新選組の話をまとめ。<人斬り集団という新選組の誤解 警備・捕縛が任務で戦死も少ない>、<新選組最大の特徴は「寄せ集め」 仲間内で殺し合いばかりしてた>、<新選組卑怯すぎ!剣士を接待して酔わせた上でみんなで暗殺>などをまとめています。
2022/12/05追記:
●新選組卑怯すぎ!剣士を接待して酔わせた上でみんなで暗殺
2023/05/19追記:
●浪士組・壬生浪士組・新選組・新徴組…関係がよくわからん! 【NEW】
●そもそも漢字表記が謎、「新選組」ではなく「新撰組」が正解?
2019/12/02:
新選組 - Wikipediaなど、新選組関連の話を見ていたら、「えっ、そうなの?」って私が知らない話だらけで驚きました。誤解が多すぎてえらく長くなるので、とりあえず、最初の投稿では2つ、3つだけ書くことにします。
まず、新選組の表記ぶれについて。Wikipediaでは、一般的な「選ぶ」という字の「選」を用いる「新選組」を見出しに採用していました。でも、「撰」の方が「通っぽい」と感じる人もいるでしょう。小説などの創作においては、両方の表記が見られており、併存している状況にあります。
この漢字表記については、本人たちの書いた文書でもまちまちだったみたいですね。新選組の局長近藤勇をはじめ、隊士たちが残した手紙でも両方の字が表記に用いられているということです。ただ、昔の人って案外、漢字表記が適当な感じ。名前でも漢字表記が異なることがちょくちょくあります。
ただし、隊の公印が押された文献は「選」の文字が使用されているとのことであり、こちらの方が正式のようですね。高校日本史教科書でも2004年ごろから「新選組」の表記が増えてきているといいます。
●人斬り集団という新選組の誤解 警備・捕縛が任務で戦死も少ない
創作の影響で誤解が多そうなのが、「人斬り集団」的なイメージ。しかし、京都で活動している不逞浪士や倒幕志士の捜索・捕縛、担当地域の巡察・警備など、警察活動を任務としていました。暗殺ではなく捕縛が主体。捕縛、つまり「生け捕り」を原則としており、犯人が抵抗して捕縛できない場合のみ斬った、といいます。
新選組の名声を高めた池田屋事件においても、斬る方針で戦ったのは最初だけ。当初斬ったのは、敵の人数の方が上回ったためだといいます。しかし、土方隊が到着して新選組が有利になると、方針を捕縛に変更。事件後、近藤勇は「7人を殺し、4人に手傷を負わせ、23人を捕縛した」と報告していました。
なお、ここで出てきた人数の多い・少ないというのは、実を言うと、たいへん重要な部分なのです。新選組の戦法は、必ず敵より多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものでした。たとえば三条制札事件では8人の敵に対し34人の味方を用意し、油小路事件では7人の敵に対し35、6人で襲撃しています。
数に物を言わせて勝つ…というのは、「ずるい」と思うかもしれませんが、現実的で効果的な戦い方だと言えるでしょう。太平洋戦争での日米の差も思い出しますね。油小路事件なんかは、相手を酔わせた上で襲っていました。戦い方としては賢いわけですが、やはり「イメージと違う」とは言えるでしょう。
鳥羽・伏見の戦い以降、新選組の人はガンガン死ぬので、新選組の死者そのものはたいへん多いです。ただ、鳥羽・伏見の戦い以降と以前では傾向が全く違うんですね。なんと鳥羽・伏見の戦い以前の5年間での倒幕志士との戦闘による死者はわずか6名。これも前述の主な任務や戦法の影響がありそうで、イメージと違うところだと思われます。
●新選組最大の特徴は「寄せ集め」 仲間内で殺し合いばかりしてた
いろいろ読んでいて、新選組の最も大きな特徴は「寄せ集め」というところかな?となんとなく思いました。剣豪がいるので「寄せ集めで弱い」という意味ではないのですけど、例えば、剣術の腕も流派も考え方も何もかもバラバラといったところが、「寄せ集め」的なところを思わせるのです。
このように流派がバラバラであったことは、訓練にすら支障をきたしたと予想されています。局長近藤勇、副長土方歳三、一番隊組長沖田総司ら新選組の代表者が天然理心流試衛館の剣客であったことから、新選組所縁の剣術として天然理心流が有名であるものの、他の隊士は神道無念流、北辰一刀流その他でまちまちだったとのことです。
流派がバラバラであって何が問題なの?と思ってしまいますが、当時はたいへん重要だったらしいんですよ。というのも、流派や入隊時期が異なれば形稽古はできなかったせいで、稽古は竹刀打ち込み稽古に限られていたため。その稽古はかなりの激しさだったとされているものの、新選組の「寄せ集め」感が出ているエピソードです。
