかなり有名な話みたいですね。三井銀行との合併後も、取引窓口は旧三井銀出身者に限っていたも言われていました。

<戦後の1950年、ドッジ・ライン不況でトヨタが倒産寸前に追い込まれたとき、三井銀(当時は帝国銀行)、東海銀を中心とする銀行団が緊急融資をした。当時、三井・東海と共に主力銀行の1つだった住友銀行(当時は大阪銀行)は、「機屋に貸せても、鍛冶屋には貸せない」と、にべなくトヨタの緊急融資の要請を断り、さらに貸出金の回収に走り、トヨタとの取引を打ち切った。この交渉での心労がたたり、創業者の豊田喜一郎氏は1952年3月に急逝した。
 トヨタの歴代社長は、この仕打ちを決して忘れなかった。65年、トヨタは経営危機に瀕していたプリンス自動車の救済を、プリンスのメインバンクである住友銀の堀田庄三頭取から懇願された。トヨタの石田退三会長は「鍛冶屋の私どもでは不具合でしょうから」と堀田頭取の要請を拒絶した>


【本文中でリンクした投稿】
  ■何年経ってもこの恨みは忘れない!トヨタ自動車と住友銀行の因縁
  ■ルサンチマン(奴隷道徳)とは?

【関連投稿】
  ■韓国人は漢字を書ける?韓国にも音読みと訓読みがあるって本当?
  ■在日韓国人・朝鮮人による凶悪犯罪はわずか1% 全犯罪の98%が日本人犯罪者によるもの
  ■韓国の石油は日本頼み、精製能力がなくて日本経由・ウォンの信頼なくて取引できない説
  ■海外・世界・国際についての投稿まとめ

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