大久保利通の話をまとめ。<権力にうまく取り入ったのは、大久保利通より西郷隆盛の方だった?>、<斉彬派だったのに大久保利通は出世できず…西郷隆盛の策か?>、<災い転じて福となす 西郷隆盛から出世で出遅れたことが幸いに>などをまとめています。
冒頭に追記
2022/10/31追記:
●自殺図った西郷隆盛に大久保利通がかけた感動的な言葉とは? 【NEW】
●西郷隆盛、奄美大島の人を外国人差別用語で呼んで「気持ち悪い」 【NEW】
●愛加那は妻ではなく召し使い扱い?痩せてたのに豚になった理由 【NEW】
大久保利通 (講談社学術文庫) 佐々木 克 (監修)

●自殺図った西郷隆盛に大久保利通がかけた感動的な言葉とは?
2022/10/31追記:東洋経済オンラインでやっている大久保利通の連載。「何かと誤解の多い大久保利通の実像に迫るのが、本連載の目的」とされています。ただ、実像ではなく、大久保利通の美化的なところも感じちゃうのは気になるところで、悪い話が全然ない一方で、いい話が圧倒的に多いですね。
例えば、
自殺図った西郷隆盛に大久保がかけた胸刺す言葉 | 近代日本を創造したリアリスト 大久保利通の正体 | 東洋経済オンライン(真山 知幸 : 著述家 2021/11/21)でタイトルになっていたのは、以下のような「いい話」でした。月照とともに海に身投げしたものの1人だけ死にきれずに生き残った西郷に対して、現場に駆けつけた大久保がかけた言葉だといいます。
「月照があの世に逝き、あなた一人が生き残ったのは、決して偶然ではありません。天が、国家のために力を尽くさせようとしているのです。どうか、これからは自死など考えることなく、自重して国家のために尽くしてください」(『大久保利通伝』より)
<西郷は、薩摩藩11代藩主で自身を引きたてた島津斉彬が死去したときも、墓前で自殺を図ろうとしている。大久保は3歳年下の後輩の身でありながら、「生き残ったからには、やるべきことをやれ」と、西郷がまたヤケを起こさないように釘を刺しながら、叱咤激励したのだ>
●西郷隆盛、奄美大島の人を外国人差別用語で呼んで「気持ち悪い」
この回では、「何かと誤解の多い大久保利通の実像に迫るのが、本連載の目的」とした上で、「一方で、大久保とは対照的に英雄視される西郷隆盛もまた、イメージ先行で語られやすい」として、違う面を指摘。私が以前書いたのと同じで、それはそれで人間臭い魅力があるでしょ?とも書かれていました。大久保利通もこのスタンスで書いてほしいんですけど…。
<「私心を持たず、人情に厚く、包容力がある豪快な革命児」
いいイメージをわざわざ覆すことはないのかもしれないが、人間臭い実像がまた別の魅力を引き立たせてくれることがある。書簡を読み解いていくと、実際の西郷は繊細で、また猜疑心が強い一面もあったようだ>
生き残った西郷は「菊池源吾」と改名させられたうえで、奄美大島に島流し。これは幕府から西郷隆盛を隠すためでしたが、「投身入水という女子のしそうな手段を講じて、自分だけ生き残ってしまった」と嘆き。これが繊細な面の逸話みたいですね。一方で、この島流しではうちでも以前書いた差別的なところも見えていました。
<何かと気分が沈みがちな西郷だったが、島民たちが薩摩藩に砂糖の生産を強いられた挙句、搾取されていると知ると激怒。役人の島民たちへの暴力に立ち向かうなど、西郷らしい正義感も発揮している。
しかしながら、西郷が島民たちと心をともにしたかといえば、首をかしげざるをえない。島での生活が5カ月ほど経過した安政6(1859)年6月7日の時点で、こんな心境を大久保らへの手紙に綴っている。
「毛唐人たちとの交わりは極めて難儀で、気持ちも悪い。生き残った人生を恨む」
「毛唐人」(引用者注:けとうじん。外国人を指す差別用語で、今でも右派系の人がたまに外国人に対して使います)とは、島の住民のこと。言葉が通じなかったため、西郷はそう表現したらしい。島民とコミュニケーションがとれないうえに、湿潤な気候も西郷の肌に合わなかった。体調不良に苦しめられた西郷は、少しでも状況を変えるため「せめて転居させてほしい」と親交のある代官に願い出ているほどである>
●愛加那は妻ではなく召し使い扱い?痩せてたのに豚になった理由
島で西郷の世話をしたことが出会いのきっかけで、33歳の西郷が23歳の愛加那を妻に迎えました。2人は仲睦まじく、目の前でイチャイチャするので、周囲が目のやり場に困ったといいます。となると、これはいい話かな?と思いきや、以下のような指摘。お殿様が使用人に熱を上げて手を出すイメージですかね。
<それでも夫婦間は対等な関係ではなかった。結婚して3年が経っても、西郷は愛加那のことを書簡で「召し使い置き候女」と記している。この時代に珍しい認識ではないが、西郷にとってあくまでも愛加那は現地妻にすぎなかった>
ちなみに、西郷といえば、恰幅のいい体格で知られているが、島に流される前はむしろスマートだった…といった話も。寝て食うのがほとんどの島での生活が、西郷を不健康な肥満体へと変貌させたといいます。万延元(1860)年2月28日付の大久保らへの手紙で「豚同様にて」と自虐的に近況を報告しているそうです。
●権力にうまく取り入ったのは、大久保利通より西郷隆盛の方だった?