また、さっき書いた鳥羽・伏見の戦い以前5年間での倒幕志士との戦闘による死者はわずか6名という話には、注意点がありました。実は、本来の任務での死者はほとんど出ていないのに、内部での粛清関連での死者の方がずっと多いというのです。なんと同じ5年間で39名が死んでいます。任務での死者の6.5倍ですから、すごい差ですね。
記録を見る限りでは、新選組は自組織内での相互不信と内部抗争に明け暮れて、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多く、内部闘争での切腹や暗殺ばかりだったとされていました。これはある意味「人斬り集団」的なイメージを肯定するものではあるものの、仲間内での殺し合いばかりというのは、やはりイメージと異なるところでしょう。
また、仲間割れが多かったというのは、思想の違いが影響したと思われ、これまた前述の寄せ集めイメージを強化するものになっています。
●新選組卑怯すぎ!剣士を接待して酔わせた上でみんなで暗殺
2022/12/05追記:仲間割れや思想の違い…といった新選組を象徴する人物のひとりに、伊東 甲子太郎(いとう かしたろう/いとう きねたろう)という人物がいます。最初のときに名前を出した「油小路事件」によって暗殺された人物です。ただ、その前のところから
ウィキペディアを見ていきます。
<天保5年12月3日(1835年1月1日)、常陸志筑藩士(郷目付)鈴木専右衛門忠明の長男として生まれる。初名は大蔵。父・忠明が家老との諍いによって隠居した後、大蔵が家督を相続したものの、後に忠明の借財が明らかになったことから家名断絶となり、一家は領外へ追放される。
大蔵は水戸へ遊学し、水戸藩士・金子健四郎に剣術(神道無念流剣術)を学び、また、水戸学を学んで勤王思想に傾倒する。追放後の父・忠明は高浜村東大橋(現石岡市)にて村塾(俊塾)を主宰し、帰郷した大蔵も教授に当たった。後に江戸深川中川町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門するが、道場主の伊東誠一郎に力量を認められて婿養子となり、伊東大蔵と称した>
元治元年(1864年)10月、新選組に加盟したのは、同門の藤堂平助の仲介によるもの。文脈からしてわかりますが、はっきり書かれていなかったので確認すると、藤堂平助も北辰一刀流ですね。
藤堂平助 - Wikipediaによると、藤堂平助は伊東甲子太郎にも学んでおり、濃い関係でした。
<北辰一刀流開祖・千葉周作の道場玄武館(神田於玉ヶ池)の門弟となり、北辰一刀流目録(中目録免許とみられる)を十代半ばで取得した。
その後、深川中川町にあった北辰一刀流・伊東大蔵(伊東甲子太郎)の伊東道場にも出入りし、後に天然理心流・近藤勇の道場試衛館に入門し、ほどなくして代稽古などを任されるようになった>
さて、伊東甲子太郎は新選組入りしたものの、ウィキペディアではこの時点で呉越同舟であったことを指摘。<しかし、伊東と新選組は攘夷という点で結ばれていたが、新選組は佐幕派で、勤王(倒幕)を説こうとする方針をめぐり、密かに矛盾が生じていた>と書いています。これがその後の離脱に繋がりました。
<西国遊説を終えて、慶応3年3月20日(1867年4月24日)、薩摩藩の動向探索と御陵警備任務の拝命の名目に新選組を離脱し、篠原や鈴木など同志14名と共に御陵衛士を結成する。東山高台寺の月真院に本拠を置いたため、高台寺党と呼ばれた。しかし、新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らの御陵衛士加盟の要望は拒絶している>
すでに新選組を離脱していたため、厳密には新選組同士の殺し合いではないものの、その延長線上にあるとは言えるでしょう。また、この暗殺は前回書いたように、相手を酔わせた上で襲うという卑怯すぎるもの。これは、今回出てきたように、伊東甲子太郎が優れた剣士であったためです。
<近江屋事件から3日後の慶応3年11月18日(1867年12月13日)、伊東は近藤に呼ばれ妾宅にて接待を受ける。酔わされた伊東は、帰途にあった油小路の本光寺門前にて新選組隊士の大石鍬次郎ら数名により暗殺された(油小路事件)。享年34。
伊東は「奸賊ばら」と叫んで絶命したと伝わる。酒に酔わせたうえでの暗殺を企んだのは、北辰一刀流の道場主であった伊東の剣技を警戒したためと思料される>
●浪士組・壬生浪士組・新選組・新徴組…関係がよくわからん!