2022/09/21:西郷隆盛ネタがほしかったのですが、いい話がなし。代わりに検索で多数出てきたのは、真山 知幸(著述家)さんが東洋経済オンラインでやっている大久保利通の伝記的な連載でした。大人気の西郷隆盛と不人気な大久保利通で差が出た理由はいくつかあり、「不器用な西郷に、うまく立ち回った大久保」という構図だとされています。
ただ、大久保利通は当初はむしろ大きく出遅れ。初めの頃に権力にうまく取り入ったのは、西郷隆盛の方でした。大久保利通は、島津斉彬派だった父がお家騒動によって島流し。大久保利通自身も職を奪われた上に長い間謹慎の処分になっていました。出世で出遅れどころか、食うのもたいへんというほど困窮したようです。
<嘉永2(1849)年、「お由羅騒動」と呼ばれるお家騒動がなぜ起きたか。薩摩藩10代藩主の島津斉興が長男の斉彬ではなく、側室のお由羅との間に生まれた久光を後継者にしようとしたのが、そもそものきっかけである。斉興は、長男の斉彬を藩主として担ごうとする一派の動きを察知すると、それを返り討ちにして首謀者たちに切腹や遠島、謹慎などを命じた。
この「お由羅騒動」によって、大久保利通の父、利世は斉彬一派として遠島、つまり、島流しにされてしまう。そのとき、20歳だった利通は、藩の文書を取り扱う記録所で働いていた。だが、父の失脚によって職を奪われることになる>
(
嫌われ者「大久保利通」権力を欲し続けた納得の訳 | 近代日本を創造したリアリスト 大久保利通の正体 | | 社会をよくする経済ニュース(2021/10/31)より)
●島津斉彬派だった大久保利通の父、忘れられて島流しから戻れず?
ただし、島津斉彬自身はその後すぐに権力闘争で勝利。それなのに父の謹慎が解けない…という謎なことになっています。これが「久光派だった」というのならわかるのですが、逆でむしろ斉彬派だったのに長く放置状態。真山 知幸さんは「単に忘れられたのでは?」との予想。そんないい加減なことってあるんでしょうか…。
<長きにわたる謹慎が解けたのは、島津斉彬が薩摩藩11代藩主の座に就き、お家騒動に終止符が打たれたからである。幕府の老中である阿部正弘が働きかけて、斉彬の父で前藩主の斉興は引退に追い込まれている。
しかし、斉彬が藩主になったのは、大久保の父が島流しにされてから、8カ月後のことだ。大久保としても斉彬が藩主となり、すぐに謹慎が解けることを期待したに違いないが、そこから実際に処分が解かれるまでに、実に2年半近くもの月日を要した。
藩主になったばかりの斉彬が、お家騒動の余波が収まるまで待ったのかもしれないが、それにしても長すぎるだろう。単に後回しにされて、忘れ去られていた可能性が高い。大久保家の苦境を思えば、あまりにひどい仕打ちである>
(
下級藩士「大久保利通」が西郷に倣った出世の極意 | 近代日本を創造したリアリスト 大久保利通の正体 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュースより)
●斉彬派だったのに大久保利通は出世できず…西郷隆盛の策か?
前述の通り、父は斉彬派だったのですが、大久保利通はその後も恩恵は受けなかったそうです。また、西郷隆盛の思惑もあって重用されなかったとも解説されています。もっとも西郷隆盛のそうした思惑を、大久保利通が理解していたかどうかは不明だとも、真山 知幸(著述家)さんは指摘されていました。
<西郷の能力に目をつけて自分のそばに置いた斉彬だが、どうも大久保のことは、それほど評価していなかったようだ。西郷だけではなく、若手の人材が登用される中で、大久保はさほど恩恵を受けていない。
安政4(1857)年、大久保は28歳にして藩主の身の回りの世話をする「御徒目付」(おかちめつけ)の役に、西郷と同じく任命されたものの、相変わらず鹿児島で取り残されていた。年が違うとはいえ、西郷は4年前の安政元(1853)年に斉彬とともに江戸へ。将軍継嗣問題にも奔走し、すでに名を広く知らしめていたことを思えば、その差は歴然である。
大久保が江戸に呼ばれなかったのは、西郷の意図も働いていたようだ。国元にとどまっている大久保について、仲間の薩摩藩士から「大久保も江戸に来られるように、働きかけないのか」と聞かれたときに、西郷はこう答えている。
「私の代わりは大久保しかいない。何かが起きたときに、2人とも江戸で倒れるわけにはいかないではないか」>
(
下級藩士「大久保利通」が西郷に倣った出世の極意 | 近代日本を創造したリアリスト 大久保利通の正体 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュースより)
●災い転じて福となす 西郷隆盛から出世で出遅れたことが幸いに
2022/10/16追記:前回書いたように大久保利通は出遅れ。ただ、おもしろいのが、この出世の遅れが有利に働いたこと。西郷隆盛を気に入っていた島津斉彬はこの後すぐ亡くなります。大久保利通は島津斉彬の弟・久光に気に入られますが、西郷隆盛のように活躍してこなかったことで、幕府から目をつけられなかったこともうまく作用しました。
<文久元(1861)年、大久保は御小納戸役(おこなんどやく)に就任して、久光の側近に取り立てられた。32歳にして、異例の大抜擢である。さらに翌年には、御側役へと昇進。これまでのかすみがうそのように、大久保の視界は一気に広がることとなった。
大久保が飛躍しようとしていた、そのときに、先を走っていたはずの西郷はどうしていたかといえば、島に流されていた>
(
すれ違いは昔から?大久保利通と西郷の本当の仲 | 近代日本を創造したリアリスト 大久保利通の正体 | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュースより)
第14代将軍で将軍家の後継争いがあったのですが、これで敗れた一橋慶喜派の人たちは安政の大獄の標的に。一橋派として薩摩と朝廷を結んでいた僧侶・月照もその対象でした。すでに有力者だった西郷隆盛は、「月照を保護してほしい」と近衛家から依頼されます。月照は西郷隆盛の恩人でもあり、当然引き受けました。
ところが、当時はまだ久光が権力を握る前で、父の斉興が再び影響力を持ち、藩内は斉彬時代とは打って変わって、一気に保守化。西郷隆盛自身も幕府から目をつけられていたようで、出世するどころか島流しに。一方で、大きく出遅れた大久保利通が代わりに出世。人間万事塞翁が馬といった感じ。前回書いた西郷隆盛の作戦が功を奏したとも考えられます。
<恩人を助けるつもりが窮地に追い込むことになってしまった。そのことに絶望した西郷は「もう死ぬしかない」と、日向国へ向かう舟の中で、月照を抱えて、海へと身を投げている。
その結果、月照は死去するが、西郷は一命をとりとめた。幕府の目から隠すために、西郷は奄美大島に流されることになる。西郷が島に流されたことで、大久保が若き政治組織「精忠組」のリーダーを担った。
何と皮肉なことだろうか。無名だった大久保には、将軍継嗣問題など、まるで関係のないことである。だが、西郷は違う。すでに影響力を持ちえたからこそ、月照のような有力者とも深く関係し、そのことで結果的には窮地に追い込まれている>
大久保利通 (講談社学術文庫) 佐々木 克 (監修)

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