2023/05/19追記:新選組と字面がよく似て空目しちゃう「新徴組」(しんちょうぐみ)の話をやりたいと思ったのですけど、ここらへんの「~組」について先に整理。まず、これらの「~組」のベースとなったのは、「浪士組」(ろうしぐみ)でした。後の新選組や新徴組のメンバーが、この「浪士組」に参加しています。
文久3年(1863年)2月
「浪士組」(ろうしぐみ)
・江戸幕府将軍・徳川家茂上洛にあわせて、将軍警護のために作られた組織。
・尊皇攘夷論者・清河八郎の発案。
・今まで犯した罪を免除される他、農民であろうと身分を問わず、年齢を問わず参加できる、当時として画期的な組織。
(
浪士組 - Wikipediaより)
幕府の組織なのになぜ尊王攘夷?と思うかもしれませんけど、尊王攘夷と倒幕はイコールじゃありません。天皇家と幕府を両立させる思想もありました。ただし、ウィキペディアによると、幕府が江戸にいる過激な尊皇攘夷浪士達を体よく追い出すための策だったとする説もあるそうで、幕府に好まれていたわけではなかったのかもしれません。
さらに、上記で出てきた発案者である尊皇攘夷論者・清河八郎にいたっては、全然幕府重視ではなく、浪士組を幕府から切り離そうとします。また、後の新選組になるメンバーと意見が対立して内部分裂状態に。挙げ句、清河八郎が斬殺されるなど、清河八郎一派が一掃されて消滅。ここから壬生浪士組(後の新選組、京都警護)と新徴組(江戸警護)に分かれました。
<壬生村に着いた23日・翌24日の2日間にかけて、清河八郎は同志と共に図って浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷(学習院)へ提出。実は浪士組を幕府から切り離した組織にして急進的な尊皇活動に利用してしまおうというものだった。28日から30日にかけて各隊の御所拝観が行われる予定だったらしいが、29日に新徳寺で清河八郎が即刻江戸へ帰還した上での攘夷を唱え、芹沢(引用者注:芹沢鴨)・近藤(引用者注:近藤勇)らが猛反対するという騒動になったため、実際に行われたかどうか定かではない。
3月3日、浪士組に帰還命令が出されるが2度延期され、13日に清河八郎らが率いる浪士組は京都を出立して江戸へ向かった。清河に反対した芹沢・近藤らは京都守護職を務めていた会津藩預かりとなってそのまま京都に残り、「壬生浪士組」を名乗る(後の新選組)。
浪士組が江戸へ帰還した後の4月13日、清河八郎は幕臣の佐々木只三郎・窪田泉太郎ほか4名によって麻布一ノ橋で斬殺され、清河の同志達も次々と捕縛されたため、浪士組は組織目的を失う。幕府は浪士組を新たに「新徴組」と名付けて江戸市中取締役の庄内藩預かりとした。京都守護職会津藩預かりとなっていた「壬生浪士組」は、八月十八日の政変後に「新選組」の名を賜り、名実ともに浪士組は消滅することとなった>
清河八郎 - Wikipediaの方も読んでみると、だいぶ印象が違う書き方。こちらの方が整合性があるようにも見えます。
<虎尾の会を結成。発起人は山岡鉄太郎ら15名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てたが、この密計が幕府の知るところとなる。(中略)
その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁職)に急務三策(1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育)を上書する。尊攘志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組結成が許可された(234名)[7]。上手く幕府を出し抜いて、今度は佐幕派を京に集め出した。文久3年(1863年)2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として浪士組を率い京へ出発。到着した夜に浪士を壬生の新徳寺に集め、本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。
鵜殿鳩翁が浪士組隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留、袂を分かった。翌日、200名の手勢を率い朝廷に建白書の上申を願い出で、幸運にも受理された。
このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は、浪士組を江戸へ呼び戻す。(引用者注:清河八郎は、)江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。
同年4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布赤羽橋(現麻布十番商店街そば)で首を討たれた[8]。享年34>
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